7月24日
20250724木曜日旧暦6月30日大安(甲午きのえうまコウゴ)月齢 28.6
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ甲午きのえうま日 年末まであと160日
吉方位 隠遁日 甲午きのえうま日 東 北西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8824%E6%97%A5
7月24日の出来事
757年(天平宝字元年7月4日) – 橘奈良麻呂の乱: 橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂打倒計画が発覚し逮捕。
930年(延長8年6月26日)- 清涼殿落雷事件。清涼殿に落雷して公卿2人が即死し、菅原道真の怨霊との噂が流れる。
1587年(天正15年6月19日) – 豊臣秀吉がバテレン追放令を発令。
1927年 – 小説家芥川龍之介が服毒自殺する。遺著として『或阿呆の一生』などが見つかった。
1943年 – 第二次世界大戦: ハンブルク空襲が始まる。5万人以上の死者を出した。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。戦艦日向、空母龍鳳が大破。一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。
2013年 – サンティアゴ・デ・コンポステーラ列車脱線事故: スペインで、マドリードからフェロルに向かっていた列車が脱線転覆し、79人が死亡[11]。
2014年 – アルジェリア航空5017便墜落事故が発生[12]。死者116名(全員)。
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757年(天平宝字元年7月4日) – 橘奈良麻呂の乱: 橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂打倒計画が発覚し逮捕。
概略
事件前史
橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。
743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。
755年(天平勝宝7歳)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかった。この時、越前守の佐伯美濃麻呂が証人として喚問され、美濃麻呂は「私は大臣が何をおっしゃったのかは知りません。ただ考えますと、佐伯全成なら知っているでしょう」と答えている。そこで、全成が喚問されることになったが、光明皇太后が天皇をなだめたため、沙汰止みになったという。
翌756年(天平勝宝8歳)2月、これを恥じた諸兄は辞職した。
同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。
同年5月2日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。
翌757年(天平勝宝9歳)1月、引退していた橘諸兄が失意のうちに74歳で死去する。なお、奈良麻呂の一連の計画と父である諸兄の関係について、知らなかったもしくは計画に反対してその抑制に動いていた(反対に諸兄という重しがなくなったことで奈良麻呂の動きが活発化した)とする森田悌[1]や中村順昭[2]の説と奈良麻呂が12年もの間に度々計画を企てていたのに父の諸兄が何も知らなかったのは不自然で、先の誹謗問題の件も考えると計画に何らかの関与をしていた可能性があるとする木本好信[3][4]の説に分かれている。
同年3月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃された。4月に入ると、天皇は群臣を集めて次の皇太子について意見を述べさせた。藤原豊成と藤原永手は塩焼王を推挙し、文室智努と大伴古麻呂は池田王を推挙した。しかし、藤原仲麻呂は「臣下のことを一番よく知るのは君主です」と述べて天皇の意向に従いたいと述べた。それを聞いた天皇は、皇室の長老であった新田部親王か舎人親王の子の中から選ぶのが妥当と言うことで新田部親王の子である道祖王が皇太子に選ばれたが今回廃されたので今度は舎人親王の子から選ぶのが適当であると述べた上で、船王は閏房のことで、池田王は孝行のことで不適切な行いがあったとし、(新田部親王の子であるが今回群臣からの推挙のあった)塩焼王についてもかつて聖武天皇の不興を買ったので不適切であるとして、大炊王(淳仁天皇)を立太子することを宣言した。しかし、実は大炊王は仲麻呂が後ろ盾となっており庇護していた人物であった(『続日本紀』天平宝字元年4月辛巳条)。
陰謀の計画と発覚
仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する[注釈 1]。同年6月28日(7月18日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している。大伴古麻呂もその事情を知っている」と密告した。翌29日(7月19日)に太政官院(太政官の庁舎)の庭に橘奈良麻呂・大伴古麻呂・小野東人・黄文王・安宿王ら20名ほどが集まり、7月2日(7月22日)の宵に挙兵することを誓約した[6]。
7月2日(7月22日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。光明皇太后も、「おまえたち藤原・橘の一族は私の姪(おい)同然の近親者である。故太上天皇はしばしばおまえたちを召して、『朕の亡き後は皇太后に仕えて、お助け申しあげよ』と仰せられた。また大伴・佐伯の一族ははるか昔から歴代天皇の親衛隊として仕えてきた者どもであり、特に大伴氏は私の実家の姻戚でもある(鎌足の母親が大伴氏であることを示している)。みな心を同じくして天皇を助けまつろうという心がけがあったならば、このたびのような醜聞は起こらぬはずだった。おまえたちがよからぬことから、このようになるものと思われる。みな明(あか)き清き心で天皇を助け仕えまつらなくてはならない」との宣命を出した。
しかし、その日の夕方、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日(7月23日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。
ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった[注釈 2]。
過酷な処分
東人の供述により、7月4日(7月24日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。
この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王の監督下、杖で全身を打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる[注釈 3]。
安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために不問とされ[注釈 4]、後日臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)している。反乱計画に直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。また、中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある[8][注釈 5]。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。
一連の処分が終わった8月18日(9月6日)に孝謙天皇は元号を「天平宝字」と改元して体制の立て直しを図ることになった。
その後
仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。758年(天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙上皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。
930年(延長8年6月26日)- 清涼殿落雷事件。清涼殿に落雷して公卿2人が即死し、菅原道真の怨霊との噂が流れる。
死者 3-5人(藤原清貫、平希世、美努忠包、近衛2人?)
周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。16時半過ぎ、雨が上がり、清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出された。しかし、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包(『扶桑略記』では右近衛忠兼、清涼殿で被災)が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。二人は「死活相半ば」だったものの、しばらくして回復した。また、清涼殿南庇で火災が起こり、右近衛茂景が一人で消火に当たった[2][3]。『扶桑略記』によれば、清涼殿で更に近衛2名が被雷した[4]。
清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため大混乱となった。7月2日、穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に遷座したが[5][4]、惨状を目の当たりにして体調を崩し[2][4]、3ヶ月後に崩御することとなる[6]。
天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。
1587年(天正15年6月19日) – 豊臣秀吉がバテレン追放令を発令。
概説
織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国の天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1] 。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった[2]。天正14年(1586年)3月[3]『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟・秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され[要出典][注 1]、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事[要出典]などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった[19]。バテレン追放令以降の秀吉の書簡は[19]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した[21][22][23]。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが[24]、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している[25][26][27]。
欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している[28]。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている[29][30][注 8]。ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]。
バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧した。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己[要出典]によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録された。ポルトガル人が生きたままの状態で牛や馬の皮を剥いで、素手で食べていたとの記録や、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易に関する記述がある[35]。
歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは『九州御動座記』には文書の正確性に疑念をもたせる箇所があるとして、ポルトガル人が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの衝撃的な記載に言及し、ヨーロッパ人を化物と考えることは東アジアでは一般的であるために空想的と評しており[36][35]、執筆者が実際に目撃したものを著述したとは考えていない。九州御動座記にはこうした[注 12]偏見を含んだ記述の問題があるためポルトガル人に対する「黒い伝説」[注 13]として読めるとしつつも、実際に起きた事実として定量的な理解はすべきではないが、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易によって奴隷がおかれた状況については定性的な理解をすることも可能だとした。史実かは不明だが、この文書が秀吉がバテレン追放令を発布するに至った認識を理解するものとして軽んじることはできないと述べている[35][注 15]。
「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されているとの史料批判が行われている[37]。
鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』によると、南九州の薩摩[38]では200-300人の中国人奴隷[注 16]が家畜のように扱われていたと記録されているが[39][注 17]、日本の奴隷市場は倭寇による中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給だけでなく、日本国内からの供給にも依存していたという[33]。歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは、ポルトガル船来航以前から人身売買は行われており[42]、その状況も列島全体で広く知られていたことや、秀吉の質問状の分析から[43][42]、秀吉は倫理的な側面よりも宣教師の影響や、九州での労働力枯渇等の経済的な側面[注 18]を優先しており、秀吉が奴隷貿易に怒ってバテレン追放令を発布したとの岡本良知の説は覆えることになると結論を述べている[42]。
『デ・サンデ天正遣欧使節記』は1582年に旅立った少年達の記録として追放令前後の九州の社会的状況を記したものとして引用されることがある。出版年は1590年のものであるため、バテレン追放令の影響と見られる記述も収録されている。日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[46][47][注 19]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている[48]。
戦国時代の日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究は岡本良知「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている[注 20][注 21][49]。バテレン追放令と奴隷貿易との関わりについては、いまだに岡本良知の説が言及されている[42]。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性についてはC・R・ボクサー「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)[50]が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。
その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、牧英正「人身売買」 (1971年) [51]、藤木久志「雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)[52]などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた[49]。牧によると、秀吉は奴隷貿易のもつ倫理的な側面よりも、労働力の確保などの経済政策を重視していた[49][53][注 22]。藤木は甲陽軍鑑、北条五代記や島津の大友領侵攻に関するポルトガル人の報告から奴隷狩りが日本において一般的に行われていた事を明らかにした[54][55]。
日本人奴隷と追放令に関する最新の研究成果として、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)[49][56]があるが、ソウザの著作の信頼性や文脈化には複数の問題点が指摘されている[注 26][注 28][注 30]。野心的な研究として高く評価される一方で、歴史学者ハリエット・ズーンドーファー[注 31]はポルトガル人の逸話、発言や報告にある信頼性の低い記述を貧弱な説明と共にそのまま引用していること、どこで得られた情報なのかを示す正確な参考文献を提示しないために検証不可能であり、書籍中での主張に疑念を抱かさせるといった批判をしている[64][注 32]。
宣教師の社会的評価
バテレン追放令の原文では日本を神国と宣言する一方で、キリスト教を邪法として定義しており、異文化、異教を広めていた宣教師への風当たりは強かった。
日本における宣教師への社会的評価を示すものとして、誹謗中傷を目的として流布された風説がある。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[65]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。
司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[66]
さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[67]。
人肉を食うということも、草木を枯らすということも、また戦乱をおこし、町を焼き、国々を滅ぼすということも、つまるところは一つである。異邦人としての天竺人、とくに宣教師の存在そのものが、死と破滅を伴うという神秘的な考え方である。
— 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955
宣教師は「にせものの誑し狐」と呼ばれることがあった[69]。こうした狐との呼称には宣教師が人を騙すべきとの固定観念があったという。豊後で宣教師達と論争をした仏僧達は次のように述べたという。
天竺から来た伴天連たちが言うことはすべて嘘である。彼らペてん師たちはお前たちを欺くから、まるで子供のように素直であってはならぬ[70]
宣教師に対する奴隷貿易批判について
1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師による奴隷貿易を批判している[注 3]。
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
— 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[48]。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[48]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。
— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]
デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[48]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[注 19][136]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注 11]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[17][18]。
1927年 – 小説家芥川龍之介が服毒自殺する。遺著として『或阿呆の一生』などが見つかった。
生涯
1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる[1]。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため[* 1]、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。
1924年(大正13年)、芥川は『桃太郎』を発表した。芥川にとっての桃太郎観というものは、『女性改造』連載「僻見」1924(大正13)年4月1日発行第3巻第4号に見出すことができる。芥川は上海で章炳麟(章太炎先生)から聞いた話を次のように引用した。(「僕」が芥川、「予」が章炳麟)
「 その時先生の云つた言葉は未だに僕の耳に鳴り渡つてゐる。――「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」先生はまことに賢人である。僕は度たび外国人の山県公爵を嘲笑し、葛飾北斎を賞揚し、渋沢子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生れた桃太郎へ一矢を加へるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄弁よりもはるかに真理を含んでゐる。(「僻見」より) 」
章炳麟は、侵略者としての桃太郎と日本の帝国主義による植民地政策を重ね合わせたのであり、芥川はそれを理解して自らの作品『桃太郎』を執筆したのである[13]。当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方でバーナード・ショーへの傾倒など社会主義のよき理解者であった[14]。1925年(大正14年)制定の治安維持法に至る法案策定過程に関して彼ははっきりと不快感を示している。
7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している[17]。
人物
大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったという。
1943年 – 第二次世界大戦: ハンブルク空襲が始まる。5万人以上の死者を出した。
ハンブルク空襲(ハンブルクくうしゅう)は、第二次世界大戦中にイギリスとアメリカがドイツのハンブルクに対して行なった一連の空襲作戦。
ドイツの大港湾都市ハンブルクは第二次世界大戦の間イギリス空軍(RAF)とアメリカ陸軍航空軍(USAAF)の激しい爆撃にさらされた。1943年7月の空襲のうちの1回で火災旋風が発生し、これが約4万人もの民間人の犠牲者を出した主因となった。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。戦艦日向、空母龍鳳が大破。一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。
2013年 – サンティアゴ・デ・コンポステーラ列車脱線事故: スペインで、マドリードからフェロルに向かっていた列車が脱線転覆し、79人が死亡[11]。
2014年 – アルジェリア航空5017便墜落事故が発生[12]。死者116名(全員)。
チャットgpt先生の7月24日のまとめ
📅【2025年7月24日】暦と吉方
- 曜日:木曜日
- 旧暦:6月30日
- 干支:甲午(きのえうま)
- 六曜:大安(最吉日)
- 月齢:28.6(新月前)
- 年干支:乙巳(きのとみ)年
- 日干支:甲午
- 吉方位:東・北西(大吉)
- 年末まであと:160日
🗓 歴史上の主な出来事(7月24日)
▶ 757年:橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂が中心となり、藤原仲麻呂の打倒を企てたクーデター未遂事件。陰謀が発覚し、関係者多数が拷問死・流罪などの厳罰を受けた。
- 背景:橘奈良麻呂の父・橘諸兄はかつて政権中枢にあったが、藤原仲麻呂の台頭と孝謙天皇の即位により橘氏の勢力は低下。
- 計画:仲麻呂の屋敷を兵で包囲し、皇太子を廃し、自派の皇族を即位させようとした。
- 発覚と処分:密告で計画が露見。関係者443人が処分され、奈良麻呂は拷問死。
- 結果:藤原仲麻呂の権力が頂点に達する契機となったが、のちに彼も失脚。
▶ 930年:清涼殿落雷事件
- 宮中(清涼殿)に落雷が直撃し、藤原清貫、平希世、美努忠包ら公卿・近衛らが死亡。
- これは菅原道真の怨霊の祟りと恐れられた(彼は901年に左遷されて亡くなった人物)。
- 宮廷での死穢忌避により、遺体は密かに搬出。
- 雷火が紫宸殿にも波及し、複数の重臣が負傷・炎上も発生。
▶ その他の主な出来事
年 | 出来事 |
1587年 | バテレン追放令:豊臣秀吉がキリスト教宣教師の国外退去を命令。 |
1927年 | 芥川龍之介が服毒自殺:代表作『羅生門』『河童』『或阿呆の一生』など。 |
1943年 | ハンブルク空襲開始(WWII):推定5万人以上が死亡。 |
1945年 | 呉軍港空襲:戦艦日向・空母龍鳳が大破、死者・負傷者約2800人。 |
2013年 | スペイン列車脱線事故:死者79人。 |
2014年 | アルジェリア航空墜落事故:乗客乗員116人全員死亡。 |
🔍 注目の2大事件の共通点と意義
項目 | 橘奈良麻呂の乱 | 清涼殿落雷事件 |
主因 | 政争・皇位継承 | 天災と信仰(怨霊) |
被害 | 多数の拷問死・流罪 | 高官の即死・宮中被災 |
象徴 | 貴族政治の権力闘争 | 平安期の怨霊信仰 |
後世への影響 | 藤原仲麻呂の台頭 → 乱 | 道真の祟り伝説 → 神格化(天満宮) |