6月2日
20250602月曜日旧暦5月7日大安(壬寅みずのえとらジンイン)月齢 5.9
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月壬寅みずのえとら日 年末まであと212日
吉方位 陽遁日 壬寅みずのえとら日
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6月2日の出来事
1098年 – 第1回十字軍: アンティオキア攻囲戦で十字軍がアンティオキアの城内に突入しアンティオキアが陥落。攻城25000対防衛75000。 屠城。
1183年(寿永2年5月11日) – 治承・寿永の乱: 倶利伽羅峠の戦い。源氏3万対平氏4万にて平氏壊滅と。
1793年 – フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。のべ約2万人の処刑。
2008年 – 在パキスタン・デンマーク大使館前で爆発。8名が死亡,約30人が負傷した[2]。
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1098年 – 第1回十字軍: アンティオキア攻囲戦で十字軍がアンティオキアの城内に突入しアンティオキアが陥落。攻城25000対防衛75000。 屠城。
飢餓
食糧不足のため、アンティオキアを包囲する十字軍の宿営内では飢餓が発生し、人間も馬もばたばたと死んでいった。全軍で7人のうち1人は飢えで死に、軍馬は700頭しか残らなかった。民衆十字軍の生き残りであり隠者ピエールに率いられて陣営にいた特に貧しい兵士たちのうちから、死んだ敵兵の死体を食べる人肉食に走る者が現われた。騎士らのうちにはあえて飢えを耐えようとする者もあった。しかし多くは馬の死体などを食べた。
シリアのキリスト教徒や、追放されてキプロス島にいた正教会のエルサレム総主教シモンらは十字軍へ食糧を送ろうとしたが、これも飢餓を和らげることはできなかった。翌1098年1月には、騎士や兵士の中から脱走者が出始めた。その中には隠者ピエールもおり、すぐさま発見されてタンクレードによって宿営に連れ戻された。十字軍に参加した兵や民衆から崇拝されていた彼の権威は、ここに来て地に墜ちた。
6月2日、長引く包囲戦に耐えかねたブロワ伯エティエンヌらが、ついに陣営を出て十字軍を離脱し、タルスス方面に戻ってしまった。しかしこの同じ日、ボエモンらによる市内潜入が始まろうとしていた。フィルーズはボエモンに、近くまで迫っているケルボガに面会するふりをして行軍に出てアンティオキア城内の守備隊を油断させ、そのまま夜にアンティオキアに戻ってきて城壁にはしごをかけて登るよう指示した。同日夜、潜入は成功した。フィルーズは城門を開け放ち、たちまち十字軍が市内になだれ込み虐殺が始まった。市内にいたキリスト教徒も呼応して他の城門を開け放ち、そのままテュルク人守備隊に対する虐殺に加わった。しかし十字軍はムスリムの市民だけでなくキリスト教徒の市民に対しても虐殺を行った。犠牲者の中にはフィルーズの兄弟も含まれていた。ヤギ=シヤーンは混乱に陥ったアンティオキアを脱出したが、市外でシリア人キリスト教徒に捕まり、断首され、その首はボエモンの元に届けられた。
1183年(寿永2年5月11日) – 治承・寿永の乱: 倶利伽羅峠の戦い。源氏3万対平氏4万にて平氏壊滅と。
『平家物語』等の軍記物は入京後の義仲が孤立していったのは義仲個人の資質-「戦には強いが政事には疎かった悲劇の英雄」という性格-によるものとし、後世の史家も『平家物語』の提示する史観を踏襲してきた[28]。しかし久保は、「平家を討って京を奪還する」という共通の目的で義仲と協力体制にあった摂津源氏・土岐源氏が、入京後に後白河院方に復帰してしまったことにより「義仲個人の」軍事力・正当性が弱体化してしまったという側面を有していることを指摘している[9]。『平家物語』は幾多の英雄物語によって構成されており、義仲物語もその一つであるが、このような英雄物語から零れ落ちた歴史事実が存在することに注意を払うべきである、と久保は述べている[30]。
1793年 – フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。のべ約2万人の処刑。
ロベスピエール派
ロベスピエール派は革命反対派、穏健派、過激派など反対派の人物を次々と処刑し、恐怖時代(英語版)をもたらした。ジョルジュ・ダントン、カミーユ・デムーラン、ジャック・ルネ・エベール、アントワーヌ・ラヴォアジェ、リュシル・デュプレシなど多数が殺された。
恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる[要出典]。
ジャン=ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、1794年7月27日に行われたテルミドールのクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。
開始
1793年3月10日、革命裁判所(革命裁)が設置された。革命裁には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。
この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、ジャン=ポール・マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。
5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。
2008年 – 在パキスタン・デンマーク大使館前で爆発。8名が死亡,約30人が負傷した[2]。
チャットgpt先生の6月2日のエッセイ
6月2日という日――歴史に刻まれた「臨界」の瞬間
6月2日という日付は、一見すれば梅雨入りを控えた日本の穏やかな初夏の一日でしかない。しかし歴史の深層に目を向ければ、この日は幾度も「臨界点」となる瞬間を迎え、人類の選択が新たな暴力や秩序を招いた転換の日でもあった。
たとえば1098年のこの日、アンティオキアの城門が開かれた。第一回十字軍による苛烈な包囲が遂に終わりを告げ、飢えと疲労に満ちた兵士たちは市内へなだれ込んだ。飢餓は人間を獣に変える。彼らは敵だけでなく、同じ信仰を持つ市民すら殺戮の対象とした。歴史はこれを「屠城」と記すが、実態は、文明と信仰が試された末の、深い敗北であった。飢えた人々が屍肉に手を伸ばしたように、正義もまた限界の中でその姿を失っていった。
同じく6月2日、1793年のパリでは、別の飢えが暴力を駆動した。革命の理想を掲げたジャコバン派が、国民公会を包囲し、ジロンド派を追放・逮捕する。ここから始まるのは「恐怖政治」。自由・平等・友愛の名の下に、何万人もの命がギロチンの刃に散った。この日、革命は理念から装置へと変質し、血によって維持される体制となった。過剰な理想と過剰な恐怖が、ここで釣り合いをとったのかもしれない。
そして日本の歴史でも、1183年の倶利伽羅峠の戦いがこの日に重なる。源義仲率いる軍勢が平家を打ち破るが、その後、彼は政治に疎い「悲劇の英雄」として失脚の道を歩む。軍事的勝利が必ずしも政治的正当性を保証しないという歴史の皮肉を、義仲の運命は体現している。戦に勝っても、国を治める術を持たなければ、勝者は孤立し、敗者となる。
こうして6月2日を並べてみると、この日は決して単なる「日付」ではない。飢えや恐怖、理想と現実、勝利と崩壊が交錯する「臨界の記憶」が刻まれた日である。人間の集団が「もう引き返せない」と悟りながら、それでも扉を開ける――そのとき、開かれたのは城門か、それとも地獄の門か。
暦の上では大安、しかし歴史にとってはこの日は、静かな顔をした激震の日。6月2日とは、私たちが「人間であること」の限界と、その先にある選択を問い直す日なのかもしれない。