6月21日
20250621土曜日旧暦5月26日赤口(辛酉かのととりシンユウ)月齢 24.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月辛酉かのととり日 年末まであと193日
吉方位 隠遁日初日 辛酉かのととり日 北 大吉
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6月21日の出来事
1467年(応仁元年5月20日) – 応仁の乱:山名持豊(宗全)、畠山義就らが挙兵。
戦争:応仁の乱
年月日:(旧暦)応仁元年 – 文明9年
(ユリウス暦)1467年 – 1477年
場所:京都
結果:西軍の消滅、京都の荒廃
損害:東軍16万人 対 西軍10万人 実損不明。
1582年(天正10年6月2日) – 本能寺の変[1]。明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、織田信長は自害[2]。損害 本能寺で織田信長ほか30人余自害。二条新造の織田信忠ほか50余命戦死。計100名程度死亡。
1669年(寛文9年6月4日) – シャクシャインの戦い:アイヌ民族が一斉蜂起。
和人300人ほどがまず殺される。
1870年 – 天津教案: 中国天津で、民衆がフランス領事館や教会を襲撃し、フランス人宣教師、修道女、外国人居民など合わせて21名が殺害された[3]。
1931年 – ドイツの鉄道車両、シーネンツェッペリンが、230km/hを達成。
1949年 – 川崎汽船の旅客船「青葉丸」がデラ台風により大分県沖で転覆。死者・行方不明者141人。
1996年 – 名護市女子中学生拉致殺害事件が発生。
2000年 – 岡山金属バット母親殺害事件が発生。
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1467年(応仁元年5月20日) – 応仁の乱:山名持豊(宗全)、畠山義就らが挙兵。
戦争:応仁の乱
年月日:(旧暦)応仁元年 – 文明9年
(ユリウス暦)1467年 – 1477年
場所:京都
結果:西軍の消滅、京都の荒廃
損害:東軍16万人 対 西軍10万人 実損不明。
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した日本の内乱。発生時の元号から一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元されたため、「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある[1][2]。
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、8代将軍足利義政以降、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名による権力闘争が激化し、幕府勢力が、細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐって争った[3]。さらに各々の領国にも争いが拡散し、11年にわたる大乱となった。最終的には西軍が解体されたことで終息したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した[4]。
明応2年(1493年)の明応の政変とともに、室町幕府の権威が失墜して日本が戦国時代へ移行した原因とされる[注釈 1]。
1582年(天正10年6月2日) – 本能寺の変[1]。明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、織田信長は自害[2]。損害 本能寺で織田信長ほか30人余自害。二条新造の織田信忠ほか50余命戦死。計100名程度死亡。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、明智光秀[注釈 4]が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件である[12]。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てた[12]。信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、やはり建物に火を放って自害した[13]。信長と信忠の死によって織田政権は瓦解するが、光秀もまた6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落とした。事件は秀吉が台頭して豊臣政権を構築する契機となり、戦国乱世は終焉に向かった。
1669年(寛文9年6月4日) – シャクシャインの戦い:アイヌ民族が一斉蜂起。
和人300人ほどがまず殺される。
シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。
1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された[2](大半が老人婦女子の非戦闘員で士卒は5名であった。犠牲者の総数は356人に上る[7])。
1870年 – 天津教案: 中国天津で、民衆がフランス領事館や教会を襲撃し、フランス人宣教師、修道女、外国人居民など合わせて21名が殺害された[3]。
フォンタニールは教会前の路上で劉傑と口論になり、発砲して劉傑の従者を殺害した。民衆は憤慨してフォンタニールと秘書を殺害した。さらに10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の中国人信者を殺戮し、フランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちした。
1931年 – ドイツの鉄道車両、シーネンツェッペリンが、230km/hを達成。
1949年 – 川崎汽船の旅客船「青葉丸」がデラ台風により大分県沖で転覆。死者・行方不明者141人。
1996年 – 名護市女子中学生拉致殺害事件が発生。
名護市女子中学生拉致殺害事件(なごしじょしちゅうがくせいらちさつがいじけん)は、1996年(平成8年)6月21日に沖縄県(沖縄本島)で発生した[19]、わいせつ略取・強姦・殺人・死体遺棄[18]・窃盗事件[19]。
犯人の男2人組(本文中「Y」および「U」)は同日夕方、名護市伊差川の農道で[注 1]、帰宅途中の女子中学生A(当時15歳[注 3]:市立羽地中学校3年生)を[6]、ワゴン車(白いワンボックスカー)で拉致した[16]。その後、2人は2回にわたってAを強姦した上で[18]、同日夜に国頭郡国頭村の山中で、Aの首をロープで絞めて殺害し、死体を国頭村楚洲の山中に遺棄した[注 2][7]。2人は犯行後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして指名手配されていた犯人の1人 (Y) が自首し、Aを殺害して遺棄した旨を自供したことで、1997年(平成9年)1月1日にAの遺体が発見され[6]、残る1人 (U) も同月に逮捕された[23]。沖縄女子中学生強姦殺人事件と呼称される場合もある[31]。
2000年 – 岡山金属バット母親殺害事件が発生。
2000年(平成12年)6月21日、岡山県内の公立学校の野球部員の少年(当時17歳・高校3年生)(以下、少年A)が練習中にそばにいた部員4人を突然バットで殴り逃走[1]。少年Aは自宅に戻った後、居間でテレビを見ていた母親(当時42歳)をバットで殴打し逃亡[2]。母親はほぼ即死状態だった[2]。
逮捕後
少年は9月15日、特別少年院送致の保護処分が確定した。
少年の供述
「殺すつもりでやった」
「殺すつもりだったのは野球部員の4人のうちの一人だった。残る3人については逃げるのに邪魔になりバットを振りまわした。」
「(母を殺害したのは)母に殺人者の自分を見せて心配をかけたくなかったから」
「被害を受けた人たちに申し訳ないことをした」と告げていた
チャットgpt先生の6月21日のエッセイ
6月21日という日:時代の裂け目に立つ
6月21日。夏至に近いこの日は、陽が最も長く、空が深く輝く季節だ。けれど、その光の中に、人間の歴史が刻みつけた影もまた長く伸びている。この一日は、日本史の節目、時に悲劇、時に転換点を多く抱える「歴史のうねり」の日でもある。
まず1467年、室町時代中期。応仁の乱が始まった日である。畠山氏と斯波氏の家督争い、そして足利将軍家の後継問題が絡み合い、京都は「東軍」と「西軍」の火薬庫へと変貌した。山名宗全、畠山義就がこの日挙兵し、11年もの大乱が始まった。これが日本を戦国時代へと導いた分水嶺だった。争いの根は、単なる権力闘争ではない。武士たちの忠義と野望が交錯し、幕府という「秩序」が崩れ落ちた音が聞こえるようだ。1467年6月21日は、静かに歴史の底が割れた瞬間だった。
それから115年後、1582年6月21日(天正10年6月2日)には「本能寺の変」が起こる。明智光秀が織田信長を急襲し、信長は本能寺にて自害。光秀は信長を倒したものの、わずか13日後には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。信長の死は、乱世を統一へ導くプロセスを一瞬だけ遅らせたが、同時に秀吉という新たな覇者の登場を早めもした。6月21日は、ひとつの天下が焼け落ち、次の時代が胎動し始めた日でもある。
さらに1669年のこの日、蝦夷地ではシャクシャイン率いるアイヌ民族が一斉に蜂起した。これは「蝦夷地の声なき声」が表面化した日だ。交易の不公正、和人の支配に対する長年の不満が爆発し、東西蝦夷地あわせて356人が命を落とすこととなった。アイヌの視点からすれば、それは民族の尊厳をかけた必死の抵抗だった。歴史は、征服者の都合だけでは語れない。
時代を下ると、歴史の傷は個人へと向かっていく。
1996年、沖縄・名護市で中学生女子が拉致され殺害されるという凄惨な事件が起きた。犠牲になった少女の人生と、家族の時間は、何の前触れもなく断ち切られた。戦や政治ではなく、ひとりの少女の尊厳と命が暴力に奪われる――それは社会の歪みが、最も弱い存在に襲いかかった象徴である。
そして2000年、岡山で高校生が母親を金属バットで殺害した事件もまた、社会と家族、そして個人の関係を問い直す鏡となる。加害者の供述には、怒りよりも歪んだ愛情や絶望がにじむ。家庭という小さな世界の中にも、戦場が潜んでいることを、私たちは忘れてはならない。
6月21日は、たまたま選ばれた日ではないのかもしれない。
天体の運行の中で太陽がもっとも高く昇るこの日に、人の世では最も深い陰が落ちることもある。戦乱も、裏切りも、蜂起も、犯罪も、すべてはその時代の「痛み」を内包している。それらを見つめることで、私たちはようやく「いま」の場所と姿勢を確認できる。
6月21日は、光と影が交錯する「裂け目」のような日だ。だからこそ、この日を通じて、過去を知り、現在を考え、未来に責任を持とうとすることに意味がある。
歴史を記憶するとは、他者の痛みを忘れないという意思そのものなのだ。