kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月12日 1441年嘉吉の乱足利義教暗殺、ほか写真wikipedia6代足利義教木造

7月12日

20240712金曜日旧暦6月7日赤口(丁丑ひのとうしテイチュウ) 月齢 6.2

年末まであと172日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8812%E6%97%A5

7月12日の出来事

1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。

1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。享年48歳。

1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡

1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。

1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。

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1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。

アッコ包囲戦(アッコほういせん、英語: Seige of Acre 1189-1191)とは、1189年8月、イェルサレム王国国王であるギー・ド・リュジニャン率いる十字軍と創始者サラーフッディーン(サラディン)率いるアイユーブ朝との間で起きた戦い。この戦闘はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗したギーがイスラム教徒に反撃したことで起きた戦いであり、のちに行われた第三回十字軍において非常に大きな意味を持った。この包囲戦で十字軍がイスラムに勝利し、サラディンの早期に十字軍国家を壊滅させる計画は失敗することとなった。

1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。

嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

戦後

足利将軍家

義教の死後、まだ幼少の長男・義勝が継いだが、義勝が程なく病没すると、その弟の義政が継いだ。まだ幼い将軍が2代にわたって続いたことで、足利将軍の実権は低下していくこととなり、絶対的な強権を誇った足利将軍は義教で実質最後となった。

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、旧字体:足利 義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。

義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。

万人恐怖

足利義教木像(等持院)

義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで厳しい処断を行った。主に以下のような例がある。

永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられた。

永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。

義教は側室日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享6年2月、重子が義教の嫡子(後の足利義勝)を産むと、伯父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに、6月8日には義資が何者かに斬殺され、首を取られた。犯人については明らかにならなかったが、義教の討手であるという噂が流れた。この噂を流布した参議・高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。

比叡山根本中堂の炎上に関する噂を流布することを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。

酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた[注 13]。

説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。

猿楽においては、音阿弥を重く用いる一方で、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。

他にも、「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが、当時の記録に数多く記されている[41]。

永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数え上げているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には日野西資子といった称光天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上る者が処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれず、総数は相当数に上ると見られている。

これらの事跡は義教が暴君で、恐怖政治を志向したことや、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』永享7年2月8日条で、商人の斬首について触れ、「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残している。この「万人恐怖」を義教の時代を象徴する一語と見ることも多い[6]。

1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡

1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。

1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。

7月12日のコパイロット先生のエッセイ

7月12日は、様々な出来事が記録されていますね。それでは、以下に7月12日の出来事について詳しく説明します。

1191年 – アッコ包囲戦の終結

第3回十字軍において、アッコン(アッコ)が陥落し、2年にわたるアッコン攻城戦が終結しました。この戦闘は、ヒッティーンの戦いでサラディンに大敗したギー・ド・リュジニャン率いる十字軍が、イスラム教徒に対して反撃を行った戦いであり、後の第三回十字軍に大きな影響を与えました1。

1441年 – 嘉吉の乱

播磨守護の赤松満祐が室町幕府将軍である足利義教を自邸に招き、謀殺した事件です。この騒乱は、室町時代の政治的な混乱の一環であり、義教の強権的な手法によって幕府の地位向上を図ったものでした。しかし、その強権的な統治は周囲の反感を呼び、最終的には守護大名の赤松氏によって義教は暗殺されました2。

1899年 – 吉野川の増水と被害

吉野川が増水して各地で堤防が決壊し、一条町では小学校や多数の人家が流失しました。死傷者は197人で、浸水した家屋も多数あり、田畑の収穫は皆無でした1。

1945年 – 第二次世界大戦における空襲

敦賀大空襲: 日本海側沿岸の都市としては最初の空襲で、死者109名、負傷者201名が出ました。

宇都宮大空襲: 600余名が死亡した事件です。

1967年 – ニューアーク暴動

米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上の逮捕者が出ました。

1993年 – 北海道南西沖地震

マグニチュード7.8の地震が発生し、死者202人が出ました。

これらの出来事は、歴史の中で重要な瞬間であり、私たちにとって忘れてはならないものです。