7月2日
20230702sun 旧暦5月15日先勝 辛酉かのととりシンユウ 半夏生 月齢13.9
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%882%E6%97%A5
7月2日の歴史上の出来事
626年(武徳9年6月4日) – 唐の初代皇帝李淵の次男李世民が宮中に乱入、長兄の皇太子李建成と弟李元吉を暗殺、実権を掌握。(玄武門の変)
1582年(天正10年6月13日) – 山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。
1644年 – イングランド内戦: マーストン・ムーアの戦い。クロムウェル率いる鉄騎隊がルパートの騎兵を潰走させて武名をあげる。
*マーストン・ムーアの戦い は、清教徒革命のイングランド内戦(第一次イングランド内戦)における国王軍(王党派)と議会軍(議会派)の1644年7月2日の戦闘である。アドウォルトン・ムーアの戦い以来、イングランド北部は国王軍がほぼ掌握していたが、この戦闘で議会軍の有利に一挙に傾いた。
1931年 – 万宝山事件が起こる
*万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年(昭和6年)7月2日に中国の長春北西に位置する万宝山で起こった、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件。死者なく収まったが、この事件をきっかけに朝鮮半島で中国人への感情が悪化して排斥運動が起こり、朝鮮人による中国人襲撃事件が起こり、多くの死者重軽傷者がでた。事件に続けて起きた朝鮮排華事件を包含して万宝山事件と呼称されることもある。中村大尉事件とともに、関東軍による満洲問題の武力解決の口実にも使われ、後の満洲事変につながった。
*中村大尉事件(なかむらたいいじけん)又は中村大尉殺害事件とは、満洲国成立前年の1931年(昭和6年)6月27日、新潟県南蒲原郡中之島村大字中条(現長岡市)出身の陸軍参謀中村 震太郎大尉(1897年生まれ)と他3名が軍用地誌調査の命を受け、中華民国黒竜江省大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛(中国語版)の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件のこと。
1941年 – 第二次世界大戦: 御前会議で対ソ戦準備・フランス領インドシナ侵攻に伴う対米英戦準備を明記した「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定。
*情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱(じょうせいのすいいにともなうていこくこくさくようこう)は、1941年(昭和16年)7月2日に第2次近衛内閣時に御前会議において決定された国策。この国策の要諦は海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にある。
1941年 – 第二次世界大戦: 大本営が関東軍特種演習を発動。
*関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)は、日本軍が実施した対ソビエト連邦作戦準備。略称は関特演。1941年(昭和16年)6月22日に独ソ戦が開始されると、7月2日の御前会議は『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定した。これに基づいて7月7日に関特演の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から約300の各部隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満洲・朝鮮部隊を戦時定員に充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。
1968年 – 東大安田講堂事件: 学生が安田講堂を再びバリケード封鎖。
7月2日の歴史的転機:暗殺と抗議の連鎖
7月2日は、歴史上重要な出来事が数多く起きた日です。この日には政治的な暗殺や抗議活動が記録されており、社会の転機となる出来事が展開されました。このエッセイでは、7月2日の歴史上の出来事を取り上げ、それらが社会に与えた影響や意義について考察してみたいと思います。
626年、唐の初代皇帝である李淵の次男、李世民が宮中に乱入し、長兄の皇太子李建成と弟李元吉を暗殺しました。この出来事は「玄武門の変」として知られています。李世民は実権を掌握し、後に唐の第二代皇帝となりました。この事件は、李世民による政権の移行と唐王朝の成立につながった重要な出来事でした。
1582年には、山崎の戦いが起きました。羽柴秀吉が明智光秀を破り、光秀は敗走中に雑兵に刺殺されました。この戦いは、戦国時代の覇権争いにおいて重要な転機となり、秀吉が後に日本を統一する大きなステップとなりました。
1644年には、イングランド内戦におけるマーストン・ムーアの戦いが行われました。クロムウェル率いる鉄騎隊がルパートの騎兵を撃破し、議会軍が有利になりました。この戦闘により、イングランド北部は議会軍の支配下に入り、内戦の行方は一変しました。
また、1931年の万宝山事件も7月2日に発生しました。この事件は、中国の長春において朝鮮人と現地中国人農民の間で小競り合いが発生し、日本と中国の警察が衝突したものでした。この事件は、朝鮮人による中国人への排斥運動を引き起こし、後に朝鮮排華事件として知られる一連の衝突に発展しました。この事件は、日本の植民地支配に対する反発と民族間の緊張を浮き彫りにし、後の満洲事変につながる一因となりました。
さらに、1941年には第二次世界大戦における重要な出来事が起きました。日本の大本営が対ソ戦準備と対米英戦準備を明記した「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定しました。また、関東軍も関東軍特種演習を発動し、対ソビエト連邦への戦争準備を進めました。これらの出来事は、太平洋戦争の進展と戦局の転換点となる重要な決定でした。
最後に、1968年の東大安田講堂事件も7月2日に再びバリケード封鎖が行われました。この事件は学生運動の一環として起き、学生たちが社会的な変革を求める抗議活動を展開しました。安田講堂はその象徴的な場所となり、学生たちは自らの主張を貫こうとする決意を示しました。
7月2日の歴史上の出来事は、それぞれが社会や国際情勢に大きな影響を与えた重要な節目となっています。これらの出来事を振り返りながら、その意義と歴史的な背景について考えることは、私たちが現在の社会や世界情勢を理解する上で重要な一歩です。