kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月30日 1908ツングースカ大爆発、ほかwikipedia爆発でなぎ倒された木々

6月30日

20240630日曜日旧暦5月25日大安(乙丑きのとうしイッチュウ) 月齢 23.6

年末まであと184日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8830%E6%97%A5

6月30日の出来事

1333年(元弘3年/正慶2年5月18日) – 元弘の乱: 鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

1908年 – シベリアでツングースカ大爆発が起こる。

1934年 – 長いナイフの夜事件(レーム事件)。ヒトラーが突撃隊幹部などの政敵を粛清。

1940年 – 沖縄県平良港(現宮古島市)から伊良部島に向かう連絡船が沈没。75人が死亡・行方不明[4]。

1956年 – グランドキャニオン空中衝突事故。128名全員死亡。

1959年 – 宮森小学校米軍機墜落事故。米軍嘉手納空軍基地を離陸したF-100D戦闘機が石川市宮森小学校に墜落、給食準備中の児童ら17人が死亡。

1999年 – 韓国の京畿道華城でシーランド火災事故が発生。幼稚園生と引率教師ら23人死亡、5人が重軽傷。

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1333年(元弘3年/正慶2年5月18日) – 元弘の乱: 鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。ただし、元弘3年/正慶2年(1333年)5–6月中のどの出来事をもって終期とするかは諸説ある(→始期・終期)。

後醍醐天皇が倒幕を目指した理由や時期については諸説あって一定しないが、どの説を採用するにしても、元徳2年(1330年)末には具体的な倒幕計画を練っていたとされる。ところが、翌3年4月29日(1331年6月5日)に、後醍醐側近「後の三房」の一人吉田定房が六波羅探題へ計画を密告して、鎌倉幕府もこれを知るところになり、長崎高貞ら追討使が派遣された。関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は8月9日(西暦9月11日)に「元弘」への改元を詔し(幕府・持明院統は認めず)、さらに同月後半に京都を脱出して、一品中務卿の尊良親王と元・天台座主の尊雲法親王(後の護良親王)の二皇子と共に笠置山の戦いを起こした。武将楠木正成、桜山茲俊もこれに呼応して、正成は下赤坂城の戦いを開始、茲俊は備後の地吉備津宮で挙兵した。しかし、後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延び、茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統の皇統(両統迭立)から光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国(高知県)に流され、腹心日野資朝は処刑された。元弘2年/元徳4年(1332年)4月10日、幕府は関係者の処分を終え、事態の終結を公式に宣言した。ここまでを特に元弘の変(げんこうのへん)と呼び、「元弘の変」は「元弘の乱」に含まれる一事件であるとする場合が多いが、両語を区別せず「元弘の変」を「元弘の乱」の同義語として扱う場合もある(→名称)。元弘2年/元徳4年4月28日 (1332年5月23日)、幕府・持明院統側では「正慶」へ改元となった。

ところが同年末楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し、さらに翌元弘3年/正慶2年(1333年)には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した。楠木党の籠城戦上赤坂城の戦い・千早城の戦いが長引くことで幕府御家人の厭戦感情が増し、倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。ここに、北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家の名門足利氏の当主である高氏(後の尊氏)が幕府から離反したことが大きな転機となって、鎌倉からの遠征軍と京の六波羅探題が壊滅。さらに、関東では御家人新田義貞らが倒幕に応じ、5月22日(西暦7月4日)、東勝寺合戦で、得宗の北条高時と内管領の長崎高資を中心とする幕府・得宗家の本体を滅ぼした。残る九州では尊良親王や菊池武時らが戦っていたが(武時本人は3月中に戦死)、同月25日(西暦7月7日)に鎮西探題を攻略した。勝利を完全にした後醍醐天皇は、同25日に光厳天皇を廃位して元号を「元弘」に一統すると、6月5日(西暦7月17日)に京都へ凱旋し建武の新政を開始した。

影響

後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった中央集権政策である建武の新政を開始した。しかし、建武政権は、後醍醐天皇と足利尊氏の戦い建武の乱により、わずか3年で崩壊した。

『太平記』史観や、それを受け継いだ1960年代の佐藤進一の説では、後醍醐天皇は独裁的暗君で、その政策は非現実的なものであり、また側近の公家ばかりを贔屓し、元弘の乱で功績のあった武士たちを冷遇したとされる。このことにより、足利尊氏は後醍醐への叛意を抱き、建武の乱で建武政権を滅ぼして室町幕府を創立したとされる。

その一方、2000年前後から現れた新説では、後醍醐天皇の政治的手腕は再評価される傾向にあり、建武の新政の諸政策は、大覚寺統の法制と鎌倉幕府の法制を折衷した合理的な改革で、武士の実力も適切に認め多くの恩賞を与えたものだったとされる。足利尊氏は終生、後醍醐天皇に対し畏敬の念を抱き、後醍醐の諸改革は後継となる室町幕府に発展的に受け継がれたとする見解もある。

1908年 – シベリアでツングースカ大爆発が起こる。

概要

直径50 – 60メートルの隕石が大気中で爆発して強烈な空振が発生し、爆心地から半径約30 – 50キロメートルの森林が炎上、約2,150平方キロメートル(東京都とほぼ同じ面積)の範囲の樹木がなぎ倒された[4]ほか、1,000キロメートル離れた家の窓ガラスも割れた。爆発によって生じたキノコ雲は数百キロメートル離れた場所からも目撃され、イルクーツクでは衝撃による地震が観測された[5]。爆発した物質が気化して巨大な夜光雲を形成したため、アジアからヨーロッパにかけての広い範囲で爆発から数夜にわたって夜空が明るく輝き[1]、ロンドンでは真夜中に人工灯火なしに新聞を読めるほどであった[6]。

地面の破壊規模から見て、爆発した物体の大きさは当初3 – 70メートルと推定された[5]。爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出された。破壊力はTNT換算で3 – 30メガトンと考えられていたが、後に5メガトン程度と特定された[2]。

居住地から離れたタイガの奥地であるため、人的被害は公的には確認されていないが、遊牧民のチュム(英語版)が吹き飛ばされるなどして死傷者が出たとする伝聞がある[7][8]。また非常に僻地であるため、猟師や木こりなど発見されなかった犠牲者がいた可能性もある[9]。

1934年 – 長いナイフの夜事件(レーム事件)。ヒトラーが突撃隊幹部などの政敵を粛清。

長いナイフの夜(ながいナイフのよる、ドイツ語: Nacht der langen Messer De-Nacht der langen Messer.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、又は、レーム一揆、レーム事件)とは、1934年6月30日から7月2日にかけて、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った突撃隊 (SA) などに対する粛清事件である。

粛清は正式な法的措置を執らずに行われ、エルンスト・レームらSA幹部、ナチス左派の領袖だったグレゴール・シュトラッサー、元首相で名誉階級陸軍大将のクルト・フォン・シュライヒャーなど、党内外の人々多数が裁判を経ずに殺害された他、党の権力争いと直接関係のない人物も粛清執行の当事者の私怨などにより犠牲となった。当局の公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。

事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち『長いナイフの裏切り(英語版)』に因む。いずれもナイフという単語は複数形で形容されている。

1940年 – 沖縄県平良港(現宮古島市)から伊良部島に向かう連絡船が沈没。75人が死亡・行方不明[4]。

1956年 – グランドキャニオン空中衝突事故。128名全員死亡。

グランドキャニオン空中衝突事故は、1956年にアメリカ合衆国で発生した旅客機同士による航空事故(空中衝突)である。

事故の要因として、有視界飛行や航空管制の不備が指摘されたため、航空行政の改善の契機となった。

1959年 – 宮森小学校米軍機墜落事故。米軍嘉手納空軍基地を離陸したF-100D戦闘機が石川市宮森小学校に墜落、給食準備中の児童ら17人が死亡。

事故概要

1959年6月30日午前10時40分頃、米空軍F-100D 55-3633号機が操縦不能となった。パイロットは空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。

事故直後から軍警消各部隊が事故現場へ急行し救助活動に当たった。被害者治療のために沖縄本島中部に在住する医師のほとんどが駆け付けた。

事故による火災は1時間後に鎮火したが、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼した。また、やけどによる後遺症で事故の17年後に1人が23歳で亡くなっており、死者の合計は18人となる(慰霊碑には2010年になって名前が追加された)[2]。

事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまとなった子供達は水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられている。また、校舎から離れた場所には苦しみながらうずくまる児童や、負傷して横たわる人、泣きながら我が子を探す親もいたという[3]。

米軍はこの事故補償として総額11万9066ドルを支払った。死者は4500ドル、重傷者は障害に応じて2300 – 5900ドルが支払われた。但し、この額は被害者側の要求の1割程度に過ぎない[4]。

1999年 – 韓国の京畿道華城でシーランド火災事故が発生。幼稚園生と引率教師ら23人死亡、5人が重軽傷。

チャットgpt先生の6月30日のエッセイ

6月30日の歴史的な瞬間

6月30日は、歴史において数々の重要な出来事が起こった日です。この日を振り返ることで、私たちは過去の出来事から学び、未来に活かす知恵を得ることができます。

まず、1333年の元弘の乱に触れなければなりません。鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍の合戦が始まったこの日は、日本の歴史における大きな転換点でした。後醍醐天皇の倒幕運動はついに成功し、建武の新政が開始されました。後醍醐天皇の政治的手腕については賛否両論ありますが、彼の試みが室町幕府の成立へとつながったことは間違いありません。歴史を動かしたこの戦いの影響は、現代にもその痕跡を残しています。

1908年、シベリアでツングースカ大爆発が起こりました。この爆発は、直径50メートル以上の隕石が大気中で爆発し、広範囲の森林が破壊されるという未曾有の自然災害でした。爆発の規模はTNT換算で5メガトンとされ、その威力は核爆弾に匹敵するものでした。幸いにも僻地で起こったため人的被害は少なかったとされていますが、地球がいかに宇宙の影響を受ける存在であるかを思い知らされる出来事でした。

1934年には、ナチス・ドイツで「長いナイフの夜」事件が発生しました。ヒトラーは政敵や突撃隊幹部を粛清し、権力を一層強固なものにしました。この事件は、独裁政権がいかにして内部の反対勢力を排除し、自らの支配を確立していくかを示す恐ろしい例です。独裁と暴力の恐怖を改めて感じさせる出来事であり、歴史からの警鐘として現代に伝わっています。

日本国内でも、1940年には沖縄県で連絡船が沈没し、多くの命が失われました。この事故は、戦時中の混乱やインフラの脆弱さがもたらした悲劇の一例です。また、1956年にはグランドキャニオン空中衝突事故が起こり、128名が命を落としました。これらの事故は、交通機関の安全性向上や危機管理の重要性を認識させるきっかけとなりました。

さらに、1959年には宮森小学校米軍機墜落事故が発生し、給食準備中の児童ら17人が死亡しました。この事故は、戦後の沖縄における米軍基地問題を象徴する出来事として語り継がれています。子供たちが犠牲となったこの悲劇は、戦争や軍事の影響がどれほど深刻なものであるかを私たちに教えてくれます。

そして、1999年には韓国の京畿道華城でシーランド火災事故が発生し、幼稚園生と引率教師ら23人が犠牲となりました。この事故は、安全基準の徹底と監視の重要性を再認識させるものです。

6月30日は、過去の出来事から学び、現在と未来に生かすことの大切さを教えてくれる日です。歴史を振り返ることで、私たちはより良い社会を築くための知識と教訓を得ることができます。この日に起こった様々な出来事を心に留め、未来への道標としましょう。