kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月4日 1942ミドウェー海戦開始、ほか、写真wikipedia炎上する米軍ミドウェー基地

6月4日

20250604水曜日旧暦5月9日先勝(甲辰きのえたつコウシン)月齢 7.9

乙巳きのとみ年辛巳かのとい月甲辰きのえたつ日  年末まであと210日

吉方位 陽遁日 甲辰きのえたつの日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%884%E6%97%A5

6月4日の出来事

1615年(元和元年5月8日) – 大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡[1]。40000人以上が死亡。

1745年 – オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い

戦争:オーストリア継承戦争

年月日:1745年6月4日

場所:シュレージエン、シュトリーガウ西方ホーエンフリートベルク

結果:プロイセンの勝利

損害:プロイセン軍とオーストリア軍双方5万強で激突 戦死傷 プロイセン軍4800人 オーストリア軍 13000人強。

1928年 – 満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺。(張作霖爆殺事件)

1942年 – 第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が始まる。(日本時間では6月5日)

1989年 – 天安門事件: 民主化要求運動で最大100万人が集結していた天安門広場に、デモ鎮圧のため中国人民解放軍が出動。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲してデモを鎮圧した[4]。中国当局の発表では死者は319人とされているが、英外交文書では死者「1万人以上」と推計されるなど、真相は明らかになっていない[5]。

1989年 – ソ連・ウラル地方で天然ガスのパイプラインから漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 (ウファ鉄道事故)

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1615年(元和元年5月8日) – 大坂夏の陣: 徳川家康が豊臣秀頼と淀殿を切腹に追い込み、豊臣氏が滅亡[1]。40000人以上が死亡。

1745年 – オーストリア継承戦争: ホーエンフリートベルクの戦い

戦争:オーストリア継承戦争

年月日:1745年6月4日

場所:シュレージエン、シュトリーガウ西方ホーエンフリートベルク

結果:プロイセンの勝利

損害:プロイセン軍とオーストリア軍双方5万強で激突 戦死傷 プロイセン軍4800人 オーストリア軍 13000人強。

ホーエンフリートベルクの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Hohenfriedberg)は、1745年6月4日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア(ハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。

1928年 – 満州にて関東軍の河本大作が軍閥の張作霖を爆殺。(張作霖爆殺事件

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年・民国17年)6月4日、中華民国奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊で、日本の関東軍が奉天軍閥の指導者張作霖を暗殺した事件。 関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで秘匿されていた[1]。戦後、東京裁判で元陸軍田中隆吉および社会党左派で衆議院議員だった森島守人による証言が出るまでは犯人は不明とされていた[2]。

別名「奉天事件」[3]。中華民国では事件現場の地名を採って「皇姑屯事件」(こうことんじけん)とも言う。第二次世界大戦終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)と呼ばれていた[4]。

1942年 – 第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が始まる。(日本時間では6月5日)

1942年4月、山本五十六司令官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。それぞれの主力は日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった。航空兵力で100機以上の劣勢を強いられた日本の空母部隊は索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。結果として日本側は空母4隻と重巡洋艦1隻を撃沈され、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機を全て失った。勝利したアメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され航空機約150機を失った[1]。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功した結果、戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った[6]。この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。

1989年 – 天安門事件: 民主化要求運動で最大100万人が集結していた天安門広場に、デモ鎮圧のため中国人民解放軍が出動。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲してデモを鎮圧した[4]。中国当局の発表では死者は319人とされているが、英外交文書では死者「1万人以上」と推計されるなど、真相は明らかになっていない[5]。

1989年 – ソ連・ウラル地方で天然ガスのパイプラインから漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 (ウファ鉄道事故)

チャットgpt先生の6月4日のエッセイ


6月4日という日:歴史の静寂に耳を澄ます

6月4日。この日は、一見すれば初夏の一日、日常と変わらぬ平凡な時間の流れの中にある。しかし歴史の頁を繙けば、そこには決して平凡ではない、深く重たい人間の営みと選択が刻まれている。6月4日は、幾度となく人間の運命を揺るがした、歴史の節目とも言える日だ。

まず1615年の大坂夏の陣。徳川家康によって豊臣氏が滅ぼされ、戦国の終焉が確定的となった日である。大坂城が炎上し、秀頼と淀殿が自刃し、4万人以上が命を落とした。権力の移行とは、常に血で染まってきた。平和の礎の陰に、幾千の無名の命が横たわっていたことを私たちは忘れてはならない。

さらに時代は下り、1745年のホーエンフリートベルクの戦い。オーストリア継承戦争の中で、プロイセンが勝利を収めたこの戦いは、ヨーロッパの勢力図を変える一石となった。戦争とは「誰が正しいか」ではなく「誰が強いか」で決まるという、冷徹な現実を改めて浮き彫りにしている。

20世紀に目を向ければ、1928年の張作霖爆殺事件がある。日本の関東軍が秘密裏に中国の軍閥指導者を爆殺し、満洲支配の道を開いたこの事件は、のちの満洲事変、そして日中戦争へと連なる日本の軍国主義の一歩目であった。国家が暴走するとき、その火種はしばしば情報の隠蔽と虚偽の上に築かれる。

1942年のミッドウェー海戦の開戦もこの日だ。太平洋戦争の転換点となったこの戦いは、圧倒的兵力差を覆すアメリカの勝利により、戦局を一変させた。兵士たちの死と、軍略の失敗と成功が交差するこの一日は、歴史における偶然と必然の境界線を浮かび上がらせる。

そして、1989年。中国・天安門広場における民主化運動の悲劇的な結末は、世界の記憶に今なお深い影を落としている。言論の自由と民主主義を求めて立ち上がった学生たちに向けられた銃口。その衝撃は中国だけでなく、世界中に衝撃を与えた。そして同じ年、ソ連・ウファの鉄道事故も発生した。600人を超える命が奪われた大爆発――ここでもまた、見えないところでの管理不備と構造の問題が一瞬にして無数の人生を飲み込んだ。

歴史を辿ると、6月4日は「終わり」と「始まり」が交錯する日であるように思えてならない。ある時代の終焉、あるいは戦いの開始、ある価値観の崩壊、ある希望の潰え。いずれも人の手によって生まれ、人の判断によって動かされた。

私たちは、過去をただ知識として知るだけでは不十分だ。記憶として刻み、未来にどう生かすかが問われている。6月4日は、記念日ではない。しかし、記憶の日である。語り継がれねばならない痛みと、そこに込められた人間の問いを静かに見つめる一日として、私たちはこの日を忘れてはならない。