7月9日
20250709水曜日旧暦6月15日友引(己卯つちのとうキボウ)月齢 13.6
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月己卯つちのとう 年末まであと175日
吉方位 隠遁日 己卯つちのとう日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%889%E6%97%A5
7月9日の出来事
1615年(慶長20年6月1日)- 江戸で晩雪。夏の雪に驚愕した人々は、本郷(東京都文京区)に富士神社を建立し、富士山の神を祀った[2]。
1755年 – フレンチ・インディアン戦争: モノンガヘラの戦い イギリス軍方面司令官ブラドッグ将軍戦士
約1,460名のうち、456名が戦死し、負傷者は421名 イギリス軍には小間使いや料理女として50名程の女性も従っていたが、約半数が捕虜になるなど帰還したのは4名に過ぎなかった。250名のフランス・カナダ兵は8名が戦死、4名が負傷、637名のインディアン戦士は15名が戦死、12名が負傷であった。
1864年 – 南北戦争: ポートハドソンの包囲戦が終結。北軍が勝利し、ミシシッピ川を完全に支配。
時 1864年5月21日-7月9日
場所 ルイジアナ州イースト・バトンルージュ郡とイースト・フェリシアナ郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 4万人中 戦死傷10000人 南軍 7500人中 戦死傷1000人 捕虜6500人
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 和歌山大空襲。死者行方不明1400程度。
2006年 – S7航空778便着陸失敗事故。現場 ロシアの旗 ロシア・イルクーツク国際空港 死亡125人 生存78人。
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1615年(慶長20年6月1日)- 江戸で晩雪。夏の雪に驚愕した人々は、本郷(東京都文京区)に富士神社を建立し、富士山の神を祀った[2]。
1755年 – フレンチ・インディアン戦争: モノンガヘラの戦い イギリス軍方面司令官ブラドッグ将軍戦士
約1,460名のうち、456名が戦死し、負傷者は421名 イギリス軍には小間使いや料理女として50名程の女性も従っていたが、約半数が捕虜になるなど帰還したのは4名に過ぎなかった。250名のフランス・カナダ兵は8名が戦死、4名が負傷、637名のインディアン戦士は15名が戦死、12名が負傷であった。
ベンジャミン・フランクリンは、ブラドック将軍の部隊のために荷馬車と輓馬を集めるのに協力を求める勧告文を書いた。しかし馭者が逃亡し兵士たちも馬を外して乗って逃げるなどしたため荷馬車は置き去りにされるか焼かれることになった。このためフランクリンは荷馬車の持ち主に責められかなりの賠償金を立て替えねならなくなった。彼はブラドックに狭い谷を抜けて行軍すると待ち伏せに遭う可能性があり危険だと警告したが正規兵の力に自信を持つ将軍からは相手にされなかった。
1864年 – 南北戦争: ポートハドソンの包囲戦が終結。北軍が勝利し、ミシシッピ川を完全に支配。
時 1864年5月21日-7月9日
場所 ルイジアナ州イースト・バトンルージュ郡とイースト・フェリシアナ郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 4万人中 戦死傷10000人 南軍 7500人中 戦死傷1000人 捕虜6500人
ポートハドソンの包囲戦(ポートハドソンのほういせん、英:Siege of Port Hudson)は南北戦争の1863年5月21日から7月9日まで、ルイジアナ州のミシシッピ川の町ポートハドソンを北軍が襲い、包囲した戦闘である。
北軍ナサニエル・バンクスの軍隊は、ユリシーズ・グラント少将によるビックスバーグの包囲戦と協調して、ミシシッピ川のポートハドソンにある南軍の要塞に対して侵攻した。北軍は1863年5月27日の正面攻撃に失敗した後で、包囲戦を布き、48日間続いた。バンクスは6月14日にも再度攻撃したが守備隊に撃退された。7月9日、ビックスバーグ陥落の報に接した南軍守備隊はポートハドソンの降伏を飲み、ミシシッピ川はそのニューオーリンズの河口から北軍の航行が全て可能になった[2]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 和歌山大空襲。死者行方不明1400程度。
和歌山大空襲(わかやまだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた和歌山に対する一連の空襲の通称。規模が最も大きい1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて行われた和歌山県和歌山市中心部への空襲(戦略爆撃)を指すことが多い。
市民は4,000坪の空き地になっていた旧和歌山県庁舎跡(現:汀公園)に避難していたが、そこを火災による熱風が襲ったため、そこだけで748人もの死者を出してしまった[2]。また城北橋や中橋の下にあたる、市堀川の水中に逃げ込んだ者もいたが、満潮時であり多数の死者を出した。
翌7月10日1時48分に爆撃は終了し、2時30分頃にはB-29は潮岬上空から南方洋上へ去っていった。3時25分に空襲警報は解除された。
戦後、汀公園と城北橋付近には供養塔が、中橋付近には地蔵尊が建立されている
被害
死者 – 1,208人
重傷者 – 1,560人
軽傷者 – 3,000人
行方不明者 – 216人
被災者 – 113,548人
焼失家屋 – 31,137戸
(7月16日の内務省警報局宛報告による)
アメリカ軍の記録には「和歌山市の建物密集地4平方マイルのうち52.5%を破壊。焼夷弾800.3トンを使用した」とあり、B-29搭乗員の記録にも「何回も大きな爆発と共に、いくつもの白い閃光が発生し、爆撃目標地点上空では乱気流が発生した。20,000フィートにも達する煙の柱をともなう猛烈な火災が全市で発生した」とあり、空襲の凄まじさが窺える。なお、死者数は1101人とする説[2]、1400人とする説もある[1]。
著名な被災者
ジャニー喜多川 – ジャニーズ事務所創業者・社長[3]
メリー喜多川 – ジャニーズ事務所名誉会長。
2006年 – S7航空778便着陸失敗事故。現場 ロシアの旗 ロシア・イルクーツク国際空港 死亡125人 生存78人。
チャットgpt先生の7月9日のエッセイ
7月9日の記憶と記録:時を超える声に耳をすます日
7月9日という日は、一見すると平凡な夏の一日である。しかし、その背後には、季節外れの雪に驚いた江戸の人々の記憶から、戦火に翻弄された数多の命の記録まで、静かに語りかけてくる歴史の声がある。
1615年のこの日、江戸では異例の晩雪が降った。夏の只中に白い雪が舞い落ち、人々は神の啓示と受け取ったのだろう。本郷の地に富士神社が建立され、富士山の神が祀られることとなった。自然の異変が信仰を生み、人の営みの一部となっていく――その営みの尊さと脆さを、我々は今もなお心に刻むべきなのかもしれない。
1755年、北アメリカの原野では、フレンチ・インディアン戦争の激戦「モノンガヘラの戦い」が展開された。勝利や敗北といった軍事的な評価の裏で、小間使いや料理女として従軍した名もなき女性たちが命を失い、帰るべき故郷を永遠に失った。彼女たちの人生に、何の記録も残らず、ただ「捕虜になり、生還したのは4人のみ」という冷たい数字の中に沈んでいる。
その戦場に名を連ねたベンジャミン・フランクリンの存在もまた、興味深い。合理と理性の人である彼が、「狭い谷を抜ければ待ち伏せに遭う」と警告したにもかかわらず、正規兵のプライドによりその声は退けられた。歴史は、聞き届けられなかった忠告と、それによって失われた命のうえに積み重なるものでもある。
1863年、アメリカ南北戦争では「ポートハドソンの包囲戦」が終わりを迎える。ミシシッピ川の完全掌握という地政学的な意義の陰で、北軍と南軍それぞれの兵士が、炎暑の中で48日にわたる包囲戦を生き抜こうともがいた。飢え、病、恐怖――それらの感情を飲み込みながら戦った人間の姿は、数行の戦況報告には到底収まりきれない。
そして1945年、日本の和歌山では、大空襲が夜を裂いた。逃げ場を失い、川に飛び込んだ人々、避難所であるべき場所に押し寄せた熱風。瓦礫の下で命を閉じた1,400人近い市民たち。空襲を生き延びた子どもたちの中に、後のジャニーズ事務所創業者ジャニー喜多川がいたことを思うと、戦争が未来に及ぼす影は個人の運命にも深く染み込んでいると実感させられる。
そして、つい近年の2006年には、ロシアの空で旅客機が着陸に失敗し、125人の命が奪われた。技術が進んでも、人間の生死はどこか運命にゆだねられている部分がある。その無力さを、我々はときに黙して受け止めねばならない。
7月9日は、「驚き」と「警告」、「犠牲」と「記憶」が複雑に交差する日である。季節外れの雪がもたらした畏敬の念から、戦争と災害による無数の死、そして一筋の希望までもが、そこには息づいている。何の変哲もない夏の一日が、実は幾重にも重なった歴史の層のうえに立っている――そんな気づきを胸に、今日という日を過ごしてみてはどうだろうか。