7月28日
20240728日曜日旧暦6月23日仏滅(癸巳みずのとみキシ) 月齢 22.2 下弦
年末まであと156日
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7月28日の出来事
1794年(フランス革命暦II年テルミドール10日) – フランス革命: 前日のテルミドールのクーデターで失脚したジャコバン派メンバーに死刑判決が下され、同日のうちにロベスピエールら22人が処刑される。
1889年 – 熊本市の西を震源とする熊本地震。死者20人。
1945年 – エンパイアステートビルにB-25爆撃機が激突。乗員3人を含む14人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲。死傷者は1767名。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲。死者44名、負傷者31名以上
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。24日分と合わせ、燃料不足により停泊していた多くの艦が大破・着底する。
1955年 – 三重県津市中河原海岸にて、水泳訓練中の津市立橋北中学校生徒が遭難する水難事故が発生(橋北中学校水難事件)。女子生徒36名が死亡。
1976年 – 中国河北省でMw7.5-7.8の唐山地震発生。死者24万名以上、住宅全壊率94%の被害。
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1794年(フランス革命暦II年テルミドール10日) – フランス革命: 前日のテルミドールのクーデターで失脚したジャコバン派メンバーに死刑判決が下され、同日のうちにロベスピエールら22人が処刑される。
テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d’état du 9 Thermidor) は、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命を主導していたマクシミリアン・ロベスピエールが率いる山岳派(ジャコバン派)独裁に対立する勢力によるクーデターである。「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」とも呼ばれ、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる
翌7月28日、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下された。午後6時、ロベスピエール兄弟、サン・ジュスト、アンリオら22人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。
さらに、ジャン=バティスト・カリエやフーキエ=タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー=ヴァレンヌやコロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。
1889年 – 熊本市の西を震源とする熊本地震。死者20人。
1945年 – エンパイアステートビルにB-25爆撃機が激突。乗員3人を含む14人死亡。
1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故(英語:1945 Empire State Building B-25 crash)は、1945年7月28日、アメリカ陸軍航空軍所属のB-25爆撃機が濃霧の中を飛行中に、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングに衝突した航空事故。
この事故により、14人(3人の乗組員全員と建物内の11人)が死亡し、推定被害額は当時の100万ドル(2019年の価値換算で約1,400万ドルに相当)と算出された。この事故で建物の構造の安全性は損なわれなかった[1]。
詳細
午前9時40分、機体はエンパイア・ステート・ビルディングの北側、79階に衝突し、18 × 20フィート(5.5m × 6.1m)の大きさの穴を建物に開けた[7]。衝突した階には、戦争扶助協会と全国カトリック福祉評議会(英語版)の事務所が入居していた。機体に二つ装備されているエンジンのうち、片方が建物の南側(衝突したのと反対側)の壁も突き破り、道路を挟んだ隣の区画まで270m落下し、ペントハウスのアートスタジオを破壊する火災を引き起こした。もう一方のエンジンとランディングギアの一部がエレベーターシャフトから落下した[7]。エレベーターシャフトから伝わって燃え広がったこの火災は、当時としてはまれだった高層ビルで起きた火災として唯一消防士によって鎮火が成功した物であった[7]。火災は40分で消火された[7]。
スミス中佐、クリストファー・ドミトロヴィッチ二等軍曹、海軍航空機整備助手のアルバート・ペルナ(移動のため便乗)、衝突階にいた民間人が犠牲となった[1](墜落が起こったとき、50人から60人の観光客が86階の展望台にいた)。ペルナの遺体は2日後、捜索隊がエレベーターのシャフトの底で発見した。他の2人の乗組員の遺体は見分けがつかないほどに燃えていた[8]。
エレベーターガールのベティ・ルー・オリバーは、エレベーターシャフトを伝わった火災で80階においてエレベーターのカゴから投げ出され、重度の火傷を負った。救急隊員が彼女を別のエレベーターに乗せて1階に運ぼうとしたが、そのエレベーターのカゴを支えるケーブルも事故の影響で損傷し、75階から落下し、地下階に到達した[9]。オリバーはこの落下を生き延びたが、救助者が瓦礫の中に彼女を見つけたとき、骨盤、背骨、首が折れていた[5]。これは、最も長い距離をエレベーターで落下し生き残った世界記録となった[6]。エレベーターシャフト内部の空気がクッションになって落下スピードを弛めたと考えられている[6]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲。死傷者は1767名。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲。死者44名、負傷者31名以上
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。24日分と合わせ、燃料不足により停泊していた多くの艦が大破・着底する。
1955年 – 三重県津市中河原海岸にて、水泳訓練中の津市立橋北中学校生徒が遭難する水難事故が発生(橋北中学校水難事件)。女子生徒36名が死亡。
橋北中学校水難事件(きょうほくちゅうがっこうすいなんじけん)または津海岸集団水難事件(つかいがんしゅうだんすいなんじけん)は、1955年7月28日に三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が、同市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した水難事故。
1976年 – 中国河北省でMw7.5-7.8の唐山地震発生。死者24万名以上、住宅全壊率94%の被害。
唐山地震(とうざんじしん, 拼音: tángshān dìzhèn, タンシャン・ディーヂェン)は、1976年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に中華人民共和国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュードMw7.6の直下型地震である。市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな右横ずれが発生し、当時有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。死者数は中国発表で24.2万、アメリカの地質調査所の推計では65.5万人となっている[3]。
当時の中国は文化大革命の真っ只中で、毛沢東政権の最晩年の時期[5]でもあった。このため、中国政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。また、政府の方針により被害実態の多くが伏せられたとも言われ、死者の数についても非公式には60万から80万人、もしくはそれ以上とも言われている。この地震の情報もすぐには公表されず、日本に地震発生が伝えられたのは、地震発生の21時間後であったと報道されている。
チャットgpt先生の7月28日のエッセイ
### 7月28日: 歴史の中の一日
7月28日は、歴史の中で数々の重要な出来事が起こった日です。フランス革命、エンパイアステートビルの衝突事故、そして災害など、さまざまな出来事がこの日に刻まれています。
まず、1794年のフランス革命における「テルミドールのクーデター」があります。この日は、フランス革命の最も劇的な瞬間の一つとして知られています。前日のクーデターで失脚したロベスピエールら22人のジャコバン派メンバーが死刑を宣告され、その日のうちに処刑されました。ロベスピエールは、恐怖政治の象徴とも言える存在であり、その処刑は革命の一つの転機となりました。この事件は、革命が如何にして自身のリーダーをも飲み込む激動の時代であったかを物語っています。
1889年には、熊本市で地震が発生しました。死者20人を出したこの地震は、自然災害の脅威を改めて認識させる出来事でした。また、1945年の同じ日には、エンパイアステートビルにB-25爆撃機が衝突する事故が発生し、14人の命が奪われました。濃霧の中での事故は、高層ビルにおける航空機衝突の危険性を示すものでした。驚くべきことに、この事故の後、エレベーターガールのベティ・ルー・オリバーは75階から落下しても生還し、その後のギネス世界記録に名を刻みました。
同じく1945年には、第二次世界大戦末期の日本において、複数の空襲が行われました。青森大空襲、大山口列車空襲、そして呉軍港空襲と続き、多くの犠牲者が出ました。これらの空襲は、戦争の悲惨さと市民への影響を改めて浮き彫りにしました。
1955年には、三重県津市で水泳訓練中の中学生が遭難する悲劇が起こりました。橋北中学校の女子生徒36名が溺死するという大惨事で、集団活動の安全管理の重要性を痛感させる出来事となりました。
1976年のこの日、中国河北省で発生した唐山地震は、史上最も致命的な地震の一つです。公式発表によれば24万人以上が死亡し、住宅の全壊率は94%に達しました。文化大革命の真っ只中であったため、外国からの援助を拒否した中国政府の対応も批判の的となりました。この地震は、自然災害が持つ破壊力と、政治的背景が災害対応に与える影響を浮き彫りにしました。
7月28日は、こうした歴史的な出来事を通じて、人類が直面した試練とそれに対する対応を学ぶ日となっています。それぞれの事件や事故、災害が残した教訓は、現代にも通じるものが多く、未来に向けての備えや対策の重要性を示しています。この日を振り返ることで、私たちは過去の過ちや教訓を学び、より良い未来を築くための糧とすることができるでしょう。