kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月8日 1853黒船来航、ほか写真wikipedia 幕閣とペリーの談判、ほか 

7月8日

20250708火曜日旧暦6月14日先勝(戊寅つちのえとらボイン)月齢 12.6

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月戊寅つちのえとら日  年末まであと176日

吉方位 隠遁日 戊寅つちのえとら日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%888%E6%97%A5

7月8日の出来事

1099年 – 第1回十字軍・エルサレム攻囲戦: 十字軍がエルサレムの城外を巡る「裸足の行列」を始める。旧約聖書ヨシュア記「エリコ虐殺」由来の儀式的行進。

7月8日にこの儀式を行い、7月15日にエルサレム「聖絶」heremヘレム(異教徒の徹底殲滅)

1247年(宝治元年6月5日) – 宝治合戦。鎌倉幕府執権・北条時頼が幕府評定衆・三浦泰村を討ち三浦氏が滅亡。500人余り自害と。

1709年 – 大北方戦争: ポルタヴァの戦いが行われる。

時             1709年6月27日(新暦7月8日)

場所        東ウクライナ(ウクライナ語版)・ポルタヴァ

結果        ロシアの勝利

損害  スウェーデン軍 25000人中 戦死傷10000人弱 ロシア軍 45000人中 戦死傷 4500人強

1853年(嘉永6年6月3日) – 黒船来航: マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。

1864年(元治元年6月5日) – 池田屋事件がおこる。即死および捕縛40名以上に及ぶ。

1868年(明治元年5月19日) – 北越戦争: 長岡城が陥落。

死者 新政府軍 死者:1040人[2]   奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]

1962年 – 佐賀県太良町で地すべりが発生。死者56人、重軽傷約300人の被害[6]。

1967年 – 西日本で集中豪雨。死者365人[8]。

1974年 – 愛知県小牧基地を離陸した直後の航空自衛隊F-86 (戦闘機)が住宅地に墜落。乗員1人、住民3人が死亡、2人が重軽傷[8]。

1988年 – 南インドのケーララ州の湖に掛かる鉄橋での急行列車が脱線し湖に転落(en)。死者107名。

2022年 – 元内閣総理大臣の安倍晋三が奈良県奈良市の大和西大寺駅前で選挙演説中に、男に手製の銃で銃撃され死亡した(安倍晋三銃撃事件)[12][13]。

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1099年 – 第1回十字軍・エルサレム攻囲戦: 十字軍がエルサレムの城外を巡る「裸足の行列」を始める。旧約聖書ヨシュア記「エリコ虐殺」由来の儀式的行進。

7月8日にこの儀式を行い、7月15日にエルサレム「聖絶」heremヘレム(異教徒の徹底殲滅)

1247年(宝治元年6月5日) – 宝治合戦。鎌倉幕府執権・北条時頼が幕府評定衆・三浦泰村を討ち三浦氏が滅亡。500人余り自害と。

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている[1]。また、この事件の推移、経過を詳細に記述する史料は『吾妻鏡』しか現存しない[1]。

合戦に引きずり込まれる形になった時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じた。三浦館には鎌倉にいた三浦一族、前将軍頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけた。三浦光村は80騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断した。

三浦泰村館への攻撃は明け方に始められたが、昼になっても北条勢は攻めあぐねていた。風向きが変わったところで周辺の館に火がかけられ、燻り出された泰村達は館を出て右大将家(源頼朝)法華堂に向かった。光村は泰村に使者を使わして要害の地である永福寺での合流を勧めたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じた。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かった。法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていた。その内260名は将軍御所に出仕する資格を持った番衆であったという。

法華堂の門外で郎従達が防戦している間、出家して西阿と称していた毛利季光が念仏を唱え、三浦光村が調声の任を務めた。源頼朝の御影の前で一同はしばし懐旧の談を交わした。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだ。光村は太刀を抜くと自分の顔を削って「この顔は我とわかるか?」と訪ね、「いまだに光村殿と見ゆ」と返事を聞くとさらに自分の顔を切り刻み、あまりの事に泰村は「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫めた。血気の光村に対し、最期まで穏便であった泰村は「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、父義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたという。三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。この顛末は、泰村達が法華堂に乱入した際、逃げ遅れて屋根裏に隠れていたある法師が、戦後捕らわれ尋問を受けた折に北条方に語ったものである[7]。

上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤は7日に追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。

1709年 – 大北方戦争: ポルタヴァの戦いが行われる。

時             1709年6月27日(新暦7月8日)

場所        東ウクライナ(ウクライナ語版)・ポルタヴァ

結果        ロシアの勝利

損害  スウェーデン軍 25000人中 戦死傷10000人弱 ロシア軍 45000人中 戦死傷 4500人強

ポルタヴァの戦い(ポルタヴァのたたかい、ウクライナ語: Полта́вська би́тва, ラテン文字転写: Poltavska bitva; スウェーデン語: Slaget vid Poltava; ロシア語: Полта́вская би́тва, ラテン文字転写: Poltavskaya bitva)は、1709年6月27日(新暦7月8日)、東ウクライナ(ウクライナ語版)のポルタヴァで行われたロシアとスウェーデンの大北方戦争における最大の戦い。カール・グスタフ・レーンスケルド(スウェーデン語版)率いるスウェーデン軍と、ピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。

この戦闘の後、スウェーデンは軍事的優位を喪失した。大戦争の行方を決した会戦といえる。なお、カール12世は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったとされる。また、スウェーデン軍にはウクライナ・コサックのイヴァン・マゼーパも参加していた。また、後にロシア帝国陸軍における傑出した指揮官の1人となるピーター・レイシ(ピョートル・ペトロヴィチ・ラッシ)もロシア軍右翼で1個旅団を率いた[1]。

1853年(嘉永6年6月3日) – 黒船来航: マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。

黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。

相互の贈答品

贈答品

1830年代から50年代にかけ、アメリカでは衣服製造用のミシンが発達していたが、1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから徳川将軍家にはミシンが送られたとされている。他、ペリー側から贈られたものは蒸気機関車の4分の1模型、電信機、銀板写真機、ピストル、望遠鏡など約140点[40]。なかには、世界有数の高額本として知られる図鑑『アメリカの鳥類』も含まれていた[41]。

日本側から贈られたものは、硯箱、絹織物、漆器、陶磁器、剣2振、火縄銃3丁、米200俵と鶏300羽を力士に運ばせた[40]。

逸話

アメリカ海軍の戦艦ミズーリで日本の降伏を行う際、左上にある31州旗は、黒船来航時の星条旗である[45]。

第二次世界大戦後の1945年、アメリカ合衆国が日本を占領した際、最高司令官のダグラス・マッカーサーはペリーと比較されることがあり、類似点がしばしば指摘される[46]。

マッカーサーはペリー提督が4隻の軍艦を率いて日本にやってきたときに旗艦のポーハタンが停泊したのと緯度・経度がまったく同じ場所に停泊させたとされる[47]。

なお、降伏前の1941年12月7日(日本時間8日)、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の際に、ホワイトハウスに31州の星条旗を掲げた。これはペリーのように再び日本を開国させるという意味合いである[47]。

1864年(元治元年6月5日) – 池田屋事件がおこる。即死および捕縛40名以上に及ぶ。

池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。

即死および捕縛40名以上に及ぶ。

1868年(明治元年5月19日) – 北越戦争: 長岡城が陥落

死者 新政府軍 死者:1040人[2]   奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]

背景

慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)へ進駐した。

死者 新政府軍 死者:1040人[2]   奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]

1962年 – 佐賀県太良町で地すべりが発生。死者56人、重軽傷約300人の被害[6]。

1967年 – 西日本で集中豪雨。死者365人[8]。

1974年 – 愛知県小牧基地を離陸した直後の航空自衛隊F-86 (戦闘機)が住宅地に墜落。乗員1人、住民3人が死亡、2人が重軽傷[8]。

1988年 – 南インドのケーララ州の湖に掛かる鉄橋での急行列車が脱線し湖に転落(en)。死者107名。

2022年 – 元内閣総理大臣の安倍晋三が奈良県奈良市の大和西大寺駅前で選挙演説中に、男に手製の銃で銃撃され死亡した(安倍晋三銃撃事件)[12][13]。

安倍晋三銃撃事件(あべしんぞうじゅうげきじけん)は、2022年(令和4年)7月8日11時31分ごろ、奈良県奈良市の近畿日本鉄道(近鉄)大和西大寺駅北口付近にて、元内閣総理大臣の安倍晋三が選挙演説中に手製銃で銃撃され、死亡した事件[8][9]。安倍元首相銃撃事件[10][11][12]、海外の報道機関などでは安倍晋三暗殺事件[13][14][15]とも呼称される。

総理大臣経験者が殺害(暗殺)されるのは二・二六事件以来のことである。本事件の犯人は取り調べで、「旧統一教会への恨みから教団との関係が深い安倍を狙った」と供述したことから、旧統一教会の悪徳商法や政治家とのつながりを浮き彫りにした。

チャットgpt先生の7月8日のエッセイ

エッセイ:7月8日――境界を越える日

7月8日。この日は、一見すれば年の中ほど、静かな盛夏の一日にすぎないようでいて、実は数多の「境界」を越える瞬間が刻まれてきた歴史的な日である。

1099年、第一回十字軍がエルサレムの城壁を前に「裸足の行列」を行った。祈りと血の混ざるこの儀式は、聖書に倣い、エリコを陥落させたヨシュアのように聖地を奪還しようとする、信仰と暴力が同居する矛盾の象徴だった。その一週間後、エルサレムは「聖絶(ヘレム)」と呼ばれる徹底的な殲滅によって占領される。宗教が神聖を求めながら、その名において殺戮をも肯定する矛盾が、7月8日に祈りの形で露呈した瞬間だった。

1247年には、鎌倉の地で三浦氏が北条時頼に討たれた「宝治合戦」があった。鎌倉幕府内部の内乱は、単なる政権争いではなく、頼朝以来の「武士の名誉」や「忠義」といった価値観が問い直された瞬間だった。法華堂で亡き頼朝の御影を前に一族が自刃する場面は、死をもって武士の誇りを守ろうとした姿であり、時代の終わりと新たな政治体制の胎動の境界だった。

1709年のポルタヴァの戦いでは、スウェーデンがロシアに敗北し、北欧の覇権が移る分水嶺となった。時代の主役が移る戦場で、1万人近い命が散った。個人の意志を超えた大国の運命のぶつかり合い――歴史が静かに方向を変える日だった。

日本の近代において、1853年7月8日はペリーの黒船が浦賀に姿を現した日である。この来航は、日本を250年の鎖国から無理やり目覚めさせ、西洋との扉をこじ開ける決定的な「境界の瞬間」だった。静けさと驚愕の中、時代はゆっくりと変わっていった。

そして、幕末の1864年には、京都・池田屋で尊皇攘夷の志士たちが新選組に討たれた事件もまた7月8日だった。理想に生きようとした者たちと秩序を守ろうとする者たちの衝突。血が流れたが、それは未来の日本をかたちづくる熱でもあった。

近現代では、2022年のこの日、元首相・安倍晋三が演説中に銃撃されるという衝撃の事件が起きた。暴力による言論の遮断は、自由社会にとって深い傷であり、この事件は現代日本が抱える宗教・政治・メディアの歪みをあぶり出す契機にもなった。

7月8日――それは、戦争と信仰、忠義と裏切り、理想と現実、開国と閉鎖、秩序と混沌の「はざま」に立たされた日だ。歴史はいつも静かに進むわけではない。時として、境界を越えるその一日が、人々の信念と決断によって劇的に描かれることがある。

私たちがこの日を記憶することは、単なる過去の追憶ではない。境界を越えた先に何が待っていたのかを見つめ直すこと、そして自分自身の「今」をどのように越えていくかを問うことにほかならない。

だからこそ、7月8日は、過去に思いを馳せつつ、未来への問いを立てるための日でもあるのだ。