kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月18日 64ローマ大火、ほか写真wikipedia炎上するローマ

7月18日

20240718木曜日旧暦6月13日赤口(癸未みずのとひつじキビ) 月齢 12.2

年末まであと166日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8818%E6%97%A5

7月18日の出来事

64年 – ローマ大火起こる[1]。

1870年 – 第1バチカン公会議でローマ教皇首位説・教皇不可謬説に関する教義憲章『パストル・エテルヌス(英語版)』が採択。

1953年 – 活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨(南紀豪雨)が降ったことにより、有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生。

1982年 – グアテマラ内戦: プラン・デ・サンチェスの虐殺(英語版)。グアテマラ・バハ・ベラパス県のプラン・デ・サンチェス(英語版)で国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。

1984年 – サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件: カリフォルニア州サンディエゴのファーストフード店でジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティが銃を乱射、21人を射殺し19人を負傷させた。警察官がヒューバティを射殺。

2019年 – 京都アニメーション放火殺人事件が発生。死者36名、負傷者33名の平成以降最悪の放火殺人事件となった[10]。

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64年 – ローマ大火起こる[1]。

概要

64年7月18日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったという[2]。

帝政期に入り、首都ローマは100万もの人口を抱える大都市へと変貌したが、建築物の多くが木造で道幅が狭いこと、人口増加による高層集合住宅(インスラ)の密集などが災いし、数日鎮火しない程の大火災が幾度も起きていた。この64年の火災はその中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩[3]かかっている。

出火当時アンティウムの別荘に居た皇帝ネロは、火災の報告を聞くと直ちにローマへ帰り、陣頭指揮をとって鎮火及び被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたった。しかし「大火を宮殿から眺めつつ故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていた」という風評が立つ。一旦鎮火するも貧民街から2度目の火の手が上がり、そこがネロの佞臣と悪名高い護衛隊長ティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたという[2]。

こうした風評をもみ消そうとしたのか、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑した[4]。しかし、この後も風評が完全に消えることはなかった。

評価

スエトニウスの伝記『ローマ皇帝伝』では、ローマの町並の醜悪さを嫌ったネロ帝がローマを改造するため、自ら放火し火災を眺めたとしている。最もよく知られた説だが、建物が密集し防火の外壁もなかった町を任意の区画だけ焼くのは不可能であり、醜悪なインスラ群だけでなく皇帝の居住するパラティーノの丘にあった数多くの邸宅や神殿、そこにあった宝物や美術品、ネロの館ドムス・トランシトリアが完全に焼け落ちていることなどから、否定される傾向にある。なお、大火関連でのキリスト教徒についての言及はない。(ネロの章でキリスト教徒について述べられた部分は「前代未聞の有害な迷信に囚われた人種であるキリスト教徒が処罰された」という1文のみで、これは“ネロの善政”として挙げられている逸話。『ローマ皇帝伝』は歴史書ではなく逸話集であり時系列や背景がはっきりしない)

ネロと同時代のユダヤ人史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると、ネロの愛妻ポッパエア皇后とユダヤ人社会に密接な繋がりがあることなどから、大火の被害を受けなかったローマ市内のユダヤ人居住区のユダヤ人が放火犯だと疑われ迫害されるところ、ポッパエアの口添えでキリスト教徒のみが犯人とされたとする説も古くから存在する。ユダヤ教との完全な決別、原始キリスト教の成立過程に絡む事件という見方もある。

ロンドン大火等の大規模災害の事例と照らし合わせて、多民族を抱える大都市を襲った災害の混乱の中、火事場泥棒や流言飛語が横行したローマの治安回復と人心の安定のために犯人を作り出した、もしくは実際にキリスト教徒が怪しまれたので処刑されたとも言われる。

大火後

首都ローマの再建

大火後、ネロは火災に強い都市造りを主導する。道幅を広げ建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲むこと、共同住宅には中庭・消火用器具を設置すること、住居は一定の部分を耐火性のある石で造ることなどが義務付けられた。ネロの私費で防火用の柱廊が敷設され、火災に対応できるよう水道が整備される。区画整理によりローマの街並みは一変した[6]。

ネロは自身の宮殿など建築物にローマン・コンクリートを用いた新たな建築様式を導入したとされる。

神殿や歴史的な記念碑を始めとするローマの伝統的な建築物が一掃された後の急速かつ大規模な変革に加え、ネロが被災後都心に新造したヴィッラ(別荘)形式の宮殿ドムス・アウレアが皇帝への反感と不信を生んだ。 そのため、ネロがより壮大な宮殿を建てる道を切り開くために放火をした、という噂が絶えなかった。しかし現在では歴史家によって次の理由からその噂は否定されている。一つは大火のあとにネロが建築した新しい宮殿は、焼けた宮殿とほとんど同じであったということ。もう一つは、出火当時満月であったということ。放火犯は月のない闇夜を好むことから、満月の日に放火することは考えにくい、ということである。

1870年 – 第1バチカン公会議でローマ教皇首位説・教皇不可謬説に関する教義憲章『パストル・エテルヌス(英語版)』が採択

教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)は、カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。

教皇不可謬が教義として正式に宣言されたのは1870年の第1バチカン公会議においてであるが、その思想自体には初代教会以来の長い歴史的な伝統がある。

341年にはユリウス1世がアンティオキアの教会にこう書き送っている。

あなたがたは知らないのですか、わたしたちが最初に知らされることが慣習であること、なにが正しいかがここ(ローマ)で決められるということを。

— デンツィンガー57番

1953年 – 活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨(南紀豪雨)が降ったことにより、有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生。

1982年 – グアテマラ内戦: プラン・デ・サンチェスの虐殺(英語版)。グアテマラ・バハ・ベラパス県のプラン・デ・サンチェス(英語版)で国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。

1984年 – サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件: カリフォルニア州サンディエゴのファーストフード店でジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティが銃を乱射、21人を射殺し19人を負傷させた。警察官がヒューバティを射殺。

2019年 – 京都アニメーション放火殺人事件が発生。死者36名、負傷者33名の平成以降最悪の放火殺人事件となった[10]。

チャットgpt先生の7月18日のエッセイ

### 7月18日: 歴史の中の悲劇と教訓

7月18日は歴史において数々の悲劇が繰り返された日です。その背後には人間の脆弱さと強さが交錯し、新たな未来への教訓が刻まれています。この日が持つ意味を振り返りながら、私たちは何を学び、未来にどう生かすべきかを考えます。

#### ローマ大火(64年)

紀元64年の7月18日、ローマの大火が発生しました。帝都ローマはその壮麗さと活気で知られる一方、多くの木造建築が密集し、火災のリスクが常に存在していました。チルコ・マッシモ周辺から始まった火の手は風に煽られ、6日7晩にわたり都市の大部分を焼き尽くしました。ネロ帝の指揮のもとで鎮火活動が行われましたが、ネロ自身の行動や放火疑惑が後に彼の評判を大きく傷つけました。ローマ市の再建は火災後に行われ、都市計画に大きな変革をもたらしました。道幅を広げ、防火対策を強化し、ローマン・コンクリートを用いた新しい建築様式が導入されました。この悲劇から学んだのは、危機管理と防災対策の重要性です。

#### 第1バチカン公会議(1870年)

7月18日はまた、カトリック教会にとっても重要な日です。1870年のこの日、第1バチカン公会議で「教皇不可謬説」が正式に採択されました。この教義は、ローマ教皇が信仰や道徳に関する事柄を厳かに宣言する際、その決定は聖霊の導きに基づき誤りえないというものです。教会の統一と信仰の一貫性を守るためのこの教義は、時代を超えてカトリック信者に深い影響を与え続けています。

#### 南紀豪雨(1953年)

1953年の7月18日は、日本にとって自然災害の恐ろしさを再認識させる日となりました。活発な梅雨前線の影響で、紀伊半島では10日間で700mmを超える大雨が降り続けました。和歌山県を中心に、川の氾濫や土砂災害が発生し、多くの命と家屋が失われました。死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約10万棟という甚大な被害は、自然の猛威とその対策の重要性を教えてくれました。

#### グアテマラ内戦と虐殺(1982年)

1982年の7月18日、グアテマラでは内戦の中でプラン・デ・サンチェスの虐殺が行われました。国軍と自警団が268人の村人を虐殺したこの事件は、内戦の悲惨さと人権侵害の恐ろしさを物語っています。犠牲者たちの無念を忘れず、平和と人権を守るために何ができるかを考え続けることが求められます。

#### サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件(1984年)

1984年、カリフォルニア州サンディエゴのマクドナルド店で発生した銃乱射事件では、21人が命を落とし、19人が負傷しました。犯人のジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティは警察に射殺されましたが、この事件は銃規制と精神健康の重要性を再認識させました。

#### 京都アニメーション放火殺人事件(2019年)

2019年の7月18日、日本の京都アニメーションで放火殺人事件が発生し、36人の尊い命が奪われました。アニメーション業界における悲劇として、世界中に衝撃を与えました。この事件を通じて、私たちは職場の安全対策の強化と、犯罪予防の重要性を再認識する必要があります。

### まとめ

7月18日は、多くの悲劇が刻まれた日です。しかし、それらの出来事から私たちは多くの教訓を得ることができます。過去の悲劇を忘れず、その教訓を未来に生かすことで、より安全で平和な社会を築くことが求められています。歴史を学び、教訓を胸に刻みながら、私たちはより良い未来を目指して歩んでいきましょう。