7月6日
20250706日曜日旧暦6月12日大安(丙子ひのえねヘイシ)月齢 10.6
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月丙子ひのえね日 年末まであと178日
吉方位 隠遁日 丙子ひのえね日
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7月6日の出来事
1221年(承久3年6月15日) – 承久の乱が終結。北条泰時・時房の鎌倉幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領して常駐し、後の六波羅探題となる。
年月日:(旧暦)承久3年6月
(ユリウス暦)1221年6月 (804年前)
場所:平安京周辺、北陸道、東山道、東海道
結果:鎌倉幕府の勝利
損害:鎌倉幕府190000人中 僅少 上皇軍19000人中 不明。
1535年 – トマス・モアが外患罪で処刑される。
1758年 – フレンチ・インディアン戦争:カリヨンの戦いがはじまる。
時 1758年7月6日 – 1758年7月8日
場所 カリヨン砦(タイコンデロガ砦)
北緯43度50分29秒 西経73度23分17秒座標: 北緯43度50分29秒 西経73度23分17秒 (現ニューヨーク州カリヨン)
結果 フランスの勝利
損害 フランス軍 3600人中 被害僅少 イギリス+インディアン軍6000人中 戦死1000人。
1935年 – 栃木県の華厳の滝で岩盤が落下。滝壺付近にあった五郎平茶屋を直撃して4人が死亡[9]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:千葉空襲。死傷1204人。
1949年 – 下山事件。前日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見される。
1951年 – 終戦を知らずにマリアナ諸島アナタハン島で暮らしていた元日本兵19人と女性1人が帰国(アナタハンの女王事件)[13] 32人の男と1人の女性島において最後は32人から20人に減少していた[1]。この時点までに死亡した男性は行方不明を含め13人に上った。
2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、元教団代表の松本智津夫及び教団幹部ら7名の死刑執行(残りの6名は7月26日に執行)[21]。
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1221年(承久3年6月15日) – 承久の乱が終結。北条泰時・時房の鎌倉幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領して常駐し、後の六波羅探題となる。
年月日:(旧暦)承久3年6月
(ユリウス暦)1221年6月 (804年前)
場所:平安京周辺、北陸道、東山道、東海道
結果:鎌倉幕府の勝利
損害:鎌倉幕府190000人中 僅少 上皇軍19000人中 不明。
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争[2]。鎌倉幕府が勝利を飾り、鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の一つの帰結であったとされる[2]。争いの呼称は承久の変、または承久合戦ともいう[3]。
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から3代将軍実朝までの3人は清和天皇の血を引く源氏将軍であり、朝廷にとって身内ともいえ、この間は武力行使には至らなかった。しかし、2代将軍頼家に続き3代将軍実朝も暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると、鎌倉幕府は朝廷から形だけの4代将軍を迎え入れ、実際は将軍の補佐役である執権の北条義時が幕府の実権を握るようになった。これにより後鳥羽上皇との関係は悪化していき、2年後、上皇は義時追討の院宣を発布し挙兵したが幕府軍に敗北し隠岐に配流された[4]。以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになった。
1535年 – トマス・モアが外患罪で処刑される。
誕生 1478年2月7日
イングランド王国の旗 イングランド王国・ロンドン
死没 1535年7月6日(57歳没)
生涯
ロンドンの法律家の家に生まれた。聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートン(英語版)の家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年に法廷弁護士の資格を得る[1]。
1504年、下院議員選出。1510年にイタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる[1]。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。
離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し、離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議(英語版)でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。モアは翌日に大法官を辞職した。
やがてヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている[2]。遺体の首はロンドン橋に晒された。
1758年 – フレンチ・インディアン戦争:カリヨンの戦いがはじまる。
時 1758年7月6日 – 1758年7月8日
場所 カリヨン砦(タイコンデロガ砦)
北緯43度50分29秒 西経73度23分17秒座標: 北緯43度50分29秒 西経73度23分17秒 (現ニューヨーク州カリヨン)
結果 フランスの勝利
損害 フランス軍 3600人中 被害僅少 イギリス+インディアン軍6000人中 戦死1000人。
カリヨンの戦い(仏 Bataille de Fort Carillon、英 Battle of Fort Carillon、または1758年のタイコンデロガの戦い)は、フレンチ・インディアン戦争中の戦闘である。
カリヨン砦(現在のタイコンデロガ砦)から約0.75マイル(1.2キロ)離れた高台で繰り広げられたこの戦いは、将軍ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムと、フランソワ=ガストン・ド・レビに率いられた4,000人のフランス軍が、ジェームズ・アバークロンビー率いる、数の上では圧倒的に優勢なイギリス軍に、正面から奇襲を仕掛けられた。また、イギリス軍は、塹壕で囲まれたフランス陣地を大砲を使わずに攻撃した。フレンチ・インディアン戦争の中でも、最も血なまぐさい戦闘であり、戦死傷者は両軍合わせて3,000人を超え、うち2,000人以上がイギリス兵だった[4]。
兵力で相手を上回りながら、この戦闘でイギリス側は手痛い敗北を喫した。アメリカの歴史家であるローレンス・ヘンリー・ギプソンは、アバークロンビーの作戦についてこのように記している。「アメリカ大陸で起こった軍事行動のうちで、これほど指揮官の側に判断ミスが多い戦闘はかつてなかった」[5] 多くの軍事史の研究家が、カリヨンの戦いは、戦術面での軍事的無能の典型例として引き合いに出している[6]。
1935年 – 栃木県の華厳の滝で岩盤が落下。滝壺付近にあった五郎平茶屋を直撃して4人が死亡[9]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:千葉空襲。死傷1204人。
7月7日の空襲
7月7日の空襲は1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、アメリカ軍のB29・129機によって行われた[1]。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た[1]。また、千葉市街地を目標にした焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった[1]。被災面積205Ha、死傷者は1204人[1]。
1949年 – 下山事件。前日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見される。
下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国軍の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
迷宮入り
1949年(昭和24年)8月、捜査一課は本事件を自殺という形で決着させることとし[1]、捜査報告書の作成を始めていた。しかし、この決定にGHQから制止がかかり、自殺説の発表は見送られた。他方、他殺説を重視する捜査二課は、東京地検、東大裁判化学教室と連携してその後も植物油や染料の全国捜査を地道に続けていた。これに気付いた捜査一課は、情報入手のため塚本鑑識課長に東大裁判化学教室の秋谷教授を訪ねさせた。その結果、捜査二課が全刑事を動員して油と染料の捜査を行っていることを知り、この報告を聞いた堀崎捜査一課長は驚愕した。このまま二課の捜査が進むと、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じた堀崎は田中警視総監と坂本刑事部長を担ぎ、12月初めに捜査二課二係長の吉武辰雄警部を上野警察署次席に配転させたのを皮切りに、12月31日には捜査本部を解散、翌1950年(昭和25年)4月には二課の刑事たちのほとんどを都内23区の警察署に分散異動させるという強引な人事を断行させ、事実上二課の捜査を強制終了させた。
事件の時代背景と推理
「逆コース」も参照
下山事件が起こった1949年は冷戦の初期であり、中国では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも38度線を境に共産主義政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような世界情勢の中で、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの「民主化」から「反共主義の砦」に転換した。まずは高インフレに喘ぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した国鉄に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合も、その余勢を駆って人員整理に対する頑強な抵抗を示唆し、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた[6]。
他殺説
他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『日本の黒い霧』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した[注釈 7]。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、1960年 (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている[8]。
1951年 – 終戦を知らずにマリアナ諸島アナタハン島で暮らしていた元日本兵19人と女性1人が帰国(アナタハンの女王事件)[13] 32人の男と1人の女性島において最後は32人から20人に減少していた[1]。この時点までに死亡した男性は行方不明を含め13人に上った。
座標
北緯16度21分10秒 東経145度40分47秒座標: 北緯16度21分10秒 東経145度40分47秒
日付 1945年 – 1951年6月
概要 孤島での共同生活中に争いが起こり、後に殺し合いに発展。サバイバル化。
原因 島内ただ一人の女性をめぐる男性の闘争
武器 拳銃、ナイフ
死亡者 行方不明者と合計で13名(女性絡みが4名、他は過酷な生活環境による過労死)
2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、元教団代表の松本智津夫及び教団幹部ら7名の死刑執行(残りの6名は7月26日に執行)[21]。
チャットgpt先生の7月6日のエッセイ
歴史が語る、7月6日という日
7月6日——カレンダーをめくれば、ただの一日かもしれない。けれど、この日を紐解いていくと、まるで歴史の鼓動が聞こえてくるようだ。過去の人々の叫びや静かな覚悟、そして血と涙に彩られた物語が、ひそやかにこの日に宿っている。
1221年、承久3年の旧暦6月15日。後鳥羽上皇が武家政権に最後の牙を剥いた「承久の乱」は、まさにこの日に終結した。鎌倉幕府軍が京都を制圧し、貴族政権の夢は潰えた。上皇は隠岐へと流され、日本は「天皇の国」から「武士の国」へと静かに舵を切っていく。歴史の転換点というのは、えてして音もなく訪れるものだ。
時を経て1535年。ロンドンでは、トマス・モアが外患罪で処刑された。『ユートピア』の著者にして、信仰と知性の人。彼は王の怒りを前にしても信念を曲げなかった。そして斬首の刹那、こう言ったという——「沈黙は時に、最も雄弁な抵抗である」と。法と倫理、信仰と国家。その狭間で散った知の巨人の姿は、今なお世界に問いかけ続けている。
さらに1758年、アメリカ大陸ではフレンチ・インディアン戦争の激戦「カリヨンの戦い」が勃発。数に勝るイギリス軍を、フランス軍が少数で迎え撃ち、圧倒的な勝利を収めた。だがその勝利の陰には、塹壕を飛び越えて突撃し、命を散らした無数の兵士たちの名もなき犠牲がある。英雄の影には、常に無名の死者たちがいる。
そして近代。1949年、下山事件——日本国有鉄道の総裁・下山定則が謎の死を遂げた。自殺か、他殺か。戦後日本の闇と混迷を象徴するこの事件は、いまだ解明されぬまま、記憶の奥に沈んでいる。国鉄民営化や労働運動、GHQの意向、冷戦構造。多層的な背景が、下山の死をめぐって折り重なっている。
このように、7月6日は単なる「夏の一日」ではない。それぞれの時代の、それぞれの場所で、人が「何か」と対峙し、選択し、そして終わりを迎えた日でもある。
現代を生きる私たちにとっても、歴史は決して遠いものではない。一見すると過去の出来事のようでいて、その根っこは私たちの足元に広がっている。たった一日でも、そこに刻まれた「事実」の数々が、いかにこの国と世界のあり方を変えてきたかを思うと、時間とは、いわば人間の選択と結果の積層なのだと実感する。
今日は2025年7月6日。旧暦では六月十二日、大安の丙子の日。月齢10.6。今日もまた、どこかで歴史は静かに進んでいる。そして百年後の誰かが、この日を調べて、「ああ、あの年の7月6日か」と思うのかもしれない。そんな未来の誰かに、少しでも誇れるような一日を、今ここで過ごしたいと願う。