kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月18日  64ローマ大火、ほか写真wikipedia炎上するローマ、ほか

7月18日

20250718金曜日旧暦6月24日大安(戊子つちのえねボシ)月齢 22.6

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月戊年つちのえね日  年末まであと166日

吉方位 隠遁日 戊子つちのえね日 南 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8818%E6%97%A5

7月18日の出来事

紀元前390年 – ローマ・ガリア戦争: アッリアの戦い(伝承による日付)。

戦争:ローマ・ガリア戦争

年月日:紀元前390年7月18日(伝承)、紀元前387年(推定)

場所:ローマ近郊のアッリア川

結果:ガリア側の勝利

損害:ローマ側 14000人中多数 24000人中僅少

64年 – ローマ大火起こる[1]。

660年(顕慶5年6月6日) – 百済が唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)により滅ぼされる。

993年(正暦4年6月26日) – 903年に歿した菅原道真に左大臣と正一位を追贈。

1419年(応永26年/世宗元年6月26日) – 応永の外寇。朝鮮が、対馬に来襲。

年月日:応永26年6月20日(1419年7月12日) – 同年7月3日(1419年7月25日)

場所:日本・対馬、糠岳

結果:日本の勝利

損害:日本軍 700騎以上 戦死123人 朝鮮 17285人 戦死 3000人(朝鮮記録180人)

1870年 – 第1バチカン公会議でローマ教皇首位説・教皇不可謬説に関する教義憲章『パストル・エテルヌス(英語版)』が採択。

1923年 – 長野県大桑村で大水害。死者・行方不明81人[3]。

1953年 – 活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨(南紀豪雨)が降ったことにより、有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生。

1953年 – 活発な梅雨前線の影響により紀州大水害(南紀豪雨、7.18水害)が発生。死者行方不明1142人。

1982年 – グアテマラ内戦: プラン・デ・サンチェスの虐殺(英語版)。グアテマラ・バハ・ベラパス県のプラン・デ・サンチェス(英語版)で国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。

1984年 – サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件: カリフォルニア州サンディエゴのファーストフード店でジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティが銃を乱射、21人を射殺し19人を負傷させた。警察官がヒューバティを射殺。

2019年 – 京都アニメーション放火殺人事件が発生。死者36名、負傷者33名の平成以降最悪の放火殺人事件となった[10]。

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紀元前390年 – ローマ・ガリア戦争: アッリアの戦い(伝承による日付)。

戦争:ローマ・ガリア戦争

年月日:紀元前390年7月18日(伝承)、紀元前387年(推定)

場所:ローマ近郊のアッリア川

結果:ガリア側の勝利

損害:ローマ側 14000人中多数 24000人中僅少

当時のローマ軍は市民軍であり、ギリシア風の密集陣形をとってその中央に重装歩兵(裕福なローマ人)がいて、外側にいくほど貧しい者が貧弱な武装で取り囲んでいた(各兵士は自分の装備を自分で用意した)。ガリア側が攻撃を開始すると、密集陣形の側面の兵は逃げ出し、中央のローマ人が取り囲まれ、殺された。陣形の中央には年上の市民が多く、彼らを失ったことがその後の流れに大きく影響した。

逃げ出した兵士たちはパニック状態でローマに逃げ帰った。

その後第二次サムニウム戦争でも敗北を味わったローマは、そこでも敵方の新しい戦術と陣形を目にし、柔軟性の強化の必要性が認識され、軍団を3つの隊列に再編成するようになった。前列をハスタティ、中列をプリンキペス、後列をトリアリイとし、それぞれマニプルス(中隊)を単位として構成されるようになった。これを「マニプルス陣形 (manipular formation)」と呼ぶ。最前列(ハスタティ)の軽装歩兵は最大2年間の任期で、敵陣に投槍を投げ、後ろに下がる。経験を積んだ歩兵(ハスタティまたはプリンキペス)は重い槍と短剣と盾を装備している。さらに経験を積んだトリアリイは後列に位置し、他が1中隊120人なのに対して、1中隊60人で構成される。トリアリイは重装歩兵の武装である。ローマは最も若い軽装歩兵が戦闘でなるべく生き延びるようにし、戦闘によって教育していく軍隊を作った。

この軍事システムはその後の全てのローマ軍の基本となり、数世紀の間存続し、ローマ帝国を成立させる一因となった。

ローマが再びローマ人以外の敵に蹂躙されるのは、紀元410年のことである(アラリック1世)。

64年 – ローマ大火起こる[1]。

概要

64年7月18日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったという[2]。

帝政期に入り、首都ローマは100万もの人口を抱える大都市へと変貌したが、建築物の多くが木造で道幅が狭いこと、人口増加による高層集合住宅(インスラ)の密集などが災いし、数日鎮火しない程の大火災が幾度も起きていた。この64年の火災はその中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩[3]かかっている。

出火当時アンティウムの別荘に居た皇帝ネロは、火災の報告を聞くと直ちにローマへ帰り、陣頭指揮をとって鎮火及び被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたった。しかし「大火を宮殿から眺めつつ故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていた」という風評が立つ。一旦鎮火するも貧民街から2度目の火の手が上がり、そこがネロの佞臣と悪名高い護衛隊長ティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたという[2]。

こうした風評をもみ消そうとしたのか、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑した[4]。しかし、この後も風評が完全に消えることはなかった。

評価

スエトニウスの伝記『ローマ皇帝伝』では、ローマの町並の醜悪さを嫌ったネロ帝がローマを改造するため、自ら放火し火災を眺めたとしている。最もよく知られた説だが、建物が密集し防火の外壁もなかった町を任意の区画だけ焼くのは不可能であり、醜悪なインスラ群だけでなく皇帝の居住するパラティーノの丘にあった数多くの邸宅や神殿、そこにあった宝物や美術品、ネロの館ドムス・トランシトリアが完全に焼け落ちていることなどから、否定される傾向にある。なお、大火関連でのキリスト教徒についての言及はない。(ネロの章でキリスト教徒について述べられた部分は「前代未聞の有害な迷信に囚われた人種であるキリスト教徒が処罰された」という1文のみで、これは“ネロの善政”として挙げられている逸話。『ローマ皇帝伝』は歴史書ではなく逸話集であり時系列や背景がはっきりしない)

ネロと同時代のユダヤ人史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると、ネロの愛妻ポッパエア皇后とユダヤ人社会に密接な繋がりがあることなどから、大火の被害を受けなかったローマ市内のユダヤ人居住区のユダヤ人が放火犯だと疑われ迫害されるところ、ポッパエアの口添えでキリスト教徒のみが犯人とされたとする説も古くから存在する。ユダヤ教との完全な決別、原始キリスト教の成立過程に絡む事件という見方もある。

ロンドン大火等の大規模災害の事例と照らし合わせて、多民族を抱える大都市を襲った災害の混乱の中、火事場泥棒や流言飛語が横行したローマの治安回復と人心の安定のために犯人を作り出した、もしくは実際にキリスト教徒が怪しまれたので処刑されたとも言われる。

大火後

首都ローマの再建

大火後、ネロは火災に強い都市造りを主導する。道幅を広げ建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲むこと、共同住宅には中庭・消火用器具を設置すること、住居は一定の部分を耐火性のある石で造ることなどが義務付けられた。ネロの私費で防火用の柱廊が敷設され、火災に対応できるよう水道が整備される。区画整理によりローマの街並みは一変した[6]。

ネロは自身の宮殿など建築物にローマン・コンクリートを用いた新たな建築様式を導入したとされる。

神殿や歴史的な記念碑を始めとするローマの伝統的な建築物が一掃された後の急速かつ大規模な変革に加え、ネロが被災後都心に新造したヴィッラ(別荘)形式の宮殿ドムス・アウレアが皇帝への反感と不信を生んだ。 そのため、ネロがより壮大な宮殿を建てる道を切り開くために放火をした、という噂が絶えなかった。しかし現在では歴史家によって次の理由からその噂は否定されている。一つは大火のあとにネロが建築した新しい宮殿は、焼けた宮殿とほとんど同じであったということ。もう一つは、出火当時満月であったということ。放火犯は月のない闇夜を好むことから、満月の日に放火することは考えにくい、ということである。

660年(顕慶5年6月6日) – 百済が唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)により滅ぼされる。

993年(正暦4年6月26日) – 903年に歿した菅原道真に左大臣と正一位を追贈。

1419年(応永26年/世宗元年6月26日) – 応永の外寇。朝鮮が、対馬に来襲。

年月日:応永26年6月20日(1419年7月12日) – 同年7月3日(1419年7月25日)

場所:日本・対馬、糠岳

結果:日本の勝利

損害:日本軍 700騎以上 戦死123人 朝鮮 17285人 戦死 3000人(朝鮮記録180人)

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。

当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている[6]。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した[7][8][5]。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であった[9]が結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

1870年 – 第1バチカン公会議でローマ教皇首位説・教皇不可謬説に関する教義憲章『パストル・エテルヌス(英語版)』が採択。

無謬性

「教皇ホノリウス1世」も参照

教皇の無謬性は、このように1870年に正式に定義されたが、この見解の背後にある伝統は、はるかに遡る。『パストール・アエテルヌス』の第4章の結論で、公会議は次のように宣言した[7]。

…私たちは、ローマ教皇がex cathedraを話すとき、つまり、すべてのキリスト教徒の牧師および医師の職を遂行するとき、彼の最高の使徒的権威のおかげで、普遍的な教会が保持する信仰または道徳に関する教義を定義することは、神によって啓示された教義であると教え、定義します。 祝福されたペテロによって彼に約束された神の援助によって、神の贖い主が彼の教会が信仰や道徳に関する教義を定義することを望んだその無謬性を所有しており、したがって、ローマ教皇のそのような定義はそれ自体であり、教会の同意からではなく、改革不可能である。[8]

1923年 – 長野県大桑村で大水害。死者・行方不明81人[3]。

1953年 – 活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨(南紀豪雨)が降ったことにより、有田川や日高川などが決壊した和歌山県を中心に死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生。

1953年 – 活発な梅雨前線の影響により紀州大水害(南紀豪雨、7.18水害)が発生。死者行方不明1142人。

1982年 – グアテマラ内戦: プラン・デ・サンチェスの虐殺(英語版)。グアテマラ・バハ・ベラパス県のプラン・デ・サンチェス(英語版)で国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。

1984年 – サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件: カリフォルニア州サンディエゴのファーストフード店でジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティが銃を乱射、21人を射殺し19人を負傷させた。警察官がヒューバティを射殺。

2019年 – 京都アニメーション放火殺人事件が発生。死者36名、負傷者33名の平成以降最悪の放火殺人事件となった[10]。

概要

2019年7月18日昼前、京都アニメーション第1スタジオにA(当時41歳)が侵入、バケツからガソリンを建物1階にまいてライターで着火したことにより、爆燃現象が発生した。結果としてスタジオは全焼、社員36人が死亡、33人が重軽傷と、日本国内の事件では過去に例を見ない大惨事となった(#被害状況)。

国内外で人気を得ていたアニメ制作会社を標的とした大量殺人事件として、世界に衝撃を与え、内閣総理大臣や国際連合事務総長、各国の政府の長や大使館、各界の著名人から弔意が寄せられた。また、Twitterではハッシュタグ「#PrayForKyoani」と共に、さまざまな言語による追悼や応援の声が上がった。更に、国内外からの寄付金は30億円を超え、税制上の優遇制度を適用する特例措置が取られた(#政界の対応)。一方、事件で死亡した犠牲者全員の氏名が公表されるまで1か月以上かかる異例の事態となり、実名報道の是非や要否についての議論が巻き起こった(#犠牲者の実名報道)。同時に、被害者や遺族への支援の不足も表面化した(#被害者支援)。

Aは、事件直後に身柄を確保された。Aも犯行時に瀕死の重傷を負ったものの、約10か月にわたり入院した後に逮捕、更に半年後に起訴された(#犯人)。刑事裁判では、2023年(令和5年)から2024年(令和6年)にかけて京都地方裁判所で第一審(裁判員裁判)の審理が行われ、Aは現住建造物等放火罪、殺人罪、建造物侵入罪、殺人未遂罪、銃刀法違反などの罪に問われた。公判では事件当時のAの責任能力が主な争点になり、中間論告・弁論を何度か行う異例の長期審理になったが、2024年1月25日に同地裁は責任能力を認定した上で「死刑はやむを得ない」としてAを死刑とする第一審判決を宣告した[14]。Aは大阪高等裁判所に控訴したが、翌2025年(令和7年)1月27日付で自ら控訴を取り下げたため、控訴審の公判は開かれることなく、第一審の死刑判決が確定した(#刑事裁判)[9]。

チャットgpt先生の7月18日のまとめ

📜 主な歴史的事件:

◉ 紀元前390年 – アッリアの戦い(ローマ・ガリア戦争)

  • 戦場:アッリア川(ローマ近郊)
  • 結果:ローマ大敗。多くの市民兵が戦死し、ローマ軍の戦術再編へつながる。
  • 影響
    • この敗北を契機にローマは軍制改革へ踏み出す。
    • マニプルス陣形への進化が始まり、以後のローマ軍の基盤に。

◉ 64年 – ローマ大火

  • 場所:チルコ・マッシモ周辺発生
  • 被害:14区中10区が焼失・損壊、鎮火まで6日7晩。
  • 皇帝ネロ
    • 初動は善政的対応(仮設住宅、食糧提供など)。
    • しかし「放火犯=ネロ説」が浮上し、後にキリスト教徒の迫害に繋がる。
  • 歴史評価
    • 現代ではネロ放火説は否定傾向。
    • むしろ災後の都市再建(防火都市政策、ローマン・コンクリート建築)が評価対象。

◉ 660年 – 百済の滅亡

  • 連合軍:唐・新羅(東アジアの大国同盟)
  • 影響:日本(倭国)と百済の関係、及び朝鮮半島勢力図が大きく変わる。
  • 日本への波及:倭国は援軍を送り、後の**白村江の戦い(663年)**につながる。

◉ 1419年 – 応永の外寇(朝鮮による対馬侵攻)

  • 李氏朝鮮の遠征:対馬制圧を試みたが、宗貞盛の反撃により撃退。
  • 結果:朝鮮は敗退、対馬との貿易関係が再編成される。
  • 日本国内の反応:「大唐蜂起」と誤解されるほどの衝撃。

◉ 1870年 – 第1バチカン公会議:教皇不可謬説採択

  • 重要教義:ローマ教皇の「無謬性」=信仰・道徳に関しては誤り得ないと定義。
  • 影響:カトリック教義の中枢となる根幹理念が確立された。

🌊 日本の災害史:

◉ 1923年 – 長野県大桑村水害

  • 死者・不明者:81人

◉ 1953年 – 紀州大水害(南紀豪雨、7.18水害)

  • 死者・行方不明:1124~1142人(記録差あり)
  • 原因:10日間で700mmを超える集中豪雨による河川決壊(有田川・日高川)
  • 被害規模:家屋被害 約10万棟。戦後日本最大級の水害の一つ。

🔫 20世紀の暴力とテロ:

◉ 1982年 – グアテマラ内戦:プラン・デ・サンチェスの虐殺

  • 犠牲者:村人268人
  • 背景:内戦下での政府軍と自警団による住民虐殺。
  • 現在:人権侵害の象徴として国際的にも記憶される。

◉ 1984年 – サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件(米カリフォルニア)

  • 死者:21人、負傷者19人
  • 特徴:当時のアメリカで最悪レベルの銃乱射事件。

🔥 平成以降最大の放火事件:

◉ 2019年 – 京都アニメーション放火事件

  • 死者:36人
  • 負傷者:33人
  • 影響
    • 日本アニメ業界・表現の自由をめぐる議論の契機に。
    • 世界的な哀悼と支援の輪が広がった。

🌗 暦・風水的な視点:2025年7月18日

  • 旧暦:6月24日(大安)
  • 干支:戊子(つちのえね)日
  • 年干支:乙巳(きのとみ)年
  • 月干支:癸未(みずのとひつじ)
  • 吉方位:南(大吉)
  • 特徴:隠遁日(行動より静観・内省が吉)