7月12日
20250712土曜日旧暦6月18日大安(壬午みずのえうまジンゴ)月齢 16.6
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月壬午みずのえうま日 年末まであと172日
吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日 南西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8812%E6%97%A5
7月12日の出来事
1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。
時 1189年8月28日 – 1191年6月12日
場所 アッコン
北緯32.9275度 東経35.0817度座標: 北緯32.9275度 東経35.0817度
結果 十字軍の勝利
損害 十字軍 59000人中 戦死19000人 アイユーブ朝 50000人中 戦死 5000~10000人
1562年 – ユカタンの司教ディエゴ・デ・ランダがインディオの異端尋問を行い、多数のマヤの絵文書の焚書を命じる。
1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。享年48歳。
1690年(ユリウス暦7月1日) – ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い。
戦争:ウィリアマイト戦争
年月日:1690年7月1日(グレゴリオ暦7月12日)
場所:アイルランド王国、ドラハダ近郊
結果:ウィリアマイトの勝利
損害:ジャコバイト軍 25000人中 戦死1500人 ウィリアムマイト軍 36000人中 戦死750人以下
1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡
1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。
1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。
2006年 – イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まる。
戦争:対テロ戦争
年月日:2006年7月12日 – 9月8日
場所:レバノン南部、イスラエル北部
結果:イスラエルによる捕虜の奪還失敗。停戦。
損害:イスラム軍 300~1000人予備軍10000人 戦死250人~600人 イスラエル軍 地上部隊10000人他に最大30000人 戦死119人。
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1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。
時 1189年8月28日 – 1191年6月12日
場所 アッコン
北緯32.9275度 東経35.0817度座標: 北緯32.9275度 東経35.0817度
結果 十字軍の勝利
損害 十字軍 59000人中 戦死19000人 アイユーブ朝 50000人中 戦死 5000~10000人
アッコ包囲戦(アッコほういせん、英語: Seige of Acre 1189-1191)とは、1189年8月、イェルサレム王国国王であるギー・ド・リュジニャン率いる十字軍と創始者サラーフッディーン(サラディン)率いるアイユーブ朝との間で起きた戦い。この戦闘はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗したギーがイスラム教徒に反撃したことで起きた戦いであり、のちに行われた第三回十字軍において非常に大きな意味を持った。この包囲戦で十字軍がイスラムに勝利し、サラディンの早期に十字軍国家を壊滅させる計画は失敗することとなった。
1562年 – ユカタンの司教ディエゴ・デ・ランダがインディオの異端尋問を行い、多数のマヤの絵文書の焚書を命じる。
マヤ、アステカなどの絵文書のことをコデックスないし(西)コディセとも呼ぶ。材料は、いちじくなどの木の繊維や樹皮、鹿の皮を利用して両面に白色の石灰を塗って、屏風折りにしている。文字や絵はおそらく先が平たいものと先のとがったものの2種類の硬い筆記具で描かれたと思われる。線描した後に鮮やかな彩色が施された。文書は、基本的には、左から右へ読み、裏返して再び左から右へ読むように作られた。古典期後期のマヤの土器には彩色された絵と文字が一緒になっている絵文書のような土器があることからおそらく古典期段階にも絵文書があったと思われるが、現在は当時のものは一点も伝えられていない。ただし後古典期のものはいくらかは残されており、暦、儀礼、神話、交易や貢納に加えて動物や植物についての記述もある。
1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。享年48歳。
嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。
戦後
足利将軍家
義教の死後、まだ幼少の長男・義勝が継いだが、義勝が程なく病没すると、その弟の義政が継いだ。まだ幼い将軍が2代にわたって続いたことで、足利将軍の実権は低下していくこととなり、絶対的な強権を誇った足利将軍は義教で実質最後となった。
足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、旧字体:足利 義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。
義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。
万人恐怖
足利義教木像(等持院)
義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで厳しい処断を行った。主に以下のような例がある。
永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられた。
永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。
義教は側室日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享6年2月、重子が義教の嫡子(後の足利義勝)を産むと、伯父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに、6月8日には義資が何者かに斬殺され、首を取られた。犯人については明らかにならなかったが、義教の討手であるという噂が流れた。この噂を流布した参議・高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。
比叡山根本中堂の炎上に関する噂を流布することを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。
酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた[注 13]。
説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。
猿楽においては、音阿弥を重く用いる一方で、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。
他にも、「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが、当時の記録に数多く記されている[41]。
永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数え上げているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には日野西資子といった称光天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上る者が処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれず、総数は相当数に上ると見られている。
これらの事跡は義教が暴君で、恐怖政治を志向したことや、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』永享7年2月8日条で、商人の斬首について触れ、「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残している。この「万人恐怖」を義教の時代を象徴する一語と見ることも多い[6]。
1690年(ユリウス暦7月1日) – ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い。
戦争:ウィリアマイト戦争
年月日:1690年7月1日(グレゴリオ暦7月12日)
場所:アイルランド王国、ドラハダ近郊
結果:ウィリアマイトの勝利
損害:ジャコバイト軍 25000人中 戦死1500人 ウィリアムマイト軍 36000人中 戦死750人以下
ボイン川の戦い(英: Battle of the Boyne)は、1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした[1]。
ジャコバイトは ジェームズ2世支持者
ウィリアムマイトは ウィリアム3世支持者
1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡
1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。
1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。
2006年 – イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まる。
戦争:対テロ戦争
年月日:2006年7月12日 – 9月8日
場所:レバノン南部、イスラエル北部
結果:イスラエルによる捕虜の奪還失敗。停戦。
損害:イスラム軍 300~1000人予備軍10000人 戦死250人~600人 イスラエル軍 地上部隊10000人他に最大30000人 戦死119人。
レバノン侵攻(レバノンしんこう)は、2006年7月にレバノンのシーア派武装組織ヒズボラがイスラエルに攻撃と侵入を行い、これに対してイスラエル軍が7月から8月にかけてレバノン領内に空爆・侵攻を行った事件である。
「2006年イスラエル・ヒズボラ戦争」、「7月戦争」、「第二次レバノン戦争」などとも呼ばれる。
チャットgpt先生の7月12日のエッセイ
【7月12日という日──戦火と記憶の交差点】
7月12日。
この一日は、暦のうえでは盛夏のただ中にあり、2025年の今年は土曜日、旧暦では6月18日、大安、壬午の日である。日本の暦注において「隠遁日」にあたり、吉方は南西とされるが、その一方で、歴史の中でこの日付は、世界各地で戦火や悲劇、権力の衝突が刻まれた日でもある。
たとえば1191年、十字軍によるアッコン包囲戦が終結。2年に及ぶ激しい攻防の末、十字軍がイスラム勢力であるアイユーブ朝に勝利した。ヒッティーンの敗北から反転攻勢に出た十字軍にとって、アッコンの陥落は象徴的な意味を持ち、以後の第三回十字軍の展開を左右する節目となった。およそ11万人が戦い、3万人近くが命を落としたこの戦は、「神の御名」のもとで行われた暴力の実相を、今なお静かに語り続けている。
1562年、遠くユカタンでは、マヤ文明の記録──マヤ・コデックス──が司教ディエゴ・デ・ランダの手で焚書にされた。彼は異端尋問の名のもとに、貴重な文化と知識の証しを「悪魔の文字」と決めつけて焼き払った。華やかな彩色と記号に秘められた宇宙観、時間、神話、交易、そして人々の暮らし。それらは灰となり、風に散った。歴史における文化破壊の象徴的事件として、この日が語り継がれるべき理由は、そこにある。
また、1441年の日本では、嘉吉の乱が勃発。将軍・足利義教が家臣・赤松満祐の邸で謀殺されるという、武家政権史上稀にみる大事件であった。義教は「万人恐怖」と呼ばれるほどの強権をもって統治を行い、多くの貴族・僧侶・庶民にまで処罰の刃を振るった。だがその恐怖は、自身の暗殺という皮肉な結末を迎える。暴君の末路と、絶対的な権力の危うさを示すこの一件もまた、7月12日という日に刻まれている。
さらに近代、1945年の敦賀と宇都宮の大空襲では、日本本土空襲のなかでも日本海側初の空爆として多くの命が奪われた。太平洋戦争末期の焦土と化した都市の姿は、空襲の記録とともに語り継がれ、平和の尊さを後世に問う。
1993年には北海道南西沖地震。200名を超す犠牲者を出した災害もこの日であった。そして2006年、レバノン戦争がこの日から始まり、2か月にわたる報復の連鎖と多くの民間人の犠牲を生むこととなった。
7月12日。
それは暦の上の「一日」に過ぎないかもしれない。だが、その裏には、人間が信じたもののために戦い、恐れ、壊し、そして悔やんだ歴史が幾層にも折り重なっている。
歴史を知ることは、過去を知るだけではない。私たち自身が、いかにして次の「7月12日」を迎えるのか。その構えと覚悟を持つための、静かな問いかけでもある。
今日という一日が、平穏のうちに過ぎていきますように。
そう願わずにはいられない、そんな日でもある。