6月22日
20250622日曜日旧暦5月27日先勝(壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 25.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月壬戌みずのえいぬ日 年末まであと192日
吉方位 隠遁日 壬戌みずのえいぬ日 西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8822%E6%97%A5
6月22日の出来事
1360年(延文5年/正平15年5月9日) – 北朝方の畠山国清により楠木正儀の赤坂城が落城。
1633年 – ローマ教皇庁の検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。
1636年(寛永13年5月19日) – 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など。
1815年 – ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世がセントヘレナに流されフランス皇帝を退位。百日天下が終了。
1868年(慶応4年5月3日) – 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟が成立。
1893年 – レバノンのトリポリ沖でイギリス海軍の戦艦キャンパーダウンとヴィクトリアが衝突事故を起こしヴィクトリアが沈没、358名の死者を出す。
1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏。
1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦・バルバロッサ作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1941年6月22日 – 12月5日
場所:ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
損害:ドイツ軍 4百万人中 戦死200000以上 戦傷655000人
ソ連軍 2680000人中 戦死800000人以上 捕虜行方不明3000000人。
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連赤軍のドイツ軍に対する反撃作戦・バグラチオン作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1944年6月22日 – 8月19日
場所:ベラルーシ、ソ連
結果:ソ連軍の勝利、ソ連領全域の解放
損害:ドイツ軍 85万人中 戦死行方不明290000人 戦傷190000人 捕虜150000人
ソ連軍 125万人中 戦死行方不明170000人以上 戦傷590000人以上。
2004年 – 集団強姦事件スーパーフリー事件の舞台となった早稲田大学のイベントサークルスーパーフリーが解散。輪姦された女性の数は詳細不明だが数百名以上。
—————————–
1360年(延文5年/正平15年5月9日) – 北朝方の畠山国清により楠木正儀の赤坂城が落城。
1633年 – ローマ教皇庁の検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。
1636年(寛永13年5月19日) – 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など。
1815年 – ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世がセントヘレナに流されフランス皇帝を退位。百日天下が終了。
1868年(慶応4年5月3日) – 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟が成立。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王[1] を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権[2]。
奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが[2]、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している[3]。
1893年 – レバノンのトリポリ沖でイギリス海軍の戦艦キャンパーダウンとヴィクトリアが衝突事故を起こしヴィクトリアが沈没、358名の死者を出す。
1940年 – 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏。
1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦・バルバロッサ作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1941年6月22日 – 12月5日
場所:ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
損害:ドイツ軍 4百万人中 戦死200000以上 戦傷655000人
ソ連軍 2680000人中 戦死800000人以上 捕虜行方不明3000000人。
バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん、ドイツ語: Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサ、英語: Operation Barbarossa)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始された、ナチス・ドイツとその同盟国の一部によるソビエト連邦への侵攻作戦のコードネームである。作戦名は、12世紀の神聖ローマ皇帝でドイツ国王でもあったフリードリヒ・バルバロッサ(赤髭王)にちなんで付けられた。
この作戦は、ソ連西部を征服してドイツ人を再増加させるというナチス・ドイツの思想的目標(国家戦略)を実行に移すものであった。ドイツ軍の東部総合計画(Generalplan Ost)は、征服した人々の一部を枢軸国の戦力として強制労働させ、コーカサスの石油資源とソ連領の様々な農業資源を獲得することを目指した。彼らの最終的な目標は、最終的にスラブ民族の絶滅、奴隷化、ゲルマン化、シベリアへの大量追放を含み、ドイツのためのより多くのレーベンスラウム(生存圏)を作り出すことであった[3][4]。
侵攻までの2年間、ドイツとソ連は、戦略的な目的のために政治的、経済的な協定を締結した。ソ連によるベッサラビアと北ブコビナの占領後、ドイツ国防軍最高司令部は 1940年7月にソ連への侵攻を計画し始め(コードネームはオットー作戦)、アドルフ・ヒトラーは 同年12月18 日にこれを認可した。
作戦期間中、枢軸国の人員380万人以上は、戦史上最大の侵攻部隊として、2,900キロメートルの前線に沿ってソ連西部に侵攻し、60万台の自動車と60万頭以上の馬が非戦闘任務に従事した。この攻勢は、地理的にも、ソ連を含む連合国側の連合体形成においても、第二次世界大戦の大規模な拡大を示すものであった。
この作戦によって東部戦線が開かれ、歴史上のどの戦域よりも多くの戦力が投入された。この地域では、世界最大規模の戦闘、最も悲惨な残虐行為、(ソ連軍、枢軸軍を問わず)最も多くの死傷者が発生し、そのすべてが第二次世界大戦とその後の20世紀の歴史に影響を及ぼしたのである。
ドイツ軍は最終的に約500万人のソビエト赤軍の兵士を捕らえた[5]。ナチスはドイツの食糧不足を解消し、飢餓によってスラブ系住民を絶滅させるための「飢餓計画」として、330万人のソ連人捕虜と膨大な数の民間人を意図的に餓死させたり殺害した[6]。ナチスや協力者によって行われた大量銃殺やガス処刑は、ホロコーストの一環として100万人を超えるソ連のユダヤ人を殺した[7]。
バルバロッサ作戦の失敗はナチス・ドイツの運命を逆転させた。作戦上、ドイツ軍は大きな勝利を収め、ソ連の最も重要な経済地域の一部(主にウクライナ)を占領し、大きな犠牲を出し、またそれを維持することができた。これらの初期の成功にもかかわらず、ドイツの攻撃は1941年末にモスクワの戦いで失速し、その後のソ連の冬の反攻はドイツ軍を約 250 km 後退させた。
ドイツ軍はポーランドのようにソ連の抵抗がすぐに崩壊すると確信していたが、赤軍はドイツ国防軍の強打を吸収し、ドイツ軍が準備不足だった消耗戦の中で泥沼化させた。ドイツ国防軍の戦力が低下し、東部戦線全体を攻撃することができなくなり、その後、1942年のブラウ作戦、1943年のシタデル作戦など、ソ連領内に深く入り込んで主導権を奪回する作戦は結局失敗し、ドイツ国防軍は後退・崩壊した。
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連赤軍のドイツ軍に対する反撃作戦・バグラチオン作戦が開始。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1944年6月22日 – 8月19日
場所:ベラルーシ、ソ連
結果:ソ連軍の勝利、ソ連領全域の解放
損害:ドイツ軍 85万人中 戦死行方不明290000人 戦傷190000人 捕虜150000人
ソ連軍 125万人中 戦死行方不明170000人以上 戦傷590000人以上。
バグラチオン作戦(バグラチオンさくせん、ロシア語: Белорусская операция、英語: Operation Bagration)は、独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる1944年6月22日にベラルーシの首都ミンスク奪還を当初の目的とした、ドイツ中央軍集団に対する赤軍の4つの戦線の攻撃で始まり、さらに赤軍の包括的な作戦成功へと発展し、1944年8月末にヴィスワ川、東プロイセンの国境、リガ近郊で一時的に停止された攻勢作戦の名称である。
この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は28個師団を喪失という回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻される事になり、ほぼポーランドまで移動した。作戦名はロシア帝国時代におけるナポレオン・ボナパルトとの祖国戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍に由来する[5]。軍事史において、この作戦は縦深攻撃の成功例とみなされている[6]。
また、政治的には、ナチスドイツのソ連との講和の可能性が絶望的になり、ヒトラー暗殺計画が現出する状況となった。
2004年 – 集団強姦事件スーパーフリー事件の舞台となった早稲田大学のイベントサークルスーパーフリーが解散。輪姦された女性の数は詳細不明だが数百名以上。
スーパーフリー事件(スーパーフリーじけん)は、早稲田大学のイベントサークルを舞台にして行われた大規模な組織的輪姦事件[1]。
早稲田大学のインカレサークル「スーパーフリー」のメンバーは、女子大生らへの輪姦を1998年4月頃[注釈 1]から常習的に行っていた。輪姦された女性の数は数百人以上に上る。2003年5月18日に警察に被害届が出されたことで発覚した。早稲田大学の他にも東京大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、学習院大学、日本大学といった首都圏の名門大学出身[6]の学生ら合わせて14人[5]が準強姦罪で実刑判決を受けた。この事件は重大な社会的波紋を呼び、2004年の集団強姦罪・集団強姦致死傷罪の創設につながった[7]。起訴されたのは3件の輪姦のみであり[8]、関与した多くの者が未逮捕のままとなった。輪姦を幇助した女性も多数存在したが[9]、女性は1人も逮捕されなかった。スーパーフリーはスーフリと略称されることもある。
事件の概要
スーパーフリーの代表者(逮捕時28歳)はディスコや音楽業界にコネがあり[9]、六本木のヴェルファーレ等で1000人~3000人規模のイベントを開いていた。代表者とメンバーらは、そのようなイベントの二次会等で女性を酒に酔わせ、輪姦する犯行を繰り返していた。取調べにより多数の事件が判明したが、起訴されたのは以下の3つの事件であった。
2001年12月19日、東京都豊島区高田のスーパーフリー代表者の自宅兼事務所における鍋パーティで、当時19歳の女性を泥酔させ、3人で輪姦した事件
2003年4月27日、東京都港区六本木のロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時18歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、1時間半にわたり13人で輪姦した事件
2003年5月18日、東京都港区六本木のロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時20歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、5人で輪姦した事件
スーパーフリーのメンバーらが逮捕・留置された麻布警察署
捜査のきっかけになったのは、3番目の事件の被害者が被害当日に警視庁麻布警察署に被害届を提出したことである。2003年6月19日、3番目の事件で輪姦を行ったスーパーフリーの代表者及び男子大学生メンバー4人の計5人が強姦容疑で麻布署に逮捕されたことが報道され、本件は世間に知られるところとなった。当初容疑者らは「合意の上」と容疑を否認したが、非常階段踊場付近の玄関マットの上で初対面の男たちに輪姦されることが合意だったという主張には無理があった[10]。6月22日にはスーパーフリーが解散し、6月30日には東京地検が容疑者のうち2名を準強姦罪で起訴した。その後、1番目の事件について2003年7月31日に元男子大学生1人が新たに逮捕された。さらに、2番目の事件について2003年11月14日までに男子大学生ら9人(未成年を2人含む)が新たに逮捕された。
2004年11月2日、代表者に対し懲役14年の実刑判決が下った[8]。被告人側は判決を不服として同年11月17日に控訴。2005年6月2日に東京高裁(仙波厚裁判長)は控訴を棄却[11]。2005年6月16日には最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)に上告したが2005年11月1日付で棄却され、代表者を懲役14年の実刑とした1、2審判決が確定した。代表者を除く13人には懲役10年〜2年4ヶ月の実刑判決が確定した。
チャットgpt先生の6月22日のエッセイ
風は歴史を巻き戻す — 6月22日という日
2025年6月22日。
日曜日。旧暦では5月27日、干支は「壬戌(みずのえいぬ)」。
暦を信じる人々にとっては「先勝」の日。吉方位は西、隠遁日。
月齢は25.9。欠けゆく月の向こうで、歴史の残響がふと耳元にささやいてくる。
この日、私たちはいつもと変わらぬ日常を過ごしているかもしれない。
誰かは朝、コーヒーを淹れ、誰かは遅い起床に後悔し、また別の誰かはすでに満員電車で週明けに備えている。だが、カレンダーを一枚めくるたびに見落としがちなこの「日にち」は、何度も歴史の歯車を揺らしてきた。
静かな反響:1360年 赤坂城の落城
時を鎌倉から南北朝に遡れば、1360年の今日、赤坂城が陥落した。楠木正成の志を継いだ楠木正儀の城が、北朝方の畠山国清に攻め落とされた日だ。
戦の煙が山の稜線をぼやかすとき、義とは、忠とは、誰のために在るのかと、当時の武士たちもまた自問していたのではないだろうか。
科学と信仰の裂け目:1633年 ガリレオ裁判
また、1633年の6月22日は、地球が太陽のまわりを回っていると言った男が「それを撤回せよ」と命じられた日でもある。
ガリレオ・ガリレイ。
地動説を支持したがゆえに、異端とされ、教会の前で誓いの言葉を読み上げた。
それでも彼は、小声でつぶやいたという。「それでも地球は回っている(E pur si muove)」と。
この日がなければ、科学の夜明けはもっと遠い未来に訪れていたかもしれない。
焦土の記憶:バルバロッサ作戦とバグラチオン作戦
20世紀の6月22日は、二度にわたって東欧の大地を血で染めた。
1941年、ナチス・ドイツによる「バルバロッサ作戦」が始まった日。史上最大規模の地上侵攻。ロシア西部、ウクライナ、バルト三国をなぎ倒すがごとく進撃したドイツ軍は、数百万人の兵士を投入し、捕虜や民間人に筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらした。
そのちょうど3年後、1944年の6月22日、ソ連赤軍は「バグラチオン作戦」を開始した。
戦況は逆転し、ドイツ中央軍集団は壊滅。ベラルーシから東プロイセンまで、前線は大きく後退した。
この2つの作戦が、いかに6月22日を「運命の転換点」と変えたか。歴史とはただの年表の並列ではない。血のにじむ一日が、確かに存在する。
歪んだ日常の闇:2004年 スーパーフリー事件の終焉
また、もう一つ忘れてはならないのが2004年、この日に解散が報じられた「スーパーフリー事件」だ。
多くの若者が集うサークル活動の裏で、組織的に行われていた集団性的暴行。
輪姦という言葉を初めて聞いた人々が、その意味と現実に打ちのめされ、社会が「沈黙と共犯」の構造に目を開かされた。
この事件があったからこそ、性犯罪に対する法整備が進み、社会の許容ラインが見直されたのも事実だ。
そして今、私たちはこの日を迎える
年末まであと192日。
一見何でもない日付。だけれど、積み重ねた記憶と記録が、今日の私たちの立ち位置を照らしている。
楠木正儀の決意、ガリレオの沈黙の叫び、ソ連兵の進撃、被害者たちの勇気――それぞれの「6月22日」は、ただの通過点ではなかった。
だからこそ、今日もまた、何かを選ぶことができる。
平和であること、知を尊ぶこと、暴力を拒絶すること、そして、見過ごされがちな「小さな一日」に意味を与えること。
風は、過去を語る。
私たちは、その風に耳をすませながら、未来を選んでいく。