kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月19日 325ニカイア公会議ほか、写真wikipedia会議中コンスタンチヌス1世

6月19日

20240619水曜日旧暦5月14日赤口 甲寅きのえとらコウイン 月齢 12.6

年末まであと195日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8819%E6%97%A5

6月19日の出来事

325年 – 第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。

1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。

1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。

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325年 – 第1ニカイア公会議ニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。

ニケーア公会議(ニケーアこうかいぎ、ニケア、ニケイア[1]とも)は、325年5月20日から6月19日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現:トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれた、キリスト教史における最初の全教会規模の会議。

概説

2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく中でキリスト論や三位一体論の解釈などにおいて様々な立場を取るものが現れたが、その中で、その時点での主流派から正統的でないとみなされたものとその支持者は異端として排斥された。このように、ある思想が正統か異端かの判断が求められそれが一主教(司教)の手に負えない場合、ニカイア公会議以前はそれぞれの地方教会において会議を開き解決するのが一般的であった。

3世紀、アリウス派の思想が議論されるにあたって地域の主教(司教)や地方教会会議だけでの解決が難しくなった。これは要約するならキリストの神性の解釈をめぐる問題であったが、放置すればキリスト教世界の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の一致に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても喫緊の課題であった。

ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることとなった。

ニカイア信条

ニカイア信条はアリウス派を排斥した第1ニカイア公会議(325年)において同年6月19日に[1]採択されたもので、公会議で採択された最初の信条でもある。信条本文の終わりにアリウス派への呪いが挿入されている。[2]

チャットgpt先生のニケーア信条日本語訳

私たちは唯一の神、全能の父、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。

また、唯一の主、神の御子であるイエス・キリストを信じます。イエス・キリストは父から生まれました[唯一の御子、すなわち父の本質から生まれたものであり、神から神、]光から光、まことの神からまことの神、造られたのではなく生まれたものであり、父と一体である者です。すべてのものはこの方によって造られました[天にあるものも地にあるものも]。この方は私たち人類のため、そして私たちの救いのために天から下り、人となり、肉体をとられました。イエス・キリストは苦しみを受け、三日目に復活し、天に昇られました。そしてそこから生きている者と死んでいる者とを裁くために来られます。

また、聖霊を信じます。

しかし、『彼は存在しなかった時があった』とか、『彼は作られる前には存在しなかった』とか、『彼は無から作られた』とか、『彼は別の本質や本体を持っている』とか、『神の子は創造物である』とか、『変わりうる』とか、『変えられうる』と言う者たちは、聖なる普遍的使徒教会によって退けられます。

1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。

1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦

マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん、英語: Battle of the Philippine Sea)は、太平洋戦争末期の海戦。1944年(昭和19年)6月19日から6月20日にかけて西太平洋のマリアナ諸島沖で勃発した大日本帝国(日本)とアメリカ合衆国(アメリカ)の海軍空母機動部隊同士の戦いである。この戦いで、アメリカ軍が勝利し日本軍の連合艦隊は壊滅的に敗北した。アメリカ軍は、この地域の制海権や制空権を確保する事となった。

戦力

日本 空母9隻 戦闘機430以上

米軍 空母15隻 

損害 

日本 空母3隻沈没  航空機400以上破壊 補給艦3隻沈没

米軍 航空機100程度 艦艇数隻小破

6月23日に大本営海軍報道部は以下のような発表を行った。

大本営発表(6月23日15時30分)

我が連合艦隊の一部は、6月19日「マリアナ」諸島西方海面に於て三群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行ひ、爾後戦闘は翌20日に及び其の間敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず 我方航空母艦1隻、附属油槽船2隻及び飛行機50機を失へり

事前にこの原稿を見せられた陸軍首脳部は激怒し、富永恭次陸軍次官は「またミッドウェーの時と同じように、こちらの損害を恐ろしく過少に書いてある」、「いくらかくして見たところでかくしおうせるものではない」、「なぜ真実をそのまま発表しようとしないのだろうか」と述べた上で「陸軍としては絶対にこの発表文案には賛成致しかねる」と主張し、陸軍報道部は原稿に「世論の指導上、真相の発表を切望する」と付箋をつけて突き返した。 これらの動きに対して東條英機首相兼陸相はこれは陸海軍の共同作戦ではなく連合艦隊だけの作戦で、陸軍が発表についてとやかく口をはさめないとした上で「海軍はミッドウェー以来の連敗で気の毒だ」、「海軍の責任で発表することだから、言う通りにしておいたらどうだ」とその場を収めた[60]。

本作戦で小沢長官が採用したアウトレンジ戦法は、成果をあげずに多大な犠牲を払うこととなり、連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。

この戦法に対しては、反対意見もあった。航空本部部員角田求士は「海戦後ある搭乗員から出撃前の打ち合わせ会で「現在の技量では遠距離攻撃は無理だと司令部と議論をした」という話を聞いた」という。軍令部部員の源田実は、「自分はアウトレンジには反対でリンガに出張した時、第一機動部隊司令部に忠告してきた。その理由は、航空攻撃の時発進後適当なウォーミングアップが必要で、発進後三十分ないし一時間が適当である。これより早くても遅くても不適当である。従って発進距離は200浬、多くとも250浬以内が適当である」という。第二航空戦隊参謀奥宮正武は「大鳳の打ち合わせでアウトレンジに対する反対意見を述べた。それは当時の練度では自信がなかったからである。ただし意見を述べただけで議論はしなかった」という[11]。奥宮参謀は敢えて議論をしなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[67]。

一方で、機動部隊司令部は反対意見の存在を否定している。小沢長官は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[68]。先任参謀大前敏一も反対意見を聞いたことがないという[11]。

しかし、結果的にはこのアウトレンジ戦法は無謀であった。ただでさえ、太平洋の真っ只中において母艦から発艦した艦載機が、敵艦隊攻撃後、再び母艦に戻ってくることは、敵に到達する以上に難しいのに、その距離が今までの作戦よりずっと長大だったのである。特に航法担当者のいない単座機である零戦などは、味方機と離れてしまうと独力で戻ってくることは難しかった。そのため、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰投できなかった母艦機も相当数あったと考えられている[14]。 また長距離飛行となるので、事前に索敵機が発見した敵艦隊の移動距離も大きくなるわけで、ましてや未錬成の搭乗員ではこれを発見するのは至難のわざであった。二航戦の奥宮航空参謀は、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を先行させ、この誘導機によって攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待されたが、結果的には、それらの効果は認められず、多数の未帰還機を出した[69]。 また、母艦の索敵機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を差し向けてしまった。これらの攻撃隊は、米艦隊に会敵できず引き返したが、それでも少なからずの未帰還機を生じさせている。また、一部はロタ島等にある日本軍飛行場に着陸する直前に攻撃されたりして損害を出した。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。

チャットgpt先生の6月19日エッセイ

6月19日の歴史を振り返る

6月19日は、歴史の中で重要な出来事がいくつも起こった日です。この日を通して、私たちは多くの教訓や知識を得ることができます。以下、いくつかの出来事を振り返りながら、その意義を考えてみたいと思います。

325年 – 第1ニカイア公会議でのニカイア信条採択

325年6月19日、第1ニカイア公会議において、キリスト教の基本的な信仰告白であるニカイア信条が採択されました。この公会議は、小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現在のトルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれ、キリスト教史における最初の全教会規模の会議でした。

この会議の主な目的は、キリストの神性に関する異端の教義を排斥し、教義の統一を図ることでした。特にアリウス派の教義が議論の焦点となり、その結果、キリストの本質が神と同じであるとするニカイア信条が採択されました。この信条は、キリスト教の教義の基盤となり、後の第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などでさらに補完されました。

この歴史的な出来事は、宗教的統一と教義の確立における重要な一歩を示しており、現在でもキリスト教徒にとって重要な意義を持ち続けています。

1718年 – 通渭・甘粛地震

1718年、地滑りによって中国の甘粛省で発生した通渭・甘粛地震は、約73,000人もの命を奪いました。この災害は、自然の力の恐ろしさと、人々の生活に対する大きな影響を思い起こさせます。地震や地滑りなどの自然災害は、現代においても依然として大きな脅威であり、防災と減災の重要性を再確認する機会となります。

1944年 – マリアナ沖海戦

1944年6月19日から20日にかけて、太平洋戦争末期にマリアナ諸島沖で勃発したマリアナ沖海戦は、大日本帝国とアメリカ合衆国の海軍空母機動部隊同士の戦いでした。この戦いで、日本軍の連合艦隊は壊滅的な敗北を喫し、アメリカ軍はこの地域の制海権と制空権を確保しました。

この海戦は、戦力の差や戦術の効果、そして戦争の帰趨に大きな影響を与えました。特に、日本軍のアウトレンジ戦法は、成果を上げることができず、多大な犠牲を払う結果となりました。この戦法の失敗は、戦略や戦術の重要性を再認識させ、後の軍事計画において大きな教訓となりました。

1945年 – 静岡大空襲・福岡大空襲

1945年6月19日、日本本土空襲の一環として、静岡と福岡で大規模な空襲が行われました。静岡では1,952人以上が死亡し、5,000人以上が負傷、30,000戸以上の家屋が焼失しました。一方、福岡では1,000人以上が行方不明または死亡しました。

これらの空襲は、戦争の悲惨さと市民への影響を象徴しています。多くの命が失われ、多くの家族が悲しみに暮れました。戦争の残酷さを目の当たりにすることで、私たちは平和の重要性を深く理解し、戦争の悲劇を繰り返さないための努力を続ける必要があります。

結論

6月19日は、歴史の中で様々な重要な出来事が起こった日です。ニカイア公会議での信条の採択、自然災害による大規模な被害、戦争の悲惨さを象徴する海戦や空襲など、これらの出来事は私たちに多くの教訓をもたらしています。この日を振り返ることで、過去の出来事から学び、未来に向けてより良い社会を築くための努力を続けていくことの重要性を再確認することができます。