kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月2日  1582明智光秀刺殺される。ほかwikipedia光秀公辞世の句

7月2日

20250702水曜日旧暦6月8日先勝(壬申みずのえさるジンシン)月齢 6.6

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月壬申みずのえさる日  年末まではあと182日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%882%E6%97%A5

7月2日の出来事

626年(武徳9年6月4日) – 唐の初代皇帝李淵の次男李世民が宮中に乱入、長兄の皇太子李建成と弟李元吉を暗殺、実権を掌握。(玄武門の変)

1582年(天正10年6月13日) – 山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。

辞世

辞世

西教寺にある
明智光秀公辞世句の碑
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』[注釈 38]
「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」[191]

1644年 – イングランド内戦: マーストン・ムーアの戦い。クロムウェル率いる鉄騎隊がルパートの騎兵を潰走させて武名をあげる。

年月日:1644年7月2日

場所:ヨーク西方10km

結果:議会派・国民盟約連合軍の勝利

損害:国王軍17000人中 戦死4000人 捕虜1500人 議会軍25000人中 戦士300人 

1990年 – メッカで巡礼者が将棋倒しになり1426人が死亡。

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626年(武徳9年6月4日) – 唐の初代皇帝李淵の次男李世民が宮中に乱入、長兄の皇太子李建成と弟李元吉を暗殺、実権を掌握。(玄武門の変

時             626年7月2日

場所        長安城太極宮玄武門

結果        李建成・李元吉の死亡、李世民の朝権掌握・立太子

李世民の皇帝即位

概要

高祖李淵は長男の李建成を立太子するが、隋討伐で戦功を挙げた李世民の名声が高まり、李世民に天策上将なる称号を与え、東宮に匹敵する弘義宮を建築するに至り、李建成は皇太子の地位に不安を持つようになった。

李世民の勢力を削減しようとした李建成は、李世民から礼遇されている謀臣である房玄齢と杜如晦を讒言により排除した。その後李建成の幕臣の魏徴や弟の李元吉が李世民暗殺を建議した。

この計画を事前に察知した李世民は、讒言によって遠ざけられていた房玄齢と杜如晦を道士に変装させて自邸に呼び寄せ対策を協議、李建成の部下で長安城の北門である玄武門の守備隊長である常何を買収、武徳9年(626年)6月4日に変を起こした。

当日李建成は宮中に参内することになっていた。緊迫した情勢の中警備兵に守られていた李建成であるが、宮殿内部は符籍を有した者しか入ることが許されていなかったため、少数の供者を引き連れて中に入ると、李世民側に寝返っていた常何らが一斉に切りかかった。その中、李建成の幕臣である馮立と、皇太子派の李元吉の幕臣である謝叔方が奮戦、李世民の部下である敬君弘と呂世衡の首代を上げるなどの抵抗を示したが、結局李建成と李元吉は殺害されてしまった。

1582年(天正10年6月13日) – 山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。

辞世

西教寺にある
明智光秀公辞世句の碑
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』[注釈 38]
「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」[191]

年月日:天正10年6月13日(1582年7月2日)

場所:山崎(摂津国と山城国の境)から勝龍寺城一帯

結果:羽柴軍の勝利

損害:羽柴軍 30000人中 戦死3000人 明智軍15000人中 戦死3000人。

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。

古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある[22]。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける[23]。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。

天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。

エピソウド

・流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという(『太閤記』上和編)。

・永禄5年(1562年)に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦う朝倉景行の軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(小瀬甫庵『太閤記』)。

・鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。

・夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、斎藤義龍によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負って越前へ逃亡した」などの逸話がある[190]。

・本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという(『 豊内記』)。

・従来の説では光秀は『天台座主記』[171] に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密であったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(門跡領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方[172]があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、比叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪・和田秀純宛の光秀書状で、比叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現・大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者であるという説が有力になっている[173]。

1644年 – イングランド内戦: マーストン・ムーアの戦い。クロムウェル率いる鉄騎隊がルパートの騎兵を潰走させて武名をあげる。

年月日:1644年7月2日

場所:ヨーク西方10km

結果:議会派・国民盟約連合軍の勝利

損害:国王軍17000人中 戦死4000人 捕虜1500人 議会軍25000人中 戦士300人 

マーストン・ムーアの戦い(The Battle of Marston Moor)は、清教徒革命のイングランド内戦(第一次イングランド内戦)における国王軍(王党派)と議会軍(議会派)の1644年7月2日の戦闘である。アドウォルトン・ムーアの戦い以来、イングランド北部は国王軍がほぼ掌握していたが、この戦闘で議会軍の有利に一挙に傾いた。

1990年 – メッカで巡礼者が将棋倒しになり1426人が死亡。

チャットgpt先生の7月2日のエッセイ

【7月2日のエッセイ:権力と運命の分かれ道】

7月2日。日本では蒸し暑い夏の盛り、蝉の声が響き始めるこの日。しかし歴史を繙けば、世界各地でこの日が運命の分岐点となった者たちがいた。


626年のこの日、中国・唐の都、長安の玄武門で血の粛清が行われた。李世民は兄・李建成と弟・李元吉を討ち、実質的な政権を握る。後に名君・太宗として称えられる彼の出発点は、家族の命を賭した玄武門の変だった。動機は政争、手段は殺害、目的は国家の安定。しかしその過程は決して美しいものではない。歴史とは、時に正義よりも結果で語られる。李世民の手が血に染まっていたことを、後世の称賛はどこか忘れている。

そのちょうど956年後、1582年の7月2日――日本では戦国の激震が走っていた。本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀が、羽柴(豊臣)秀吉と山崎で激突。敗れ、敗走の中で名もなき雑兵に討たれたという。三日天下と揶揄される光秀だが、その一撃が日本史を根本から変えたことは疑いない。彼はなぜ信長を討ったのか?「殷の紂王を討った武王のごとし」との大義を唱えながらも、民衆の心は離れていた。卓越した智謀を持ちながら、時流に乗れなかった悲劇の知将。彼の人生もまた、権力の渦中で翻弄された運命だった。

さらに西の彼方、1644年のイングランド。この日、マーストン・ムーアの野で、清教徒革命の大戦が展開された。王政を支持する騎士たちは、クロムウェルの鉄騎隊に打ち砕かれる。この戦いで革命の流れは決定的となり、やがて国王チャールズ1世の処刑へとつながっていく。君主の神聖不可侵という信念すら、民意と軍事力の前では脆かった。

そして1990年、現代に至ってなお、7月2日は人間の営為の儚さを示す。メッカ巡礼中の将棋倒し事故で1426人が死亡。信仰が集まる場で起きた、信じ難い悲劇。祈りと死が隣り合わせで存在する――これもまた、我々の歴史の一部である。


このように、7月2日は、権力と運命の境界線に立たされた者たちの記録が刻まれている。誰が正しかったのか、誰が勝者で誰が敗者だったのか。それは結局、歴史という濁流が決める。

今、私たちが迎える2025年の7月2日には、戦も内乱もないかもしれない。けれども、私たち一人ひとりにも人生の「玄武門」や「山崎」が訪れることがある。そこに立つ時、どのような決断をし、どのような道を選ぶのか。その重みと余韻は、何百年先の未来にまで残るかもしれない。

7月2日――それは歴史に名を残した人々と、今日という一日を生きる私たちとをつなぐ、時間の節目なのである。