kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月26日 1284ハーメルンで子供の集団失踪130人、ほかwikipedia最古の水彩画、ほか

6月26日

20250626木曜日旧暦6月2日先勝(丙寅ひのえとらヘイイン)月齢 0.6

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月丙寅ひのえとら日 年末まであと188日

吉方位 隠遁日 南 大吉 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8826%E6%97%A5

6月26日の出来事

699年(文武天皇3年5月24日) – 役小角(役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。

1243年 – モンゴルのアナトリア侵攻戦争(英語版): キョセ・ダグの戦いが勃発。ルーム・セルジューク朝・トレビゾンド帝国・ニケーア帝国連合軍がバイジュ率いるモンゴル帝国に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。

1284年 – ドイツ・ハーメルンで130人の子供が集団失踪。(ハーメルンの笛吹き男の起源)

1541年 – フランシスコ・ピサロが、1538年に処刑されたディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派によりリマで暗殺される。

1945年 – 日本本土空襲: 京都市上京区の西陣にB29が空襲。死者43人、重軽傷者66人、家屋損壊292戸の被害が出た。

1949年 – 同月29日にかけて熊本県と鹿児島県で集中豪雨。死者42人、負傷61人、家屋全壊119戸、床上浸水9658戸など[10]。

1973年 – ソ連のプレセツク宇宙基地でコスモス3Mロケットが爆発、9名の死者を出す。

1977年 – イギリス・ウェスト・ヨークシャーで、ピーター・サトクリフが店員の女性を殺害。サトクリフは以前から売春婦に対する連続殺人を犯していたが、売春婦以外の女性が殺害されたことで世間の関心が集まり、「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれるようになる。

1989年 – 東芝が世界初となるA4型ノートパソコン「DynaBook J-3100SS」を発売[11]。

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699年(文武天皇3年5月24日) – 役小角(役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。

役 小角(えんの おづぬ / えんの おづの / えんの おつの、舒明天皇6年〈634年〉伝 – 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉伝)は、飛鳥時代の呪術者[2]。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれている[3]。姓は君。

いくつかの文献では実在の人物とされているが生没年不詳[2]。人物像は後世の伝説も大きく、前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。

1243年 – モンゴルのアナトリア侵攻戦争(英語版): キョセ・ダグの戦いが勃発。ルーム・セルジューク朝・トレビゾンド帝国・ニケーア帝国連合軍がバイジュ率いるモンゴル帝国に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。

1284年 – ドイツ・ハーメルンで130人の子供が集団失踪。(ハーメルンの笛吹き男の起源)

ハーメルンの新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)であったと刻まれている。いくつかの説では、子供たちは何らかの自然的要因により死亡したのであり、笛吹き男は死神の象徴であったとされている。死神はしばしば笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で描かれる。この説に関連付けられる類似のテーマとして、子供達の行進は中世ヨーロッパの基本的な美術様式である死の舞踏の表現であるとの説がある。自然要因説に含まれるいくつかの説として、子供たちはヴェーザー川で溺死したとする説、土砂崩れにより死亡したとする説、流行病により病死したとする説がある。

ウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(A World Lit Only by Fire, 1992) は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。マンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。しかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。マンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している[13]。

1541年 – フランシスコ・ピサロが、1538年に処刑されたディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派によりリマで暗殺される。

生涯

カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれで、父はゴンサロ・ピサロ、母はフランシスカ・モラレス。父は軍人で小貴族、母は召使であったといわれる。教育されず、文字も知らないままで育った[1]。

1498年から1502年にかけてイタリア戦争に参加した後、1502年にニコラス・デ・オバンド総督の着任航海でエスパニョーラ島へ渡る。1513年にバルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到達[2]。ペルラス諸島滞在中に黄金郷ペルーの情報を得て、探検家ディエゴ・デ・アルマグロと共に、1524年と1526年の二度にわたり南アメリカを探検し、苦労の末、都市トゥンベスまで進んだ[2]。その都市は、広大な領土を保有する国の一部であることを発見した。

1528年にスペインに戻り、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取った。征服の権利や搾取の特権、貴族の位も得て、ヌエバ・カスティーリャ(スペイン語版、英語版)の総督に任命され、4人の兄弟たちと募集した兵士とともに1530年、パナマに戻った[3]。

1531年には約180人の手勢と37頭の馬を率いてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。サン・マテオ島で騎馬隊を下船させ、トゥンベスまで南下し、サン・ミゲル・デ・ピウラを建設した。その後、インカ皇帝アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした[2]。アタワルパの身代金として莫大な貴金属を受け取ったが、アタワルパが存在する限り先住民が彼をリーダーに担いで反乱を起こす可能性があると判断し、約束を反故にして、1533年7月26日処刑を敢行した。アタワルパは自身を「太陽の子」と信じ、いつか復活して報復すると誓いつつ死んで行ったと言う。その後もピサロはインカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、11月にはインカ帝国の首都であるクスコに無血入城した。インカ帝国を滅ぼしクスコを制圧したが、敵対するインディオの大軍に包囲されていたため、パナマなどのスペイン人居留地と接触しやすい沿岸地域に町を建設する必要があったことから、1535年6月に「シウダー・デ・ロス・レイェス(諸王の都)」(現在のリマ市)を建設した[2]。

しかしその支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐってディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、1537年から内戦が始まった。1538年4月にサリナスの戦い(英語版)でアルマグロを破り処刑した[2]。戦いに勝利したピサロではあったがスペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、結局1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にリマで暗殺された。埋葬されなかったピサロの遺体はミイラとしてリマ大聖堂(英語版、スペイン語版、ドイツ語版)に現在も遺されている。

1945年 – 日本本土空襲: 京都市上京区の西陣にB29が空襲。死者43人、重軽傷者66人、家屋損壊292戸の被害が出た。

1949年 – 同月29日にかけて熊本県と鹿児島県で集中豪雨。死者42人、負傷61人、家屋全壊119戸、床上浸水9658戸など[10]。

1973年 – ソ連のプレセツク宇宙基地でコスモス3Mロケットが爆発、9名の死者を出す。

1977年 – イギリス・ウェスト・ヨークシャーで、ピーター・サトクリフが店員の女性を殺害。サトクリフは以前から売春婦に対する連続殺人を犯していたが、売春婦以外の女性が殺害されたことで世間の関心が集まり、「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれるようになる。

死去

2020年、新型コロナウイルスに感染したため、病院で治療を受けていたが、11月13日に死去した[2]。73歳没。

1989年 – 東芝が世界初となるA4型ノートパソコン「DynaBook J-3100SS」を発売[11]。

チャットgpt先生の6月11日のエッセイ

6月26日という日:時の彼方から響く物語たち

6月26日は、一見すると平凡な夏の始まりの一日。しかし、歴史の深層をのぞいてみれば、そこには時代を越えた人間の栄光と悲劇、夢と狂気が交錯している。この日はまるで、静かな湖面に石を投じたように、波紋のように時代を震わせた出来事が幾重にも広がる、不思議な日でもある。

たとえば、699年。この日は、修験道の開祖として知られる**役小角(えんのおづぬ)**が、弟子の讒言によって伊豆へと流された日とされる。神秘と呪術に彩られたその生涯は、現代の合理主義ではとらえきれない。自然と向き合い、霊性と結びついた山中修行を極めた彼の姿は、日本人の精神文化の源流を想起させる。時に追放され、時に神格化される運命こそ、宗教者や思想家が背負う十字架なのだろう。

そして、1284年――ドイツ・ハーメルンの町から130人の子どもたちが忽然と姿を消したとされる、不気味な伝説の日。この「ハーメルンの笛吹き男」の物語は、単なる寓話では済まされない闇を感じさせる。自然災害、疫病、誘拐、あるいは死の舞踏。いずれの解釈にせよ、子どもたちを奪った“何か”は、時代や文化を超えて人間が常に抱える不安や喪失への畏れを象徴しているように思える。

16世紀に目を向ければ、1541年のこの日には、インカ帝国を滅ぼした征服者フランシスコ・ピサロが、その支配の矛盾と裏切りの末に暗殺されている。貧しき無教育の少年が、新世界で栄華を極め、そしてその報いとして血に斃れる。黄金と暴力、夢と陰謀。征服という人間の野望が孕む両義性が、ひとつの命の終わりによって語られている。

さらに近代へと歩みを進めれば、1945年のこの日、京都の西陣がB29の空襲に見舞われ、多くの命と家屋が灰となった。美しい織物の町が、戦争の残酷な風にさらされたこの記録は、日本の平和の礎として記憶されるべき事実だ。同様に、1949年の集中豪雨や1973年のロケット事故も、科学や自然が引き起こす脆さと、そこに向き合う人間の姿を映し出している。

そして、1989年。東芝が世界初のA4ノートパソコン「DynaBook J-3100SS」を発売したのもこの日。小型コンピュータの登場は、後のモバイル社会への扉を開き、情報化社会の礎を築いた記念碑的な瞬間だ。人間は災いと栄光の狭間で、なおも前へと進み続ける。

6月26日――それは、あまりにも多くの「始まり」と「終わり」が重なる日。聖と俗、希望と破壊、夢と裏切りが交差するその時間の中で、私たちは何を学び、どこへ向かうべきかを問い直すことができる。

今日という日も、歴史の一頁となる。私たちは、気づかぬうちに、その続きを静かに紡いでいるのかもしれない。