kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月25日 1950朝鮮戦争勃発、ほか写真wikipediaソウル市街戦

6月25日

20250625水曜日旧暦6月1日赤口(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 28.9

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月乙丑きのとうし日  年末まであと189日

吉方位 隠遁日 乙丑きのとうし日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8825%E6%97%A5

6月25日の出来事

1530年 – アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられる。ルター派の信条書の範に。

1863年(文久3年5月10日) – 下関戦争: 長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。

1943年 – 第二次世界大戦: 「学徒戦時動員体制要綱」を閣議決定。

1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 大本営が沖縄での作戦の終結を発表。

1950年 – 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。

期間 年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日[1]

戦力 

国連軍・韓国軍 270万人=(国連70万+韓国軍200万人)

北朝鮮・中国  300万人=(北朝鮮150万人+中国150万人)

損害

国連軍・韓国軍死者 30000弱=(韓国250000+米軍国連軍40000)

       戦傷者 600000人 

民間人死者  100万人

北朝鮮・中国軍死者 500000人=(北朝鮮 300000人+中国軍200000人)

       戦傷者 100万人

       民間人死者 250万人

1953年 – 昭和28年西日本水害。九州地方北部を中心に6月29日まで集中豪雨になり、死者758名を出す。

1953年 – 岡山県新加茂町倉見の加茂小学校分校で開かれた映画会で、上映中のフィルムが発火。木造藁葺の校舎が全焼して死者14人、重軽傷者23人[3]。

1961年 – 熱帯低気圧が近づき梅雨前線が活発化、集中豪雨になり7月10日までに死者302人・行方不明者55人を出す。

2017年 – パキスタン、パンジャーブ州バハーワルプルでタンクローリーが横転し、漏れ出た石油を求めて多くの人が殺到した中で引火し爆発[4]。200人以上が死亡[5]。(2017年バハワルプル爆発)

2022年 – 群馬県・伊勢崎市で最高気温40.1度を記録。6月での40度超えは観測史上全国初[6]。

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1530年 – アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられる。ルター派の信条書の範に。

構成

アウクスブルク信仰告白は大きくは3部からなる。

第1部では、ルター派自体の信仰を告白する。

第2部では、当時のカトリック教会で行われていた諸制度への態度を告白する。

結論では、賛同者の署名とともに、総括が加えられる。

(以下、条文の解説は要約である)

第1部 主要信条

第1条 神について

神は三位一体の神であって、ニケア信条を正しいものと認める。

第2条 原罪について

原罪とは人がもって生まれた「神を神とせず、悪と欲とに満ちている」ことであり、例外なく人に永遠の死をもたらす。

第3条 神のみ子について

イエス・キリストは真の神であり、真の人である。これを告白する使徒信条を正しいものと認める。

結論

本信仰告白は既存の教会(カトリック教会)との対立を意図して記されたものではなく、ルター派の信仰はむしろ聖書に忠実にあらんとすることを大胆かつ率直に告白したものであると総括している[誰?]。

1863年(文久3年5月10日) – 下関戦争: 長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。

下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

1943年 – 第二次世界大戦: 「学徒戦時動員体制要綱」を閣議決定。

1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 大本営が沖縄での作戦の終結を発表。

1950年 – 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発。

期間 年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日[1]

戦力 

国連軍・韓国軍 270万人=(国連70万+韓国軍200万人)

北朝鮮・中国  300万人=(北朝鮮150万人+中国150万人)

損害

国連軍・韓国軍死者 30000弱=(韓国250000+米軍国連軍40000)

       戦傷者 600000人 

民間人死者  100万人

北朝鮮・中国軍死者 500000人=(北朝鮮 300000人+中国軍200000人)

       戦傷者 100万人

       民間人死者 250万人

戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度にわたり行われた都市も多く、最終的な民間人の死者数は200万人といわれ[20]、全体で400万 – 500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。民間人に対する惨劇の最悪の実行者は韓国警察であった[220]。開戦から間もない頃までは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたものの、アメリカ軍による報道検閲の実施により隠蔽されるようになった[220]。また、ソウルにいた金億や朴烈らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。

また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。一方で、アメリカ軍によってアメリカに運ばれて難を逃れた文化財が多数あるが、韓国では御宝窃盗事件として報じられ、現在に至っても返還を要求する運動がなされている[221]。

アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85%は民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は66万9000トンにのぼり、これは第二次世界大戦で日本に投下された16万800トンの4倍である[20]。

1953年 – 昭和28年西日本水害。九州地方北部を中心に6月29日まで集中豪雨になり、死者758名を出す。

1953年 – 岡山県新加茂町倉見の加茂小学校分校で開かれた映画会で、上映中のフィルムが発火。木造藁葺の校舎が全焼して死者14人、重軽傷者23人[3]。

1961年 – 熱帯低気圧が近づき梅雨前線が活発化、集中豪雨になり7月10日までに死者302人・行方不明者55人を出す。

2017年 – パキスタン、パンジャーブ州バハーワルプルでタンクローリーが横転し、漏れ出た石油を求めて多くの人が殺到した中で引火し爆発[4]。200人以上が死亡[5]。(2017年バハワルプル爆発

2017年バハワルプル爆発(2017年バハワルプルばくはつ)は、2017年6月25日、パキスタンのパンジャーブ州アフマドプル・イースト付近でタンクローリーが爆発炎上した災害である[1]。219人が死亡し、34人以上が負傷した[2][3]。

車両は幹線道路上で急旋回ののちに横転。事故のニュースが近くの村に伝わると、数百人の住民が現場に駆け付け、こぼれた燃料を汲み取り始めたがその後車両は爆発した。

初期の報道では、見物人のタバコの火が原因とされている[4][5][6][7]。

惨状

大半の遺体は激しく燃えたため、多くは骨を残すのみとなっていた[10]。少なくとも6台の車と12台のオートバイが燃え[12]、道路上には、台所用品、鍋、水タンク、ガソリン缶、バケツが散乱していた。タンクローリーの運転手はその場で拘束されたが重篤な状態にあり、後に病院で死亡した[16][17]。

2022年 – 群馬県・伊勢崎市で最高気温40.1度を記録。6月での40度超えは観測史上全国初[6]。

チャットgpt先生の6月25日のエッセイ

6月25日のエッセイ:時を越えて、記憶と教訓を刻む日

6月25日という日は、歴史の深層に幾重もの記憶を折り重ねた日である。年ごとに異なる出来事が繰り返される中で、この日が持つ重みは、決して一過性のものではない。暦の上では旧暦6月1日、赤口、乙丑の日。2025年は月齢28.9、ほぼ新月に近い静けさを湛えた夜がこの日を包む。そしてこの「静けさ」とは裏腹に、過去のこの日は常に、動乱と叫びに彩られてきた。

1530年のこの日、神聖ローマ皇帝カール5世にアウクスブルク信仰告白が捧げられた。ルター派の明確な信仰の表明は、宗教改革の中核をなす歴史的出来事である。信仰の在り方をめぐる争いは、単なる宗教の枠を超え、政治、社会、文化の在り様をも大きく揺るがすことになる。告白の第一部に見られるように、「神とは何か」「人の原罪とは何か」を問う姿勢は、500年近くを経た今でも、人間存在の根源的な問いとして響く。

一方で1863年、下関戦争の発端となる事件もこの日に起こった。長州藩がアメリカ商船を砲撃し、攘夷の名の下に国際的緊張を招いた。だが結果として長州は敗れ、やがて倒幕へと大きく舵を切る。歴史は時に、誤算や敗北を通じて、大きな方向転換の契機を与える。この時代の志士たちは、列強に学び、己を鍛えることにより、新たな日本の輪郭を描こうとした。

20世紀の6月25日は、さらに深い痛みを記憶している。1950年、この日をもって朝鮮戦争が勃発した。38度線を越えた北朝鮮軍の南進。泥沼の戦争は三年にわたり、死者数は民間人を含め400万を超えるとも言われている。数字の向こうにある無数の命。爆撃で焼かれた家、倒れ伏す子ども、別れを告げることもなく消えた人々。民間人の死傷者が大多数を占めるこの戦争は、冷戦の代理戦争であると同時に、人類が忘れてはならない「犠牲の記録」でもある。

そして、2000年代に入っても6月25日は安穏とは程遠い日だった。2017年、パキスタン・バハワルプルで起きたタンクローリー爆発は、貧困と格差、情報不足がもたらす人災をまざまざと浮き彫りにした。こぼれたガソリンを求めて集まった住民に爆発が襲い、200人以上が命を落とした。日常の中に潜む危機。それは物理的なものだけではなく、社会構造や教育、意識のあり方にも直結する。

2022年のこの日は、記録的な暑さが日本列島を襲った。群馬・伊勢崎では40.1度を観測。6月に40度を超えたのは観測史上初めてだった。異常気象はもはや「異常」ではなくなりつつある。人類の営みと自然のバランスが崩れ始めている中で、この「熱」は未来への警鐘でもある。


6月25日は、宗教、戦争、災害、気候、そして人間の選択のすべてが交差する「縮図の日」である。歴史をただ記録するのではなく、そこから何を学び、どう未来へつなげていくかが私たちの問いだ。

今日もまた、どこかで誰かが決断し、誰かが生き、誰かが亡くなっている。そうしたすべての営みに思いを馳せるとき、6月25日は単なる「日付」ではなく、「記憶と教訓の器」として、確かな意味を持ち続ける。

だからこそ私たちは、この日をただ過ぎ去るだけにしてはならない。記録を読み、想像し、語り継ぎ、行動に移す。そのすべてが、未来の6月25日をよりよいものにしていくのだと信じたい。