kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月23日 1945沖縄戦 牛島司令官自決、ほか,写真wikipedia物資を揚陸する米軍

6月23日

20240623日曜日旧暦5月18日仏滅 戊午つちのえうまボゴ 月齢 16.6

年末まであと191日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8823%E6%97%A5

6月23日の出来事

1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。

戦力 中国史上つまりは世界史上最大級の大艦隊が襲来した。

元軍

動員 400000人兵士  約4000隻の軍船とされるこれが最後は台風にて、200隻までになったという。

1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。

戦力

東インド会社軍 英国人700人 インド傭兵2000人合計3000人弱

インド軍  歩兵40000人以上 騎兵20000人以上 合計60000人

損害

東インド会社軍 死者 22人 不祥50人

インド軍 死傷者500人以上 

1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。

1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。

1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。

1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。

1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。

1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。

2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。

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1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。

弘安の役

モンゴル語で「勇猛なる」という意味の上陸用快速船艇であるバートル(抜都魯)軽疾舟と思しき軍船に乗船する元軍。

『蒙古襲来絵詞』後巻・絵18・第31紙

河野通有兜掛の楠(枯死)

河野通有が弘安の役の戦勝祈願に参詣した際に兜を掛けたとされる楠木。

大山祇神社

1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、3軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった[48]。 なお、『元史』阿剌罕伝によると、モンゴル人を主力とした蒙古軍約400,000人が動員されたとしている[32]。

元の官吏・王惲は、この日本侵攻軍の威勢を「隋・唐以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」[265] とその記事『汎海小録』の中で評している。

1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。

プラッシーの戦い(プラッシーのたたかい、ベンガル語: পলাশীর যুদ্ধ、英語: Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村プラッシーにおいて、 イギリス東インド会社の軍と、ベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)及び後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた戦い[1]。

この戦いは七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つでもあった。また、この戦いを機にベンガル太守はイギリスに従属していくようになり、徐々に傀儡化していった。

戦後

イギリス東インド会社がプラッシーの戦いでフランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。他方、フランスは翌年から南インドで発生した第三次カーナティック戦争にも敗北し、ポンディシェリーを占領されると、インドから撤退することになる。

だが、プラッシーの戦いはインドにとって、これから長きに渡るイギリスによる植民地支配への序曲に過ぎなかった。ベンガルの詩人ナビン・チャンドラ・セーン(英語版)はこの戦いののちに訪れたイギリス支配を、「インドにとって永劫に続く闇夜」とたとえている[9]。

戦いからまもなく、ミール・ジャアファルが新ベンガル太守として任命され、シラージュ・ウッダウラは捕殺された[10]。イギリスは秘密条約で結ばれた条項のもと、ミール・ジャアファルからカルカッタの一郡を含む24郡のザミーンダーリーの授与を受けるともに様々な名目で3000万ルピーを越す金額を搾り取り、徐々に傀儡化していった[9][2]。 また、クライヴは戦闘後にムガル帝国の皇帝アーラムギール2世から賜った勅令で、「ムガル帝国の花であり、保護者であり、最も勇敢な兵士である」と評価された[6]。

1764年10月のブクサールの戦いでイギリスが勝利し、東インド会社は3州で租税徴収権(ディーワーニー)を獲得した。これを機にイギリスはインドの植民地化を推し進めていった。

1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。

1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。

1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。

1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。

戦力

日本  116,400人(陸軍50000+海軍3000+後方20000+沖縄調達30000)

連合軍 548000人 (うち当初上陸270000人)

損害

日本  日本軍死者94000人 沖縄県民死者94000人

連合軍 死亡20000人、戦傷40000人、戦闘外傷病26000人 合計86000人死傷

死傷率 86000÷548000=15.7(%)

日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、既に師団としての組織的抵抗が不能な状態となっていた。この頃になると、日本軍では野戦病院で横たわる治療の術のない多数の傷病兵に、毒薬を注射したり青酸カリを配布して自決を促したり[339]、動ける兵も、アメリカ軍に追い詰められると、手榴弾で自決することを選び、一日4,000名の兵士が亡くなっていた[340]。沖縄戦での日本軍の戦死者のうちで実に47%が6月の1か月間で戦死している[341]。

また、軍と行動を共にしていたひめゆり部隊も、6月19日に陸軍野戦病院の地下壕でアメリカ兵から投げ込まれた黄燐手榴弾と火炎放射器で多数が死亡、生き残った女生徒の一部も、6月22日にアメリカ軍の捕虜となれば暴行や拷問を受けると考えて、断崖から身を投げており、ひめゆり部隊の女生徒の犠牲者は125名にもなった[342]。軍の組織崩壊も始まり、今までほとんど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした[343]。

6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。

1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。

1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。

2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。

チャットgpt先生の6月23日のエッセイ

6月23日は歴史的に多くの重要な出来事が起こった日です。それらの出来事を振り返ると、人類の歴史がどれだけ複雑で多様であるかが改めて浮き彫りになります。

まず、1281年の弘安の役です。このとき、元軍は中国史上、そして世界史上最大級の大艦隊を率いて九州に襲来しました。約40万の兵士と4000隻の軍船が日本に向けて出航し、その規模は圧倒的でした。しかし、この巨大な軍勢も台風の前には無力であり、結局、多くの船が失われました。元軍の襲来は日本の防衛に大きな影響を与え、日本人の戦争に対する認識や防衛戦略に重要な教訓を残しました。

1757年のプラッシーの戦いは、インドの運命を大きく変えるものでした。イギリス東インド会社軍がフランスとベンガル太守の連合軍を破り、インドにおけるイギリス支配の始まりとなりました。この戦いの結果、イギリスはインドを植民地として支配し、その影響は長きにわたってインドの歴史と文化に刻まれることとなりました。プラッシーの戦いは、植民地主義の象徴であり、インドの人々にとっては暗黒の時代の始まりを告げるものでした。

また、1812年にはナポレオンがロシアに侵攻し、1812年ロシア戦役が始まりました。これはナポレオンの失敗の始まりを意味し、彼の帝国の衰退に繋がる重要な出来事でした。ロシアの広大な領土と厳しい気候がフランス軍にとって致命的な障害となり、この遠征はナポレオンにとって破滅的な結果を招きました。

1944年には北海道壮瞥町の有珠山が噴火し、昭和新山が誕生しました。この自然現象は、地球のダイナミズムと人間の営みの脆さを象徴しています。一方、1945年の沖縄戦終結は第二次世界大戦における日本の敗北を象徴するものであり、戦争の悲惨さと犠牲の大きさを痛感させる出来事でした。

さらに、2001年にはペルー南方沖でMw 8.4の地震が発生し、139人が死亡しました。自然災害の前に人間は無力であり、その影響は計り知れません。この地震は、地震対策や防災意識の重要性を再認識させるものでした。

これらの歴史的な出来事は、6月23日が単なる一日ではなく、多くの歴史的な転換点を含む特別な日であることを示しています。歴史を振り返ることで、私たちは過去の教訓を学び、未来に向けての洞察を得ることができます。6月23日は、歴史の中で何度も繰り返される人間の努力、失敗、そして再生の物語を思い起こさせる日なのです。