7月16日
20250716水曜日旧暦6月22日先負(丙戌ひのえいぬヘイジュツ)月齢 20.6
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月丙戌ひのえいぬ日 年末まであと168日
吉方位 隠遁日 丙戌ひのえいぬ日 北東 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8816%E6%97%A5
7月16日の出来事
622年 – ヒジュラ暦1年1月1日[1]。ヒジュラとは、預言者ムハンマドが、メッカの迫害から逃れメディナに移住(ヒジュラ)した日を指す[2]。イスラム暦(ヒジュラ暦)はこの日から起算する[3]。
1054年 – 東西教会の分裂: カトリック教会の使節としてコンスタンディヌーポリを訪問していた枢機卿フンベルトが、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世とその同調者に対する破門状を聖堂の宝座に叩きつける。ミハイル1世もフンベルト一行を破門。(東西教会の相互破門)
1212年 – レコンキスタ: アンダルシア州のナバス・デ・トロサで、イベリア半島のカトリック諸国と騎士修道会の連合軍がムワッヒド朝の軍を破る。(ナバス・デ・トロサの戦い)
戦争:レコンキスタ
年月日:1212年7月16日
場所:スペイン、アンダルシア州、ラ・カロリナ、ナバス・デ・トロサ
結果:カトリック連合軍の圧勝
損害:カトリック連合軍 5万人中 戦死2000人 ムワッヒド軍 12万5千人中 戦死10万人程度。
1942年 – ホロコースト: ナチス・ドイツ占領下のフランスでユダヤ人13,000人が一斉に検挙される。(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)
1945年 – マンハッタン計画: アメリカ合衆国がニューメキシコ州アラモゴードにおいて、人類初の原子爆弾の実験に成功。(トリニティ実験)
1948年 – キャセイ・パシフィック航空機ハイジャック事件。ハイジャック犯が機長・副機長を射殺した結果ハイジャック機が墜落、25名の死者を出す。
1949年 – フェイ台風が翌17日にかけて九州西側をかすめて北上。集中豪雨により死者29人、行方不明13人。全壊家屋150戸、床上浸水2054戸[9]。
1957年 – アメリカ海兵隊のジョン・ハーシェル・グレンがF8Uクルセイダー戦闘機により初の超音速によるアメリカ大陸横断を実施。3時間23分でロサンゼルスからニューヨークまでを飛行。
1969年 – 世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」打ち上げ。
1971年 – 7月16日から18日にかけて、兵庫県相生市や佐用町周辺で局地的な大雨が降る。相生市では河川の増水により橋が流失。土砂災害も相次ぎ、死者19人、重傷者26人の被害となった[11]。
1989年 – 越前海岸崩落事故。福井県丹生郡越前町玉川の国道305号線で岩盤が崩落する事故で15人死亡。
1999年 – ジョン・F・ケネディの長男ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが操縦する小型飛行機がロングアイランド沖で墜落。乗っていた3人全員が死亡。
2007年 – 午前10時13分、マグニチュード6.8で最大震度6強の新潟県中越沖地震発生。柏崎市を中心に被害が発生。死者10人、重軽傷者1700人以上。
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622年 – ヒジュラ暦1年1月1日[1]。ヒジュラとは、預言者ムハンマドが、メッカの迫害から逃れメディナに移住(ヒジュラ)した日を指す[2]。イスラム暦(ヒジュラ暦)はこの日から起算する[3]。
1054年 – 東西教会の分裂: カトリック教会の使節としてコンスタンディヌーポリを訪問していた枢機卿フンベルトが、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世とその同調者に対する破門状を聖堂の宝座に叩きつける。ミハイル1世もフンベルト一行を破門。(東西教会の相互破門)
東西教会の分裂(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。
この東西教会の分裂は、多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる[注釈 1]。
分裂の年
分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門した1054年とされることが多い。
しかし、395年にローマ帝国が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)などが増大した[1][2]。
そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、未だに東西両教会の「合同」は成立していない[3]。
近現代における差異の拡大と対立
1870年の第1バチカン公会議において、教皇不可謬説が正式なカトリック教会の教義として採択された。カトリックが信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないとするものだった。
この採択内容は、高位聖職者たる総主教といえども誤りを犯す事は人間として当然に有り得るのであり、公会議の決定に総主教も従わなければならないとする正教会の伝統的な考え方とは全く相容れないものであり、これによってカトリック教会と正教会の差異はより広がった。なお教皇不可謬説はカトリック教会内部からも異論の出るものであり、復古カトリック教会が成立する結果を招来してもいる。
ポーランドの正教会では150箇所の正教会の聖堂がカトリック教会の聖堂として強制的に転用されるという事件が1920年代に起こり、ウクライナとポーランドにおける東西両教会の関係に近現代においても尚しこりを残すこととなった。
1212年 – レコンキスタ: アンダルシア州のナバス・デ・トロサで、イベリア半島のカトリック諸国と騎士修道会の連合軍がムワッヒド朝の軍を破る。(ナバス・デ・トロサの戦い)
戦争:レコンキスタ
年月日:1212年7月16日
場所:スペイン、アンダルシア州、ラ・カロリナ、ナバス・デ・トロサ
結果:カトリック連合軍の圧勝
損害:カトリック連合軍 5万人中 戦死2000人 ムワッヒド軍 12万5千人中 戦死10万人程度。
イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。アルフォンソ8世はナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた[注 3]。この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
この時、伝説のように語られるサンチョ7世の突撃が行なわれた。彼は揮下の精鋭を率いてナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラバ騎士団の旗手であるペドロ・ゴメス・デ・アセベード(Pedro Gomez de Acevedo)、サンティアゴ騎士団修道長(comendator)アルフォンソ・フェルナンデス・デ・バリャドーレス(Alfonso Fernandez de Valladares)、サンティアゴ騎士団隊長ペドロ・アリアス(Pedro Arias、大怪我を負い8月3日死亡)、テンプル騎士団隊長ゴメス・ラミレス(Gomez Ramirez)、カラトラバ騎士団隊長ルイ・ディアス(Ruy Diaz)は、指揮ができないほどの悲惨な怪我をしていた。一方、敗北したナースィルは本国へ逃げ帰ることはできたものの、翌1213年、マラケシュで事故死した。
カトリック連合軍の勝因は士気の差にあったとされ、アルフォンソ8世はアラルコスの雪辱を果たすことに執念を燃やし、一般兵士も十字軍精神と戦利品獲得の野心がない交ぜになり士気は高かった。反対にムワッヒド軍は混成部隊で纏まりを欠き、ナースィルがアンダルス人やモロッコ人を差別していたため士気は低かった。イブン・カーディスの処刑もそれを助長、戦闘中サンチョ7世の部隊が本陣に迫るとナースィルが逃走したことが決定的な大敗になった[10]。
1942年 – ホロコースト: ナチス・ドイツ占領下のフランスでユダヤ人13,000人が一斉に検挙される。(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)
概要
ナチス・ドイツはホロコーストの一環として1942年の7月、占領したヨーロッパ各国でユダヤ人を大量検挙することを目的とした「春の風」作戦(Opération Vent printanier)を計画した。フランスにおいては、親独のヴィシー政権がフランスの警察官ら4500人以上を動員して作戦を実行した[1]。警察庁の記録によれば、7月17日の終わりには、パリと郊外での検挙者数は1万3152人で、そのうち4115人が子供だった。
ヴェル・ディヴ跡地にある慰霊碑
ヴェロドローム・ディヴェール(英語版、フランス語版)(Vélodrome d’Hiver、「冬季自転車競技場」の意味)とはパリ15区にあった自転車競技場ないしスケート競技場のことで、本事件で用いられた中間収容施設の中で最も大きかった。最初、検挙されたユダヤ人達の多くは5日間、ここに閉じ込められた。競技場に屋根はなく、真夏の太陽が照り付ける中、食料や飲料水をほとんど与えられず[1]、トイレも少なかった。身動きもできないまま、飢えと渇きと臭気に襲われ、その光景は人間に対する冒涜そのものであった[2]。
その後、アウシュヴィッツを初めとする東欧各地の絶滅収容所へと送られた。収容所生活の中で、終戦までに生き延びたのは100人に満たない大人のみで、子供は生き残らなかったという[3]。
1945年 – マンハッタン計画: アメリカ合衆国がニューメキシコ州アラモゴードにおいて、人類初の原子爆弾の実験に成功。(トリニティ実験)
トリニティ実験(トリニティじっけん、英語: Trinity, Trinity test[4])とは、1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験である。
実験はニューメキシコ州ソコロの南東48km(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で爆縮型プルトニウム原子爆弾を用いて行われ、同型の爆弾「ファットマン」が、後に長崎市へ投下された。この実験による核爆発は、約25キロトン(kt)のTNTの爆発と同規模のものであった[5]。
1962年にレズリー・グローヴスは、オッペンハイマー宛の手紙で、実験の名前の由来について、「トリニティ」という名前はアメリカ西部の川や山の名前としてよくあるものだったため、実験が世間の注意を引かないように、この名前を選んだのではないかと尋ねた。これに対してオッペンハイマーは次のように答えている。
確かに私がトリニティという名前を提案しましたが、その由来はそのような理由によるものではありません… 何故私がこの名前を選んだのかは定かではありませんが、自分が当時何を念頭に置いていたかについては覚えています。私がよく知っていて愛しているジョン・ダンの一篇の詩があります。これは彼が死の直前に書いたものです。以下はこの詩からの引用です。「’As West and East / In all flatt Maps—and I am one—are one, / So death doth touch the Resurrection.’ (“Hymn to God My God, in My Sicknesses”)」
オッペンハイマーは、続けてこう記している。
この詩には三位一体に関する記述はありませんが、ダンが書いた別のよく知られている賛美詩は次の一節から始まります。「’Batter my heart, three person’d God;——.’ (Holy Sonnets XIV)」これ以上の手掛かりは私も持ち合わせていません[11]。
一方、オッペンハイマーのあやふやな回答に対して、オッペンハイマーがサンスクリット語に親しんでいたことから、トリニティはキリスト教の三位一体ではなく、ヒンドゥー教の三神一体(トリムールティ)、すなわちヒンドゥーの創造の神ブラフマー、維持の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァがひとつのものの3つの現われを示しているとする概念から来たとする推測もなされている[12]。オッペンハイマーの伝記を著した歴史学者マーティン・シャーウィンらも、オッペンハイマーが挙げたダンの詩はそれを連想させるものだとしている[13]。
1948年 – キャセイ・パシフィック航空機ハイジャック事件。ハイジャック犯が機長・副機長を射殺した結果ハイジャック機が墜落、25名の死者を出す。
1949年 – フェイ台風が翌17日にかけて九州西側をかすめて北上。集中豪雨により死者29人、行方不明13人。全壊家屋150戸、床上浸水2054戸[9]。
1957年 – アメリカ海兵隊のジョン・ハーシェル・グレンがF8Uクルセイダー戦闘機により初の超音速によるアメリカ大陸横断を実施。3時間23分でロサンゼルスからニューヨークまでを飛行。
1969年 – 世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」打ち上げ。
概略
アポロ11号は2人の人間を世界で最初に月に着陸させた宇宙飛行であった。ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)[7]にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である[8]。
1971年 – 7月16日から18日にかけて、兵庫県相生市や佐用町周辺で局地的な大雨が降る。相生市では河川の増水により橋が流失。土砂災害も相次ぎ、死者19人、重傷者26人の被害となった[11]。
1989年 – 越前海岸崩落事故。福井県丹生郡越前町玉川の国道305号線で岩盤が崩落する事故で15人死亡。
1999年 – ジョン・F・ケネディの長男ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが操縦する小型飛行機がロングアイランド沖で墜落。乗っていた3人全員が死亡。
2007年 – 午前10時13分、マグニチュード6.8で最大震度6強の新潟県中越沖地震発生。柏崎市を中心に被害が発生。死者10人、重軽傷者1700人以上。
チャットgpt先生の7月16日のまとめ
📅 2025年7月16日(水)
- 旧暦:6月22日(先負/丙戌)
- 月齢:20.6(満月過ぎ)
- 干支:乙巳年・癸未月・丙戌日
- 吉方位:北東(大吉)
- 特記事項:隠遁日(目立った行動に適さない日)
- 年末まであと 168日
🌍 7月16日の主な歴史的出来事
🕌 622年 – ヒジュラ(イスラム暦元年)
預言者ムハンマドがメッカからメディナへ移住。
この「ヒジュラ」がイスラム暦(ヒジュラ暦)の起点。
- 重要性:イスラム世界での暦の基準日。
- 現代への影響:ヒジュラ暦は今なおイスラム教国で宗教行事などに使われる。
✝️ 1054年 – 東西教会の分裂(大シスマ)
ローマ教皇側の使節が東方教会を破門、正教会も破門で応酬。
- 背景:教義・儀礼・組織観などでの積年の対立(例:フィリオクェ問題、教皇権)。
- その後:分裂は象徴的事件とされ、今日に至るまでカトリックと正教会は別派のまま。
⚔️ 1212年 – ナバス・デ・トロサの戦い
カトリック連合軍がムワッヒド朝に大勝。レコンキスタの転機となる。
- 場所:スペイン・アンダルシア州
- 結果:カトリック軍圧勝(125,000人中100,000人のムワッヒド軍が戦死)
- 伝説:ナバラ王サンチョ7世が敵本陣を突破
✡️ 1942年 – ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件
ナチスの「春の風作戦」により、パリで13,000人以上のユダヤ人が一斉検挙。
- 収容施設:ヴェル・ディヴ(冬季競技場)に押し込められる
- その後:アウシュビッツなどへ移送、生存者はごくわずか
- 象徴:フランスにおけるホロコースト協力の負の歴史
☢️ 1945年 – トリニティ実験
人類初の原子爆弾実験。ニューメキシコ州アラモゴードにて。
- 成果:約25キロトンの爆発。のちの「ファットマン(長崎型)」と同型。
- 名称の由来:オッペンハイマーによる命名。ジョン・ダンの詩が影響。
- 哲学的背景:キリスト教の三位一体か、あるいはヒンドゥー教のトリムールティの影響とも言われる。
🚀 1969年 – アポロ11号打ち上げ
人類初の月面着陸へ向けた歴史的ミッション開始日。
- 日程:7月16日打ち上げ → 20日月面着陸 → 24日地球帰還
- 搭乗員:ニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズ
🌀 災害・事件
- 1948年:キャセイ・パシフィック航空機ハイジャック(25人死亡)
- 1949年:フェイ台風による集中豪雨(死者29人)
- 1971年:兵庫県相生市の大雨災害(死者19人)
- 1989年:越前海岸崩落事故(死者15人)
- 1999年:J.F.ケネディJr. 飛行機墜落(全員死亡)
- 2007年:新潟県中越沖地震(M6.8、死者10人、負傷者1700人超)
🔚 まとめ:7月16日の意義
- 宗教史においてはイスラム暦の起点とキリスト教の大分裂
- ヨーロッパ史ではレコンキスタの転機
- 近現代では核時代の始まりやホロコーストの象徴的事件
- そして宇宙時代の幕開けとも言える日