kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日7月3日 1938英国蒸気機関車史上最高速記録、ほか写真wikipedia機関車マラード

7月3日

20250703木曜日旧暦6月9日友引(癸酉みずのととりキユウ)月齢 7.6

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月癸酉みずのととり日 年末まではあと181日

吉方位 隠遁日 癸酉みずのととり日

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7月3日の出来事

822年(弘仁13年6月11日) – 延暦寺の大乗戒壇建立が勅許。

1837年(天保8年6月1日) – 生田万の乱。

1931年 – 朝鮮排華事件:朝鮮で中国人が100名以上殺害される。

1935年 – 小豆島沖で「みどり丸」と「大連丸」が衝突し「みどり丸」が沈没。旅客92人及び乗組員6人が溺死し、 旅客8人及び乗組員1人が行方不明となる[7]。 

1938年 – イギリスの蒸気機関車マラードが、蒸気機関車の世界最高速度203km/hを記録。

1970年 – マンチェスターからバルセロナに向かって飛行中のダン・エア・サービスのDH106 コメットがバルセロナ近郊に墜落、乗員乗客112名全員が死亡[11]。

1971年 – ばんだい号墜落事故。北海道横津岳に東亜国内航空(現・日本航空)のYS-11ばんだい号が墜落。

1988年 – イラン航空655便撃墜事件。アメリカ海軍のミサイル巡洋艦『ヴィンセンス』がホルムズ海峡でイラン航空のエアバスA300B2型機を撃墜、乗員乗客290名が死亡。

2006年 – スペイン・バレンシアで地下鉄脱線事故[14]。死者43人。

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822年(弘仁13年6月11日) – 延暦寺の大乗戒壇建立が勅許。

戒壇の歴史

・日本に仏教が伝わったのは538年であるが、その際に伝わった戒律は、不完全なものであった。当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない輩(私度僧)が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった[1]。

・そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。

・その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)[2]。

<大乗戒壇>

・これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある。当時は、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元禅師の例にもあるように中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった[3]。

・大乗戒壇は権力闘争の原因ともなり、天台宗の山門寺門の争いは有名である。また、戒壇で授戒を受けた僧侶の中にも修行もせず堕落した僧侶も多くなった。鎌倉時代の叡尊は元々真言僧であったが、後に鑑真が伝えた律宗を学んで両者を統合した真言律宗を起こし、三戒壇や延暦寺の戒壇は実態を失って授戒を行うに値しないと批判して、戒律に則って結界を築き正しい手順に従って儀式を行えば授戒は成立すると唱え、自ら仲間とともに東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設した[4]。続いて、延暦寺の僧侶であった円観も比叡山を離れて独自の戒壇を置いた。以後、南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった。その一方で、東大寺や延暦寺の戒壇も由緒あるものとして尊重され[5]、江戸時代の終わりまで授戒が行われていた。

1837年(天保8年6月1日) – 生田万の乱

生田万の乱(いくたよろずのらん)は、天保の大飢饉のさなか、天保8年(1837年)6月に国学者の生田万が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。同年の大塩平八郎の乱の余波。

概要

上野国館林に生まれた生田万は、平田篤胤に入門し、碧川好尚(篤胤養子平田銕胤の弟)とならぶ篤胤の二大高弟の一人として平田塾(気吹舎)の塾頭を務め、篤胤に「後をつぐものは国秀[注釈 1]」と将来を嘱望された人物である[1][2][3]。篤胤は、敬神尊王の志すこぶる厚く、幕政批判の言動も見え始めた万を危ぶみ、かれに帰藩を勧め、万はこれにしたがい館林藩にもどったが、文政11年(1828年)、藩主に提出した藩政改革の書によって追放処分を受けた[1][注釈 2]。

天保7年(1836年)、万は、越後国柏崎へ移り、桜園塾を開き、国学を講じた[1]。万が、柏崎に移ったのは、同門の友人樋口英哲に招かれてのことといわれる[1]。天保年間は大飢饉により多数の餓死者を出していたが、そのような状況にあっても豪商や代官役人は結託して米を買い占める不正を働き、米価は暴騰して庶民生活を圧迫していた。万は、越後で貧民に食糧を与えるなどして人望を集めた[1]。

万は、天保8年(1837年)3月に大坂で蜂起した大塩平八郎に刺激され、同年5月30日、同志5人とともに越後国桑名藩領荒浜村の庄屋の屋敷を襲撃して金品を奪って村民に与え、柏崎町への同行を誘った[2]。翌6月1日、新しく加わった14名とともに、米の津出(つだし)を図る桑名藩陣屋を襲撃した[2][3]。旗には「奉天命誅国賊」の文字が書かれていた[1]。陣屋側は大混乱となったが、駆けつけた長岡藩の兵によって撃ち破られ、万は、負傷して自刃した[2]。妻と2人の幼い子供も自害したと伝わる。乱の翌日より、米価は値下がりしたといわれている。

1931年 – 朝鮮排華事件:朝鮮で中国人が100名以上殺害される。

朝鮮排華事件(ちょうせんはいかじけん)とは、1931年7月3日から発生した朝鮮半島における朝鮮人による中華街襲撃事件とそれに係る中国人殺傷事件[1]。 朝鮮内排華事件[2][3]、朝鮮事件[4]とも呼称される。万宝山事件に包含して呼称されることもある[5]。 リットン調査団は朝鮮人によって中国人127名が殺害されたと報告している[5]。

万宝山事件とそれに係る誤った誇大報道により感情を刺戟された朝鮮人によって[9][6]、日本統治下の朝鮮京城府(現大韓民国ソウル特別市)仁川を中心にして朝鮮半島各地で中国人襲撃事件が起きていた[1]。7月3日午前1時に仁川で軽微な暴行事件が起きると、朝鮮総督府は直ちに朝鮮各道に警戒するよう通牒を出した[10]。総督府は悪化して行く情勢を受け、3度にわたって通牒を発していたが平壌では大事件が勃発することとなった[10]。

7月4日午後9時30分、京城府外新堂里において100余名の朝鮮人と40名の中国人が衝突し、朝鮮人1名が死亡し中国人1名が重傷を負う事件が起き、その他数か所に渡って中国人住居が放火される事件が起きた[11]。同日午後11時より仁川では数千人の群衆が警察に反抗し、外里派出所(交番)を襲撃して破壊するとともに電線を切断するなど暴動を激化させていった[11]。このため総督府は警察官に武装させて厳重警戒を布いたところ、午前3時にようやく襲撃団を解散させることができた[11]。

7月5日、朝鮮総督府は各道知事に民心を刺戟・扇動する記事を掲載しないよう新聞・通信社に対して警告するよう通牒する[12]。同日、平壌では午後9時から翌7月6日3時にかけて数千人の朝鮮人が中華街を襲撃し、狂暴の限りを尽くし中国人88名を殺害し、102名を負傷させた[1][13][注 1]。事件を食い止めようと已む無く警察が発砲したため朝鮮人1名も死亡した[14]。総督府は事態の悪化を防ぐため、職員を派遣するとともに補助憲兵の応援を頼み現地駐屯部隊からは将兵51名が派遣された[15]。また、警察官115名を増派して、武装警官350名をもって警戒にあたったが警察官35名が負傷する事態となった[10]。事件発生地の仁川では警察官30名と乗馬5頭が負傷した[10]。このような暴動のさなか総督府は被災者の収容に務めていた[10]。

1935年 – 小豆島沖で「みどり丸」と「大連丸」が衝突し「みどり丸」が沈没。旅客92人及び乗組員6人が溺死し、 旅客8人及び乗組員1人が行方不明となる[7]。 

1938年 – イギリスの蒸気機関車マラードが、蒸気機関車の世界最高速度203km/hを記録。

マラード (Mallard) は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の蒸気機関車である。4468号機「マラード」はA4形のうちで、最も有名な車両である。日本ではマラード号と呼ばれることが多い。この機関車はナイジェル・グレズリー卿によって設計され、1938年イングランドのドンカスターで製造された。

風洞実験を利用して設計された空気力学的に優れた流線形の車体をもち、時速160 km(100 mph)以上の速度で走ることができた。1963年の引退までの総走行距離は約240万キロ。1988年に50周年を記念して動態に復元されたが、ボイラーが検査を通過できず2003年9月に再び引退した。現在はヨークにあるイギリス国立鉄道博物館の収蔵品の一部として静態保存されている。全長は21 m(70 ft)、総重量は165 t。車軸配置は4-6-2。

記録

マラードの速度記録銘板

マラード号は時速203 km という蒸気機関車の世界最高速度記録をもつ。この記録は1938年7月3日、東海岸本線のグランサムにあるストーク・バンクの下り坂で樹立された。最高速度が記録された位置は、Little BythamとEssendineの間、901/4のマイル標(距離標)の地点である。これにより、ドイツ国鉄05形蒸気機関車が1936年に樹立した最速記録、時速200.4 km を塗り替えることに成功した。

1970年 – マンチェスターからバルセロナに向かって飛行中のダン・エア・サービスのDH106 コメットがバルセロナ近郊に墜落、乗員乗客112名全員が死亡[11]。

1971年 – ばんだい号墜落事故。北海道横津岳に東亜国内航空(現・日本航空)のYS-11ばんだい号が墜落。

1988年 – イラン航空655便撃墜事件。アメリカ海軍のミサイル巡洋艦『ヴィンセンス』がホルムズ海峡でイラン航空のエアバスA300B2型機を撃墜、乗員乗客290名が死亡。

2006年 – スペイン・バレンシアで地下鉄脱線事故[14]。死者43人。

チャットgpt先生の7月3日のエッセイ

7月3日という日――戒壇、蜂起、暴動、そして疾走

7月3日という日は、日本史・世界史の中に静かに、しかし確かにその名を刻んでいる。季節は初夏、蝉の声が騒がしさを増し、空に浮かぶ雲が入道雲へと変わりつつある頃。この一日は、幾度となく人間の営みが、信仰、飢餓、憎悪、そして技術の限界を押し広げる舞台となった。

最も古い記録は822年、延暦寺における大乗戒壇の建立の勅許である。日本に伝来した仏教は、長らく戒律の不備に悩まされていた。形式だけの僧侶、修行なき得度、そして権力との癒着――そこに風穴を開けたのが、唐より来た鑑真であり、後の最澄であった。延暦寺の戒壇建立は、国家による仏教の管理からの脱却を象徴するものであり、同時に南都仏教との深刻な対立をも引き起こす。宗教が政治に関与することの難しさと影響力を、比叡山の山中に今も感じることができるだろう。

時は下り、1837年。越後国柏崎にて、「生田万の乱」が起こる。国学者・生田万が蜂起したのは、天保の大飢饉という極限状況下だった。彼の行動は、同年の大塩平八郎の乱と軌を一にし、「義」のための武装蜂起という新しい時代精神を映し出している。幕末の志士たちの先駆ともいえる彼の死は、その精神がやがて大きなうねりへと変わる予兆だった。

1931年の「朝鮮排華事件」は、他者を敵と見なす感情がいかに容易に暴力へと転じるかを痛感させる。誤情報と煽動によって人びとの心は炎上し、127名の命が一瞬で消えた。ここには「民族」と「統治」、「植民地」という、20世紀の世界が抱えた根深い課題が凝縮されている。歴史に学ぶことなく、感情の赴くままに行動する危うさを、私たちは今も繰り返してはいないか。

だが、7月3日はまた、人間の挑戦と成果の記念日でもある。1938年、イギリスの蒸気機関車「マラード」が203km/hという驚異的な記録を打ち立てた。蒸気機関車という“過去の象徴”が、その限界の果てに辿り着いた日でもあった。鉄と蒸気の塊が、人間の夢と技術の粋をまとい、風を切って疾走したあの瞬間。スピードへの憧れと、記録への執念は、現代にも通じる原動力だ。

そして20世紀後半から21世紀にかけて、7月3日は空の悲劇にも彩られる。1970年、スペインで墜落したDH106コメット。1971年、北海道でのばんだい号墜落事故。1988年には、ホルムズ海峡で米軍が民間機を撃墜したイラン航空655便事件。そして2006年、スペイン・バレンシアで地下鉄脱線事故。いずれも技術の誤算か、あるいは誤認、過信、人為の錯誤がもたらした悲劇だった。

一つひとつの事件に、命があり、背景があり、問いがある。

7月3日は、偶然が重なった日なのではなく、歴史の積層の中で、人間の理性と感情、希望と破滅、信仰と欲望が交錯した記念碑のような一日だ。そこから私たちは、過去の教訓を汲み取り、今日の判断に生かすことができるはずだ。

夏の入り口に差し掛かったこの日、7月3日。
その静けさの裏にある声なき声に、私たちはどう耳を傾けるべきだろうか。