kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月6日 1949下山事件発覚、ほか写真wikipedia現場から搬送される遺体

7月6日

20240706土曜日旧暦6月1日赤口(辛未かのとひつじシンビ) 小暑 月齢 0.2 新月

年末まであと178日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%886%E6%97%A5

7月6日の出来事

1535年 – トマス・モアが外患罪で処刑される。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:千葉空襲。死傷1204人。

1949年 – 下山事件。前日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見される。

2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、元教団代表の松本智津夫及び教団幹部ら7名の死刑執行(残りの6名は7月26日に執行)[21]。

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1535年 – トマス・モアが外患罪で処刑される。

トマス・モア(英語: Thomas More, 1478年2月7日 – 1535年7月6日)は、イングランドの法律家、思想家、人文主義者。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。大法官までのぼりつめたがヘンリー8世により反逆罪で処刑された。没後400年の1935年にカトリック教会と聖公会で聖人となる。57歳没。

思想

モアはフィチーノの著作に影響を受けた人文主義者であり、神学者ジョン・コレットとは友人であった。また1499年以降、デジデリウス・エラスムスとも親交があった。エラスムスの『痴愚神礼讃』は1509年、モア宅で執筆された。モアはマルティン・ルターの福音主義を否定し、カトリック教会による平和主義と社会正義を求めた。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:千葉空襲

7月7日の空襲

7月7日の空襲は1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、アメリカ軍のB29・129機によって行われた[1]。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た[1]。また、千葉市街地を目標にした焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった[1]。被災面積205Ha、死傷者は1204人[1]。

1949年 – 下山事件。前日から行方不明となっていた国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見される。

下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国軍の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。

事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。

迷宮入り

1949年(昭和24年)8月、捜査一課は本事件を自殺という形で決着させることとし[1]、捜査報告書の作成を始めていた。しかし、この決定にGHQから制止がかかり、自殺説の発表は見送られた。他方、他殺説を重視する捜査二課は、東京地検、東大裁判化学教室と連携してその後も植物油や染料の全国捜査を地道に続けていた。これに気付いた捜査一課は、情報入手のため塚本鑑識課長に東大裁判化学教室の秋谷教授を訪ねさせた。その結果、捜査二課が全刑事を動員して油と染料の捜査を行っていることを知り、この報告を聞いた堀崎捜査一課長は驚愕した。このまま二課の捜査が進むと、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じた堀崎は田中警視総監と坂本刑事部長を担ぎ、12月初めに捜査二課二係長の吉武辰雄警部を上野警察署次席に配転させたのを皮切りに、12月31日には捜査本部を解散、翌1950年(昭和25年)4月には二課の刑事たちのほとんどを都内23区の警察署に分散異動させるという強引な人事を断行させ、事実上二課の捜査を強制終了させた。

事件の時代背景と推理

「逆コース」も参照

下山事件が起こった1949年は冷戦の初期であり、中国では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも38度線を境に共産主義政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような世界情勢の中で、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの「民主化」から「反共主義の砦」に転換した。まずは高インフレに喘ぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した国鉄に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。

同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合も、その余勢を駆って人員整理に対する頑強な抵抗を示唆し、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた[6]。

他殺説

他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『日本の黒い霧』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した[注釈 7]。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、1960年 (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている[8]。

2018年 – オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、元教団代表の松本智津夫及び教団幹部ら7名の死刑執行(残りの6名は7月26日に執行)[21]。

チャットgpt先生の7月6日のエッセイ

7月6日の歴史を振り返って

7月6日は、歴史の中でさまざまな重要な出来事が起きた日です。ここでは、その中から特に注目すべき4つの事件について振り返りたいと思います。

トマス・モアの処刑(1535年)

1535年7月6日、イングランドの法律家であり人文主義者のトマス・モアが外患罪で処刑されました。モアは『ユートピア』の著者として知られ、理想の社会像を描いたその作品は、後世に大きな影響を与えました。モアはカトリック教会の信仰を守るためにヘンリー8世の離婚と再婚に反対し、その結果、反逆罪で処刑されました。没後400年にあたる1935年には、カトリック教会と聖公会で聖人として列聖されました。彼の生涯と思想は、信仰と政治の狭間での葛藤を象徴しています。

千葉空襲(1945年)

第二次世界大戦末期の1945年7月6日、日本本土は連日の空襲にさらされていました。この日、千葉市はアメリカ軍のB-29爆撃機による空襲を受け、多くの市街地が焼け野原となり、1204人が犠牲になりました。戦争の恐怖と悲惨さを物語るこの空襲は、多くの人々の命と生活を奪いました。戦争の記憶は風化させてはならず、平和の大切さを改めて心に刻む日でもあります。

下山事件(1949年)

1949年7月6日、国鉄総裁の下山定則が轢死体で発見されるという衝撃的な事件が起こりました。前日から行方不明となっていた下山総裁の死は、当時の日本社会に大きな波紋を広げました。この事件は、自殺説と他殺説が入り乱れ、真相は未だに解明されていません。松本清張の『日本の黒い霧』での推理も有名で、冷戦下の日本における政治的陰謀の一端として語られ続けています。この事件は、未解決のまま「国鉄三大ミステリー事件」の一つとして歴史に残り、戦後日本の混乱と不安定さを象徴しています。

オウム真理教事件の死刑執行(2018年)

2018年7月6日、オウム真理教事件に関与した死刑囚13人のうち、元教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)及び教団幹部ら7名の死刑が執行されました。オウム真理教は1995年に東京地下鉄サリン事件を引き起こし、多くの無辜の市民の命を奪いました。この事件は、日本国内だけでなく、世界中に衝撃を与えました。23年後の死刑執行は、日本社会における正義の実現と法の執行を象徴するものとして捉えられましたが、一方で死刑制度に対する賛否も再び議論されることとなりました。

終わりに

7月6日は、歴史の中で多くの重要な出来事が起こった日です。これらの事件は、それぞれ異なる時代背景と社会状況を反映していますが、共通して言えるのは、いずれも人間社会の複雑さと深い影響を持っているということです。過去の出来事を振り返り、その教訓を未来に生かすことが、私たちの使命ではないでしょうか。