kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月4日 1868(明治元年5月15日) 上野戦争、ほか写真wikipediaアームストロング砲

7月4日

20250704金曜日旧暦6月10日先負(甲戌きのえいぬコウジュツ)月齢 8.6

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月甲戌きのえいぬ日  年末まではあと180日

吉方位 隠遁日 甲戌きのえいぬ日 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%884%E6%97%A5

7月4日の出来事

1187年 – ヒッティーンの戦い。サラーフッディーンによりエルサレム王国の十字軍が壊滅。

戦争:十字軍国家の戦争

年月日:1187年7月4日

場所:ヒッティーン (Horns of Hattin)

結果:アイユーブ朝の決定的勝利

損害:アイユーブ朝 30000人中 僅少 十字軍 2万数千人中 詳細不明だが壊滅か。

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) – 鎌倉幕府が滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め込み北条高時ら一族約800人が自刃(東勝寺合戦)。

1336年(建武3年5月25日) – 湊川の戦いが行われる。

戦争:延元の乱

年月日:延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)

場所:摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)

結果:足利氏の勝利

損害:新田 楠軍 15000人 壊滅  足利軍 30000人

1456年 – オスマン・ハンガリー戦争: ベオグラード攻城戦が始まる。

時          1456年7月4日 – 7月22日

場所       ハンガリー王国・ナーンドルフェヘールヴァール

(現在の セルビア・ベオグラード)

結果       ハンガリーの勝利

領土の

変化       現状維持で終結。

1868年(明治元年5月15日) – 戊辰戦争: 上野戦争。

争:戊辰戦争

年月日:

(旧暦)慶応4年5月15日

(グレゴリオ暦)1868年7月4日

場所:武蔵国江戸上野

結果:新政府軍の勝利

損害:新政府軍10000人 中戦死30余 上野軍1000人(最終的に4000人)中 戦死266人。

1950年 – 新潟県堀之内町(現在の魚沼市)の魚野川で渡し舟が転覆。学生ら20人以上が投げ出され5人が死亡[5]。

1971年 – 濃霧の熊野灘で海難事故が続出。貨物船同士の衝突7件、沈没2隻。一連の事故の死者・行方不明者は11人。これとは別に姫路港と小豆島を結ぶフェリーと貨物船が家島沖合で衝突、乗客12人が重軽傷[6]。

2020年 – 3日夜から4日にかけて熊本県で線状降水帯が発生し豪雨に見舞われる。球磨川が氾濫したほか土砂崩れが多発。九州5県で災害関連死2人を含む79人が亡くなった[14]。

2022年 – アメリカのイリノイ州で、独立記念日祝賀パレードを標的としたハイランド・パーク銃乱射事件が発生。7人が死亡[15]。

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1187年 – ヒッティーンの戦い。サラーフッディーンによりエルサレム王国の十字軍が壊滅。

戦争:十字軍国家の戦争

年月日:1187年7月4日

場所:ヒッティーン (Horns of Hattin)

結果:アイユーブ朝の決定的勝利

損害:アイユーブ朝 30000人中 僅少 十字軍 2万数千人中 詳細不明だが壊滅か。

ヒッティーンの戦い(ヒッティーンのたたかい、アラビア語: معركة حطين Ma‘raka al-Ḥiṭṭīn, 英語: Battle of Hattin, 1187年7月4日)は、エルサレム王国とアイユーブ朝のサラーフッディーン率いるイスラム勢力の間に起こった戦い。この戦いに勝利したサラーフッディーンは進軍を継続して同年10月に聖地エルサレムの奪回に成功し、エルサレム王国を崩壊寸前(沿岸部に多少の領土を残すのみ)まで追い込んだ。地名については、ハッティーン al-Ḥaṭṭīn (en)とも言う。

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) – 鎌倉幕府が滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め込み北条高時ら一族約800人が自刃(東勝寺合戦)。

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。東勝寺で北条高時と共に自刃した主な人々は、北条氏には常盤範貞、金沢貞顕、大仏家時ら。文士に摂津親鍳・高親父子。外様に安達時顕らがいる。

1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。

東勝寺は葛西ヶ谷(鎌倉市小町)にあった。

1333年(元弘3年)、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢を迎え撃つべく、北条高時ら北条氏一門が当寺に篭もったが、なすすべもなく自ら火を放って自刃した(東勝寺合戦)。『太平記』によると、自害した者は〈名越の一族三十四人、赤橋、常盤、佐介の人々四十六人、その門葉たる人々二百八十三人、われさきにとぞ切つけたる〉とある。一族・家臣283人、あとに続いた兵も合わせて870人余であったという[2]。

1336年(建武3年5月25日) – 湊川の戦いが行われる。

戦争:延元の乱

年月日:延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)

場所:摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)

結果:足利氏の勝利

損害:新田 楠軍 15000人 壊滅  足利軍 30000人

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

戦力

楠軍 太平記によると50000人 実数10000程度か

足利軍 太平記によると500000人 実数35000程度か

1456年 – オスマン・ハンガリー戦争: ベオグラード攻城戦が始まる。

時                        1456年7月4日 – 7月22日

場所                   ハンガリー王国・ナーンドルフェヘールヴァール

(現在の セルビア・ベオグラード)

結果                   ハンガリーの勝利

領土の

変化                   現状維持で終結。

1456年のベオグラード包囲戦は、1456年7月4日から7月22日にかけてベオグラード要塞で行われた包囲戦である。

1453年のコンスタンティノープルの陥落後に、オスマン皇帝メフメト2世はハンガリー王国を服従させるために資力を再結集した。皇帝の当面の目標はベオグラード要塞だった。過去20年でオスマン帝国と何度も戦ったフニャディ・ヤーノシュが、要塞防衛に備えた。

包囲戦は大規模な戦闘に発展し、ヤーノシュの急激な反撃によりオスマン軍の陣地が制圧され、最終的に負傷したメフメト2世が包囲を諦めて、撤退させられた。この戦いは重要な結果をもたらした。ハンガリー王国の南方の国境を半世紀以上も安定させ、オスマン帝国のヨーロッパ侵攻を大幅に遅らせた。

過去にすべてのキリスト教国に対してベオグラード防衛の勝利祈願を依頼していたので、教皇はこの日を記念する法令を発して勝利を祝った。これにより、戦いの前に教皇が制定し、カトリックと古いプロテスタント教会で行われる正午の鐘の儀式が勝利を記念して行われたという伝説が生まれた[9]。それ以来、勝利の日である7月22日がハンガリーの祝日になっている[10]。

1868年(明治元年5月15日) – 戊辰戦争: 上野戦争

争:戊辰戦争

年月日:

(旧暦)慶応4年5月15日

(グレゴリオ暦)1868年7月4日

場所:武蔵国江戸上野

結果:新政府軍の勝利

損害:新政府軍10000人 中戦死30余 上野軍1000人(最終的に4000人)中 戦死266人。

上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。

5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。

戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

1950年 – 新潟県堀之内町(現在の魚沼市)の魚野川で渡し舟が転覆。学生ら20人以上が投げ出され5人が死亡[5]。

1971年 – 濃霧の熊野灘で海難事故が続出。貨物船同士の衝突7件、沈没2隻。一連の事故の死者・行方不明者は11人。これとは別に姫路港と小豆島を結ぶフェリーと貨物船が家島沖合で衝突、乗客12人が重軽傷[6]。

2020年 – 3日夜から4日にかけて熊本県で線状降水帯が発生し豪雨に見舞われる。球磨川が氾濫したほか土砂崩れが多発。九州5県で災害関連死2人を含む79人が亡くなった[14]。

2022年 – アメリカのイリノイ州で、独立記念日祝賀パレードを標的としたハイランド・パーク銃乱射事件が発生。7人が死亡[15]。

概要

2022年7月4日、シカゴ郊外のハイランドパークでは、独立記念日を祝うパレードが行われていた。その最中、男が建物の上から銃を次々と発射。パレードの参加者は、銃の発射音を祭りの花火の音と誤解したため、銃撃をされていることに気がつくのが遅れて被害が拡大した。結果的に男は70発以上を発射し、子供を含む7人が死亡、39人が負傷する惨事となった[1][2]。

容疑者は女装して逃亡。隣接するウィスコンシン州マディソン市まで車で移動、同市で開かれていた祝賀行事でも銃の乱射を試みたが結果的に断念した。その後、警察により検問を受けて身柄を拘束されている。警察による取り調べの中で、使用された銃は合法的に購入され、許可証が発行されていたことが確認されている。検察は保釈審問で容疑者が犯行を自供したことを公表。第1級殺人7件の罪で訴追した[3]。

犯人像

容疑者は21歳の男で、数週間前から攻撃を計画していた。

銃撃事件はユダヤ人が多く住む地区で行われたが、警察当局は犯行動機が反ユダヤ主義や人種差別である証拠はないとしている[4]。

容疑者は高校生の頃からアマチュアのミュージシャン(ラッパー)として活動しており、動画投稿サイトにはいくつかの事件を連想させるメッセージを残していた。

容疑者の父親は、いわゆる地元の名士であり、2019年には市長選挙に立候補していた[5]。

チャットgpt先生の7月4日のエッセイ

7月4日の記憶 ― 戦火と記念日をめぐる歴史の交差点

7月4日。この日を耳にすれば、多くの人がまず思い浮かべるのはアメリカ合衆国の「独立記念日」だろう。1776年、フィラデルフィアで独立宣言が採択され、自由と自治を掲げる新しい国の誕生が世界に向けて高らかに告げられた。その象徴の日は、今や花火とパレードで彩られる祝祭となり、国を挙げて自由と平等の理念をたたえる時間となっている。

だが、世界の歴史の座標軸にこの「7月4日」を当てはめていくと、華やかさとは正反対の、血と火薬の匂いが立ちこめる記憶が次々と浮かび上がる。そこには、国家の命運を決する戦い、時代の終焉、民の悲しみが刻まれている。


最も古く、そして世界史的な転換点の一つとされるのが、1187年のヒッティーンの戦いである。サラーフッディーン率いるイスラム勢力が、エルサレム王国の十字軍を壊滅させたこの戦いは、宗教と領土を巡る長い闘争の中で、イスラム側に大きな勝利をもたらした。そのわずか三ヶ月後、彼は聖地エルサレムを奪還する。この出来事は、ただ一つの都市を巡る攻防にとどまらず、文明と信仰が交錯する中世世界において、大きな価値観の転換を示したといえる。

同じく日本でも、この日は幾度も歴史の節目に現れている。

1333年の東勝寺合戦は、鎌倉幕府の滅亡を告げる最終章となった。北条高時ら一門が鎌倉に籠り、火を放って自刃した光景は、武士の時代の栄枯盛衰を象徴するものとして、後世に強烈な印象を残した。そしてわずか3年後、1336年の湊川の戦いでは、同じく新田義貞と楠木正成が足利尊氏に敗れ、武士たちの理想と忠誠が現実の力の前に砕かれる瞬間が記録される。

戦いの記録はさらに時代を下り、1868年の上野戦争にたどりつく。明治維新の大きな渦のなか、旧幕府の象徴であった彰義隊が、わずか一日で新政府軍に壊滅されるその戦闘には、時代の潮流に取り残された武士の哀しみがにじむ。江戸の町の空に、アームストロング砲の轟音が響きわたったこの日も、また7月4日だった。

西洋に目を転じれば、1456年のベオグラード攻城戦がある。メフメト2世のオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし、勢いそのままにハンガリー王国に迫ったが、フニャディ・ヤーノシュ率いる軍の奮闘により食い止められた。キリスト教世界の存亡が問われたこの戦いもまた、ヨーロッパの「7月4日」を忘れがたい日にしている。


だが7月4日が、必ずしも英雄と戦争の記録だけではないことも、近現代は私たちに教えてくれる。

1950年、新潟県で渡し舟が転覆し、学生5人が命を落とした事故
1971年、濃霧の熊野灘で続出した海難事故、11人の命が消えた事件
2020年、熊本県を襲った豪雨と球磨川の氾濫で、79人もの人々が命を落とした自然災害
そして記憶に新しい、2022年、アメリカ・イリノイ州ハイランド・パークでの銃乱射事件。独立記念日のパレードが、一瞬にして地獄と化したあの光景は、現代における自由と暴力の共存という痛ましい矛盾を突きつけた。


7月4日は、ただの暦の一日にとどまらない。栄光と敗北、理想と暴力、改革と災厄が、まるでこの日を選んで集うかのように、折り重なる。

記念日であると同時に、警鐘の日でもある。歴史を見渡せば、この日は「何かが終わり、何かが始まる日」であるとすら感じさせる。

火花が散る空の下、私たちは何を祝い、何を学ぶべきか。
歴史に刻まれたこの日を、過去として忘れるのではなく、現在と未来を問う日として、深く思い返したい。

それが、7月4日の本当の意味かもしれない。