8月1日
20250801金曜日旧暦6月8日先勝(壬寅みずのえとらジンイン)月齢 7.3
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月壬寅みずのえとら日 年末まではあと152日
吉方位 隠遁日 壬寅みずのえとら日 南 大吉
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8月1日の出来事
1798年 – エジプト・シリア戦役: ナイルの海戦が行われイギリスが勝利、地中海の制海権を掌握。
時 1798年7月1日 – 1801年9月2日
(3年2ヶ月1日間)
場所 エジプト, レバント
結果
オスマン・イギリスの勝利
フランスがエジプトを征服、マムルークの統治の終焉
フランスのシリアへの遠征の失敗
エジプトでのフランス統治の終了
損害 オスマンイギリス連合軍 22+3万人 死傷捕虜65000人 フランス軍 4万人中
死傷捕虜23000人
1828年 – マダガスカル島のメリナ王国で、前王ラダマ1世の第一夫人ラナヴァルナ(英語版)が、自分より王位継承順位が上の夫の親族を皆殺しにした上で国王に即位。
1944年 – 第二次世界大戦 ワルシャワ蜂起: ポーランド地下軍とワルシャワ市民がドイツ占領軍に対して蜂起。ソ連及び西側の援助が乏しく、20万人が死亡し全市が破壊された。同年10月2日降伏。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 長岡空襲。死亡1488人。
1953年 – 衆議院の予算審議で右派社会党の堤ツルヨ議員が「断末魔の自由党」と野次ったのに対し、自由党の有田二郎議員が「だまれパン助」と応酬。女性蔑視として問題化。
1955年 – 墨田区厩橋近辺の花火問屋で爆発事故。住民18人が犠牲となり、80名以上が負傷。
1962年 – 昭和37年台風第9号が沖縄県に接近。その後、九州西方の海上を北上して宮崎県、鹿児島県に豪雨をもたらし、死者・行方不明37人などの被害[13]。
1966年 – テキサスタワー乱射事件。死亡15名。負傷31名。
1967年 – 西穂高岳落雷遭難事故: 西穂高岳から下山中の高校生、教員合わせて46人が落雷に遭い、11人が死亡、13人が負傷した[14]。
1989年 – 神奈川県川崎市高津区の住宅地で、集中豪雨による土砂崩れが発生し、住民3人が生き埋めになる。救助活動中に再度土砂崩れが発生、消防士3人が犠牲となり、被災者は合せて死者6人、負傷者12人となった[15]。
1993年 – 鹿児島県霧島市、姶良郡で記録的豪雨(8.1豪雨)。死者23人。
2004年 – パラグアイの大型スーパー「イクア・ボラーニョス」で大火災が発生。400人以上が死亡。
2007年 – ミネアポリス高速道路崩落事故: アメリカ・ミネソタ州のミネアポリスでミシシッピ川に架かる高速道路の橋が崩落、多数の死傷者が出る。死者13人負傷者 145人
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1798年 – エジプト・シリア戦役: ナイルの海戦が行われイギリスが勝利、地中海の制海権を掌握。
時 1798年7月1日 – 1801年9月2日
(3年2ヶ月1日間)
場所 エジプト, レバント
結果
オスマン・イギリスの勝利
フランスがエジプトを征服、マムルークの統治の終焉
フランスのシリアへの遠征の失敗
エジプトでのフランス統治の終了
損害 オスマンイギリス連合軍 22+3万人 死傷捕虜65000人 フランス軍 4万人中
死傷捕虜23000人
1828年 – マダガスカル島のメリナ王国で、前王ラダマ1世の第一夫人ラナヴァルナ(英語版)が、自分より王位継承順位が上の夫の親族を皆殺しにした上で国王に即位。
ラダマ1世は慢性的な酒の飲みすぎが原因で世を去ったと言われている[9]:42。彼の第一夫人が女王ラナヴァルナ1世(英語版)として即位した[9]:45。ラナヴァルナ1世に対する同時代のヨーロッパ人の評判はよくない。理由は彼女がキリスト教の布教を禁じ、領内にいたほとんどの西洋人を追放したためである[9]:61,74。その一方で、ジャン・ラボルド(英語版)のように宮廷に残ることを許された西洋人は事実として存在し、1836年にはイギリスに外交使節も送っている。女王の30年余りの治世は、イギリスとフランスの間でマダガスカルの主権を保つための苦闘の連続であった[11]。女王の人となりはサヴィカ(ゼブの闘牛)を好み、晩年はたびたび輿に乗って野原へ出かけ、庶民に混じって闘牛を見物したという。なお、通説では、ラダマ1世は開明的で進歩的であったのに対し、ラナヴァルナ1世は保守的で頑迷な君主であったと理解されてきたが、ラダマは1825年の時点で既に、イギリスとの同盟が実利を生まず、イギリス帝国主義がメリナ王国をモーリシャス総督の劣位において支配下に置こうとしていることに気づき、アウタルキーを志向する政策の転換を行い、ラナヴァルナはラダマの方針を引き継いだだけという説も提出されている[11]。
1944年 – 第二次世界大戦 ワルシャワ蜂起
: ポーランド地下軍とワルシャワ市民がドイツ占領軍に対して蜂起。ソ連及び西側の援助が乏しく、20万人が死亡し全市が破壊された。同年10月2日降伏。
損害
ポーランド蜂起軍
戦死 15,200
行方不明 5,200 – 6,000
戦病死 5,000
捕虜 15,000
ベーリンク第1軍団
死傷者 5,660
150,000-200,000人の民間人が死亡、70万人がワルシャワから追放
その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民を合わせて約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して警告したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月2日、国内軍はドイツ国防軍に降伏し、蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。
市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出した。
一連の戦闘により、ワルシャワの市街地はほぼ完全に破壊され、歴史的建造物や文書などの文化遺産の多くが失われた。ワルシャワの再建には長い年月を要することとなる。
ソ連軍の進駐
赤軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。
生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになった。1950年代頃まで「呪われた兵士」と呼ばれた森の反共パルチザンとして生き残り、共産政府樹立後も政府要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 長岡空襲。死亡1488人。
被害状況
長岡空襲で焼け野原となった長岡市の中心部。表町通りから六十九銀行をのぞむ[1]。
罹災時の人口 – 74,508人(1945年7月)
爆撃機の数 – B29爆撃機125機(テニアン島第313航空団)
投下爆弾量 – 924.3トン(各種焼夷弾163,456発)
死者数 – 1,488人(長岡市確認分。2019年1月17日時点)[5]
罹災戸数 – 11,986戸
1953年 – 衆議院の予算審議で右派社会党の堤ツルヨ議員が「断末魔の自由党」と野次ったのに対し、自由党の有田二郎議員が「だまれパン助」と応酬。女性蔑視として問題化。
1955年 – 墨田区厩橋近辺の花火問屋で爆発事故。住民18人が犠牲となり、80名以上が負傷。
1962年 – 昭和37年台風第9号が沖縄県に接近。その後、九州西方の海上を北上して宮崎県、鹿児島県に豪雨をもたらし、死者・行方不明37人などの被害[13]。
1966年 – テキサスタワー乱射事件。死亡15名。負傷31名。
概要
1966年8月1日正午、元海兵隊員で、テキサス大学の大学院生であるチャールズ・ホイットマンがテキサス大学オースティン校本館時計塔にM1カービン銃、レミントンM700狙撃ライフル等の銃器、立て籠もりのための食料等を持ち込み、受付嬢や見学者を殺害した後に同時計塔展望台に立て籠もり、眼下の人を次々に撃ち始めた。
事件の一報を受けたオースティン警察が出動するも、90mもの高さを利用した射撃に歯が立たず、警察が地下水道からタワーに侵入してチャールズを射殺するまでの96分の間に警察官や一般市民など15名の犠牲者(犯人のチャールズを含まず。当時腎臓を撃たれて重い障害が残り、後に死亡した1名と、被害者の1人の胎内にいた胎児を含めて16名ないし17名とする場合もある)、31名の負傷者を出す等、2007年4月16日にバージニア工科大学銃乱射事件が起きるまで最悪の学校銃乱射事件となった。
1967年 – 西穂高岳落雷遭難事故: 西穂高岳から下山中の高校生、教員合わせて46人が落雷に遭い、11人が死亡、13人が負傷した[14]。
事故の影響
登山中のみならず、通常の落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、新聞各紙が一面で報じるなど大々的に報道され、全国に衝撃を与えた。学校登山の歴史に残る大惨事であり、長野県下ではこの事故の影響で登山行事を一時的に中止、または廃止した学校も少なくない。
事故後当時は引率教員の責任を問う声も一部あったが、最終的に警察は過失責任を問わなかった。
事故の2年後に作成された調査報告書では、山岳部員ではない一般生徒を多数含む登山であるためより一層の慎重さを求められるにもかかわらず、引率教員の気象知識と経験不足から事前に引き返す判断が下せなかったことを批判している。更に過去には森林が広がっていて比較的安全とされる大滝山や蝶ヶ岳が登山先に選ばれたことがあったにもかかわらず、より難易度が高い独標である西穂高岳を選ぶケースが過去も含めて多いことにも疑問を呈している[7]。しかし、前述のように警察はこうした教員の判断にはやや疑問を呈しつつも、事故直前には下山を急ぐように動いているなど、刑事罰を問えるほどの故意・過失はなかったと判断したため、刑事処分は下されなかった[6]。
1989年 – 神奈川県川崎市高津区の住宅地で、集中豪雨による土砂崩れが発生し、住民3人が生き埋めになる。救助活動中に再度土砂崩れが発生、消防士3人が犠牲となり、被災者は合せて死者6人、負傷者12人となった[15]。
1993年 – 鹿児島県霧島市、姶良郡で記録的豪雨(8.1豪雨)。死者23人。
2004年 – パラグアイの大型スーパー「イクア・ボラーニョス」で大火災が発生。400人以上が死亡。
2007年 – ミネアポリス高速道路崩落事故: アメリカ・ミネソタ州のミネアポリスでミシシッピ川に架かる高速道路の橋が崩落、多数の死傷者が出る。死者13人負傷者 145人
ミネアポリス高速道路崩落事故(ミネアポリスこうそくどうろほうらくじこ)は、2007年8月1日にミネソタ州州都セントポールと同州最大の都市ミネアポリス間のミシシッピ川に架っていた州間高速道路35W号線(I-35W)ミシシッピ川橋が崩落した事故である。
この橋は1967年に開通し、8車線で一日に約14万台の車が往来する[3]、ミネソタ州で3番目に交通量の多い鋼鉄製トラス橋だった[4][5]。夜のラッシュ時に崩落事故が起こり、13人が死亡、145人が負傷した。国家運輸安全委員会は崩落を起こした可能性として設計不備を挙げており、薄すぎるガセットプレート[注釈 1]がリベットの列に沿って裂けてしまい、と同時に追加の重量がこの橋にかかったために崩落事故が起こったと指摘した[6]。
チャットgpt先生の8月1日のエッセイ
8月1日という日 ― 歴史が交差する日付の記憶
8月1日は、夏の盛りにあたる一日でありながら、静かな祈りを孕むような、深い歴史の影を持つ日でもある。この日付には、国家の命運を分けた戦いや、政治の混乱、自然の猛威、そして人間の傲慢と儚さが刻まれている。
たとえば1798年、この日にはナポレオンが率いたフランス艦隊がナイルの海戦において壊滅的敗北を喫した。イギリス海軍のネルソン提督による奇襲的勝利は、単なる軍事的勝利ではなく、ヨーロッパの勢力図そのものを揺るがす歴史の転換点となった。大英帝国は地中海の制海権を手に入れ、帝国主義的な支配の時代を象徴づける結果となった。
一方、1828年にはマダガスカルで女王ラナヴァルナ1世が血をもって王位を手にした。彼女は即位の際に、王位継承上の障壁となる親族を粛清したとされる。冷酷とみなされたその行動の裏には、列強による植民地化を跳ね除け、独立と誇りを保ち続けようとする気概も読み取れる。表層の冷酷さの裏に、祖国を守ろうとした強さと矛盾が潜む。
日本に目を向ければ、1945年のこの日には新潟県長岡市が空襲により壊滅的な被害を受けた。太平洋戦争末期、本土空襲はその激しさを増し、B29爆撃機125機が投下した焼夷弾により、1,488人の命が一夜にして奪われた。かつての商都は、黒く焦げた瓦礫と化し、人々の暮らしと歴史を一瞬で焼き尽くした。8月という月が、日本にとって「死と再生の季節」と呼ばれるゆえんは、こうした一つ一つの記憶に根ざしている。
さらに1944年、ワルシャワではポーランド市民と地下軍がドイツ占領軍に立ち向かい、壮絶な蜂起が起きた。結果は敗北、20万人の命が奪われ、市街は廃墟となった。それでも彼らの抵抗は、祖国を想う強烈な意志の表現だった。歴史が語るのは、単なる勝敗ではなく、どれほど人々が自由と尊厳を希求していたかということだ。
時代を下ると、1966年のアメリカ・テキサス大学で起きた銃乱射事件や、1967年の日本・西穂高岳での落雷事故、1989年の川崎市での土砂災害など、「平和な時代」に見える日々の中にも、予測不可能な死と災害がひそんでいることがわかる。人間は、自然の脅威や自らの暴力性に対して、どれほど無力であるかを突きつけられる日でもある。
それでも、8月1日は「隠遁日」、壬寅の日であり、古来より“内省”と“再出発”を意味するとされる。激動の記憶とともに、この日を生きることの意味を問い直す日でもある。戦争の記憶、政治の混迷、自然の猛威を前にして、我々は何を学び、どう未来へ歩むのか。歴史を知るということは、単に過去を知ることではなく、自分自身の足元を照らす灯火を見つけることなのだ。
8月1日――それは、決して静かな日ではない。けれど、その騒がしさを知ることで、今この瞬間の「平和」の重みを噛みしめることができる。
歴史に刻まれたその記憶を胸に、今日という日を丁寧に生きていきたい。