kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月23日 1945沖縄戦 牛島司令官自決、ほか,写真wikipedia物資を揚陸する米軍

6月23日

20250623月曜日旧暦5月28日友引(癸亥みずのといキガイ)月齢 26.9

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月癸亥みずのとい日 年末まであと191日

吉方位 隠遁日 癸亥みずのとい日 北西 西 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8823%E6%97%A5

6月23日の出来事

1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。

戦力 中国史上つまりは世界史上最大級の大艦隊が襲来した。

元軍

動員 400000人兵士  約4000隻の軍船とされるこれが最後は台風にて、200隻までになったという。

1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国海軍のトゥルグト・レイス(英語版)が戦死[要出典]。

時             1565年5月18日 – 9月11日

場所        マルタ島

結果        スペイン帝国の勝利

損害  戦力 マルタ騎士団+スペイン帝国13000人中 10000人戦死 オスマン帝国 48000人中40000人戦死。

1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。

戦争:七年戦争

年月日:1757年6月23日

場所:インド、プラッシー

結果:イギリスの勝利

東インド会社軍 英国人700人 インド傭兵2000人合計3000人弱

インド軍  歩兵40000人以上 騎兵20000人以上 合計60000人

損害

東インド会社軍 死者 22人 不祥50人

インド軍 死傷者500人以上 

1758年 – 七年戦争: クレーフェルトの戦い。

戦争:七年戦争

年月日:1758年6月23日

場所:クレーフェルト

結果:連合軍の勝利

損害:フランス軍 4万人中 4000人戦死 イギリス他連合軍 3万人中 1700人戦死

1760年 – 七年戦争: ランデスフートの戦い。

戦争:七年戦争

年月日:1760年 6月23日

場所:カミエンナ・グラ(英語版)

結果:オーストリア軍の勝利

損害:オーストリア軍 28000人中 戦死傷3000人 プロイセン軍 12000人中 戦死傷2000人 捕虜8000人。

1780年 – アメリカ独立戦争: スプリングフィールドの戦い。

年月日:1780年6月23日

場所:現在のニュージャージー州スプリングフィールド

結果:大陸軍が勝利

損害:イギリス軍2550人中 戦死50人 大陸軍2000人中 戦死15人。

1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。

時             1812年6月24日 – 12月14日

場所        ロシア帝国

結果        ロシアの決定的勝利

フランス連合軍の壊滅

第六次対仏大同盟の開始

損害  フランス他大陸軍 68万5千人中 死亡380000人 生存120000人 他は逃亡。ロシア軍 正規兵198000人 民兵900000人 中 死亡210000人。

1925年 – 沙基事件。中国の広州市沙基で五・三〇事件に刺激された反英デモが起こり、イギリス兵が発砲して多数の中国人が死傷。

1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。

1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。

1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。

1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。

1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。

1985年 – インド航空182便爆破事件。329人全員死亡。

1999年 – 男女共同参画社会基本法公布・施行。

2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。

———————   

1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。

戦力 中国史上つまりは世界史上最大級の大艦隊が襲来した。

元軍

動員 400000人兵士  約4000隻の軍船とされるこれが最後は台風にて、200隻までになったという。

弘安の役

モンゴル語で「勇猛なる」という意味の上陸用快速船艇であるバートル(抜都魯)軽疾舟と思しき軍船に乗船する元軍。

1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、3軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった[48]。 なお、『元史』阿剌罕伝によると、モンゴル人を主力とした蒙古軍約400,000人が動員されたとしている[32]。

元の官吏・王惲は、この日本侵攻軍の威勢を「隋・唐以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」[265] とその記事『汎海小録』の中で評している。

1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国海軍のトゥルグト・レイス(英語版)が戦死[要出典]。

時             1565年5月18日 – 9月11日

場所        マルタ島

結果        スペイン帝国の勝利

損害  戦力 マルタ騎士団+スペイン帝国13000人中 10000人戦死 オスマン帝国 48000人中40000人戦死。

1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。

戦争:七年戦争

年月日:1757年6月23日

場所:インド、プラッシー

結果:イギリスの勝利

東インド会社軍 英国人700人 インド傭兵2000人合計3000人弱

インド軍  歩兵40000人以上 騎兵20000人以上 合計60000人

損害

東インド会社軍 死者 22人 不祥50人

インド軍 死傷者500人以上 

プラッシーの戦い(プラッシーのたたかい、ベンガル語: পলাশীর যুদ্ধ、英語: Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村プラッシーにおいて、 イギリス東インド会社の軍と、ベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)及び後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた戦い[1]。

この戦いは七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つでもあった。また、この戦いを機にベンガル太守はイギリスに従属していくようになり、徐々に傀儡化していった。

戦後

イギリス東インド会社がプラッシーの戦いでフランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。他方、フランスは翌年から南インドで発生した第三次カーナティック戦争にも敗北し、ポンディシェリーを占領されると、インドから撤退することになる。

だが、プラッシーの戦いはインドにとって、これから長きに渡るイギリスによる植民地支配への序曲に過ぎなかった。ベンガルの詩人ナビン・チャンドラ・セーン(英語版)はこの戦いののちに訪れたイギリス支配を、「インドにとって永劫に続く闇夜」とたとえている[9]。

戦いからまもなく、ミール・ジャアファルが新ベンガル太守として任命され、シラージュ・ウッダウラは捕殺された[10]。イギリスは秘密条約で結ばれた条項のもと、ミール・ジャアファルからカルカッタの一郡を含む24郡のザミーンダーリーの授与を受けるともに様々な名目で3000万ルピーを越す金額を搾り取り、徐々に傀儡化していった[9][2]。 また、クライヴは戦闘後にムガル帝国の皇帝アーラムギール2世から賜った勅令で、「ムガル帝国の花であり、保護者であり、最も勇敢な兵士である」と評価された[6]。

1764年10月のブクサールの戦いでイギリスが勝利し、東インド会社は3州で租税徴収権(ディーワーニー)を獲得した。これを機にイギリスはインドの植民地化を推し進めていった。

1758年 – 七年戦争: クレーフェルトの戦い

戦争:七年戦争

年月日:1758年6月23日

場所:クレーフェルト

結果:連合軍の勝利

損害:フランス軍 4万人中 4000人戦死 イギリス他連合軍 3万人中 1700人戦死

クレーフェルトの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Krefeld、ヒュッケルスマイの戦い(ドイツ語: Schlacht an der Hückelsmayとも)は七年戦争(1756年-1763年)中の1758年6月27日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー選帝侯領)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、イギリス、ヘッセン=カッセルおよびプロイセン各国の連合軍とフランス軍との間に生起した戦闘である。それは1756年から1763年にかけて、ラインラントで発生した軍事衝突の頂点となった。

1760年 – 七年戦争: ランデスフートの戦い

戦争:七年戦争

年月日:1760年 6月23日

場所:カミエンナ・グラ(英語版)

結果:オーストリア軍の勝利

損害:オーストリア軍 28000人中 戦死傷3000人 プロイセン軍 12000人中 戦死傷2000人 捕虜8000人。

クレーフェルトの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Krefeld、ヒュッケルスマイの戦い(ドイツ語: Schlacht an der Hückelsmayとも)は七年戦争(1756年-1763年)中の1758年6月27日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー選帝侯領)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、イギリス、ヘッセン=カッセルおよびプロイセン各国の連合軍とフランス軍との間に生起した戦闘である。それは1756年から1763年にかけて、ラインラントで発生した軍事衝突の頂点となった。

1780年 – アメリカ独立戦争: スプリングフィールドの戦い

年月日:1780年6月23日

場所:現在のニュージャージー州スプリングフィールド

結果:大陸軍が勝利

損害:イギリス軍2550人中 戦死50人 大陸軍2000人中 戦死15人。

スプリングフィールドの戦い(スプリングフィールドのたたかい、英語: Battle of Springfield)は、アメリカ独立戦争中の1780年6月23日、現在のニュージャージー州スプリングフィールドで、イギリス軍と大陸軍の間で戦われた戦闘である。当時の独立戦争の主戦場は南部に移っており、北部では1778年6月のモンマスの戦いを最後にニューヨーク近辺で両軍の睨み合いが続いていた。そうした中で起こったこの戦いは、長い間、イギリス軍ドイツ人傭兵部隊による単なる奇襲と考えられていたが、1800年代にイギリス軍の記録が明るみに出て、ニュージャージーのモリスタウンに置かれていた大陸軍の作戦本部を襲うことにより、ニュージャージーでの足場を確固たるものにしようというイギリスの戦略であったことが分かった。

1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。

時             1812年6月24日 – 12月14日

場所        ロシア帝国

結果        ロシアの決定的勝利

フランス連合軍の壊滅

第六次対仏大同盟の開始

損害  フランス他大陸軍 68万5千人中 死亡380000人 生存120000人 他は逃亡。ロシア軍 正規兵198000人 民兵900000人 中 死亡210000人。

1812年ロシア戦役(フランス語: Campagne de Russie, ロシア語: Отечественная война)は、1812年に、ロシア帝国が大陸封鎖令を守らないことを理由にフランス帝国のナポレオン1世がロシアに侵攻し、敗北、退却するまでの一連の歴史的事件のことである。ロシア語の呼称については下記参照。

1812年のナポレオン1世によるロシア帝国への侵攻はナポレオン戦争の転換点となった。この遠征はフランス帝国とその同盟軍からなる侵攻軍を当初の兵力から2%未満に激減させた。ロシア文化に与えた影響は、レフ・トルストイの『戦争と平和』や旧ソ連が独ソ戦(1941年 – 1945年)と同一視していたことに見られる。

1925年 – 沙基事件。中国の広州市沙基で五・三〇事件に刺激された反英デモが起こり、イギリス兵が発砲して多数の中国人が死傷。

1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。

1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。

1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。

6月22日、牛島らが立て籠もっている摩文仁洞窟の司令部壕に対する連合軍の攻撃が激化し司令部衛兵隊も壊滅したため、牛島は自刃を決意した。まずは司令部壕から外に出て山頂で割腹をしようとしたが、すでに山頂はアメリカ軍の勢力圏下であり、司令部の残存部隊が山頂奪還するため事前に偵察したが、奪還は困難と判明したため、23日未明に山頂での自刃を断念し司令部壕内で切腹することとした。

午前3時、牛島は八原ら参謀にスコッチ・ウイスキーのキングオブキングスとパイナップルの缶詰をすすめた[94]。牛島の他に参謀長の長と第32軍の経理部長佐藤三代治大佐も共に自決することになった。長が自決の寸前に「軍司令官閣下、あなたは死なれても極楽でしょう。わたしは、きょうまでの悪業でどうせ地獄落ちです。高橋お伝などがおりましょうから、彼女の番頭にでもなりましょう。三途の川でお別れしなければなりませんな。わっははは」と豪快に笑うと、牛島は「いやいや、わたしは日華事変以来、多数の兵士を失い、この度の沖縄戦でも多数の犠牲者を出しましたから、どうせあなたといっしょに地獄ゆきですよ」と答え、長が「それでは、三途の川では、わたしが閣下をせおっておわたししましょう」といって笑った。まず佐藤が「わたしは年輩だから、お先に楽にゆかせてもらいましょう」といって、司令部壕の入り口で海が見えるところに設けられた3つの自決用の座(地面に白いシーツを敷いているのみ)のうちの一つに座ると拳銃で自決した。

その後、午前4時頃、牛島と長は戦闘に汚れた服から陸軍中将の制服に着替えて姿を現し、自決用の座に正座した。長が上着をとると、白地の肌着の背中には“忠則尽命、尽忠報国、長勇”と墨で黒々と自書してあった。長は古式に則った作法で割腹し、牛島も同様に古式に則り銘刀「来国俊」を腹に突き立てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官で剣道5段の坂口勝大尉が軍刀で介錯した。時刻は午前4時15分であった。[95]。

軍司令部で軍属として勤務していた大迫亘の回想によると、介錯した両名の首は、軍司令部専属副官吉野敏中尉と当番兵の高橋兵長が抱いたまま手榴弾で自爆した。遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めた。奇しくもこの6月23日は牛島の長女麗子が東京で結婚した日であった[96]。

一方、32軍管理部付衛兵司令を務めていた濱川昌也軍曹は自身の手記の中で、牛島と長が自決した日付は6月22日午前4時30分ごろであるとし、6月23日自決説は間違いであると主張している。また、両名の首の行方についても、高橋兵長と魚住豊明軍属が洞窟外へと運び去ったが、二人とも米軍の捕虜となり、牛島と長の首の在処も判明。6月26日に米軍によって発見されたと記している[97]。

1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。

1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。

1985年 – インド航空182便爆破事件。329人全員死亡。

1999年 – 男女共同参画社会基本法公布・施行。

2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。

チャットgpt先生の6月23日のエッセイ

以下は、6月23日に関連する歴史上の主な出来事の整理・要約です。特に戦争・軍事的事件を中心にまとめています。詳細な出典はWikipedia等からの要素も含んでいます。


🏯 日本に関わる出来事

● 1281年(弘安4年) – 弘安の役(元寇第二次)

  • 背景:モンゴル帝国(元)+高麗+旧南宋軍による日本再侵攻
  • 兵力:動員数最大40万人以上(『元史』による)・軍船4,000隻
  • 結末:台風(神風)によって壊滅、200隻程度が残る
  • 意義:世界史上最大規模の艦隊とも言われる。日本側の勝利とされる。

⚔️ ヨーロッパ・中東の戦い

● 1565年 – マルタ包囲戦(対オスマン帝国)

  • 期間:5月18日〜9月11日
  • 死傷者:オスマン帝国軍 48,000人中 約40,000人戦死、対するマルタ側(スペイン帝国)13,000人中 約10,000人戦死
  • 結果:スペイン・マルタ騎士団の勝利

🏰 七年戦争関連(複数戦闘)

● 1757年 – プラッシーの戦い(イギリスvs.ベンガル太守+フランス)

  • 兵力:英東インド会社軍 約3,000、インド軍 約60,000
  • 損害:英側22人戦死、インド側500人以上死傷
  • 結果:イギリス勝利、インド支配の転機に

● 1758年 – クレーフェルトの戦い(連合軍vs.フランス)

  • 兵力:仏軍 40,000、連合軍 30,000
  • 損害:仏軍 4,000人戦死、連合軍 1,700人戦死
  • 結果:連合軍勝利

● 1760年 – ランデスフートの戦い(オーストリアvs.プロイセン)

  • 兵力:墺軍 28,000、普軍 12,000
  • 損害:墺軍 3,000人、普軍 2,000人+捕虜8,000人
  • 結果:オーストリア勝利

🇺🇸 アメリカ独立戦争

● 1780年 – スプリングフィールドの戦い

  • 兵力:英軍 2,550、大陸軍 2,000
  • 損害:英軍50人死亡、大陸軍15人死亡
  • 結果:アメリカ大陸軍の勝利

❄️ ナポレオンのロシア侵攻

● 1812年 – ナポレオンのロシア戦役開始(翌日6月24日より本格侵攻)

  • 兵力
    • フランス連合軍:685,000人中 約380,000人死亡
    • ロシア側:正規兵198,000人+民兵90万人中 約210,000人死亡
  • 結果:ロシアの勝利、ナポレオン軍壊滅

📅 20世紀の6月23日

  • 1925年:沙基事件(広州、英軍発砲による多数死傷)
  • 1941年:リトアニアがソ連からの独立を宣言(ナチス侵攻に呼応)
  • 1944年:有珠山の噴火により昭和新山誕生
  • 1945年
    • 牛島満中将が自決(沖縄戦の組織的抵抗の終結とされる)
    • 千葉でのアメリカ兵殺害(能崎事件)
  • 1947年:神奈川税務署員殉職事件(在日朝鮮人集落による暴行)
  • 1985年:インド航空182便爆破(329名全員死亡)
  • 1999年男女共同参画社会基本法施行
  • 2001年:ペルー南方沖地震(M8.4、139人死亡)
  • 6月23日のエッセイ:歴史の岐路に立つ日
  • 6月23日という日付には、幾つもの歴史の岐路が刻まれている。暦の上では2025年6月23日は旧暦5月28日、友引、癸亥(みずのとい)の日。暦注では隠遁日とされ、静かに内面を見つめ直すことが良いとされる一日だが、世界史に目を向ければ、むしろ激しい闘争と変動の連続が重ねられてきた日でもある。
  • まず、日本人にとって忘れ難いのは、1281年の弘安の役である。モンゴル帝国が世界史上最大級とも言われる大艦隊で再度日本に襲来したこの日、九州の地は嵐の前の静けさに包まれていたかもしれない。だが、その後の台風——いわゆる“神風”——により数千隻が壊滅し、日本は侵略を免れた。この奇跡は単なる自然現象ではなく、日本人の精神史に深く刻まれる象徴的な出来事となった。
  • そのちょうど476年後、1757年のプラッシーの戦いでは、数で圧倒的に劣るイギリス東インド会社がインドのベンガル太守とフランス連合軍を破った。この小さな戦場の勝敗は、後にイギリスがインドを植民地支配する端緒となり、「永劫に続く闇夜」と称された支配の始まりを告げた。文明と帝国の栄枯盛衰が、わずか一日の戦いに凝縮されることもある。
  • また、同じくこの日には、七年戦争中の幾つかの重要な戦闘も起こっている。1758年のクレーフェルトの戦い1760年のランデスフートの戦いなど、ヨーロッパ各国の興亡が交差する戦いが続く。そこには近代国家と軍事の様式が成熟しつつある時代の姿が映る。
  • さらに、1780年のアメリカ独立戦争におけるスプリングフィールドの戦いでは、イギリスに立ち向かう新生アメリカの意志が改めて示された。この日はまた、1812年のナポレオンによるロシア遠征の前夜でもあり、運命の歯車がゆっくりと、だが確実に破局に向かって回り出す瞬間でもあった。
  • 時代を近代に移せば、1945年の沖縄戦終結の象徴的日としてこの日が語られる。牛島満中将の自決により、組織的な日本軍の抵抗が終わったとされるこの日には、無数の命と共に、一つの時代が終わった。そして、平和とは何かという問いが、戦後の日本人の胸に刻まれた。
  • 個々の出来事を見ればバラバラに思えるこの一日。しかし、それらを串刺しにする見方をすれば、6月23日は「帝国と抵抗、侵略と守り、変化の起点」としての象徴的な日であることが浮かび上がる。人類は常に大きな流れの中で戦い、支配し、抗い、また静かに滅びていく。その一連のサイクルが、歴史の中で繰り返されてきた。
  • 現代の私たちにとって、6月23日は「過去の記憶を手繰る日」であると同時に、「未来をどう築くか」を問いかけてくる日でもある。今は戦場ではなく、日常の中にこそ、選択と抵抗と決断の機会がある。静かな癸亥の日に、歴史の荒波に翻弄された無数の命に思いを馳せ、自分自身の「戦わねばならぬこと」とは何かを見つめるべきなのかもしれない。
  • そして今日もまた、何かが始まり、何かが終わる。歴史は、いつでも、誰にとっても、現在進行形なのだから。