6月19日
20250619木曜日旧暦5月24日仏滅(己未つちのとひつじキビ)月齢 22.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月己未つちのとひつじ日 年末まであと195日
吉方位 陽遁日 己未つちのとひつじ 北東 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8819%E6%97%A5
6月19日の出来事
325年 – 第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。
1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。
1821年 – ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。
時 1821年6月19日
場所 オスマン帝国の旗 オスマン帝国、ワラキア、ドラガシャニ
北緯44.6611度 東経24.2606度座標: 北緯44.6611度 東経24.2606度
結果 オスマン帝国の決定的な勝利
損害: ギリシア独立軍 戦死400人 オスマン帝国軍 不明。
1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。
年月日:1944年6月15日から11月27日
場所:マリアナ諸島、サイパン諸島、パラオ諸島
結果:アメリカの勝利
損害:日本軍 63000人 死亡 アメリカ軍 9500人 死亡
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
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325年 – 第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。
ニケーア公会議(ニケーアこうかいぎ、ニケア、ニケイア[1]とも)は、325年5月20日から6月19日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現:トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれた、キリスト教史における最初の全教会規模の会議。
概説
2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく中でキリスト論や三位一体論の解釈などにおいて様々な立場を取るものが現れたが、その中で、その時点での主流派から正統的でないとみなされたものとその支持者は異端として排斥された。このように、ある思想が正統か異端かの判断が求められそれが一主教(司教)の手に負えない場合、ニカイア公会議以前はそれぞれの地方教会において会議を開き解決するのが一般的であった。
3世紀、アリウス派の思想が議論されるにあたって地域の主教(司教)や地方教会会議だけでの解決が難しくなった。これは要約するならキリストの神性の解釈をめぐる問題であったが、放置すればキリスト教世界の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の一致に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても喫緊の課題であった。
ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることとなった。
ニカイア信条
ニカイア信条はアリウス派を排斥した第1ニカイア公会議(325年)において同年6月19日に[1]採択されたもので、公会議で採択された最初の信条でもある。信条本文の終わりにアリウス派への呪いが挿入されている。[2]
チャットgpt先生のニケーア信条日本語訳
私たちは唯一の神、全能の父、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。
また、唯一の主、神の御子であるイエス・キリストを信じます。イエス・キリストは父から生まれました[唯一の御子、すなわち父の本質から生まれたものであり、神から神、]光から光、まことの神からまことの神、造られたのではなく生まれたものであり、父と一体である者です。すべてのものはこの方によって造られました[天にあるものも地にあるものも]。この方は私たち人類のため、そして私たちの救いのために天から下り、人となり、肉体をとられました。イエス・キリストは苦しみを受け、三日目に復活し、天に昇られました。そしてそこから生きている者と死んでいる者とを裁くために来られます。
また、聖霊を信じます。
しかし、『彼は存在しなかった時があった』とか、『彼は作られる前には存在しなかった』とか、『彼は無から作られた』とか、『彼は別の本質や本体を持っている』とか、『神の子は創造物である』とか、『変わりうる』とか、『変えられうる』と言う者たちは、聖なる普遍的使徒教会によって退けられます。
1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。
1821年 – ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。
時 1821年6月19日
場所 オスマン帝国の旗 オスマン帝国、ワラキア、ドラガシャニ
北緯44.6611度 東経24.2606度座標: 北緯44.6611度 東経24.2606度
結果 オスマン帝国の決定的な勝利
損害: ギリシア独立軍 戦死400人 オスマン帝国軍 不明。
フィリキ・エテリア(ギリシア語: Φιλική Εταιρεία 友愛会の意)は19世紀前半にオスマン帝国統治下のギリシャにおいて活動した秘密組織。「トルコ」の支配を排し、ギリシャ人による独立国家の建設を目的としていた。
フィリキ・エテリアのメンバーは、ロシア帝国に在住するギリシャ人が中心となっていた。バルカン半島でのロシアの影響力を拡大しようとするロシア政府が、組織に物質的援助を与えていたと言われる。彼らの決起が1821年に始まるギリシャ独立戦争の嚆矢となった。
1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。
年月日:1944年6月15日から11月27日
場所:マリアナ諸島、サイパン諸島、パラオ諸島
結果:アメリカの勝利
損害:日本軍 63000人 死亡 アメリカ軍 9500人 死亡
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
マリアナ・パラオ諸島の戦い(マリアナ・パラオしょとうのたたかい、英:Mariana and Palau Islands campaign)は、太平洋戦争中に日本軍とアメリカ軍の間でマリアナ諸島、パラオ諸島をめぐり行われた戦闘である。
太平洋方面では連合軍の反攻により日本軍は後退が続いていたが、日本が絶対確保を要する圏域としたマリアナ諸島、パラオ諸島にも連合軍は進攻を開始した。これは最終目標の日本本土進攻に向けて新たな基地を確保するためで、島を防衛する日本軍との間で熾烈な戦闘が行われた。また、海上でも大規模な海戦が発生した。
マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん、英語: Battle of the Philippine Sea)は、太平洋戦争末期の海戦。1944年(昭和19年)6月19日から6月20日にかけて西太平洋のマリアナ諸島沖で勃発した大日本帝国(日本)とアメリカ合衆国(アメリカ)の海軍空母機動部隊同士の戦いである。この戦いで、アメリカ軍が勝利し日本軍の連合艦隊は壊滅的に敗北した。アメリカ軍は、この地域の制海権や制空権を確保する事となった。
戦力
日本 空母9隻 戦闘機430以上
米軍 空母15隻
損害
日本 空母3隻沈没 航空機400以上破壊 補給艦3隻沈没
米軍 航空機100程度 艦艇数隻小破
6月23日に大本営海軍報道部は以下のような発表を行った。
大本営発表(6月23日15時30分)
我が連合艦隊の一部は、6月19日「マリアナ」諸島西方海面に於て三群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行ひ、爾後戦闘は翌20日に及び其の間敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず 我方航空母艦1隻、附属油槽船2隻及び飛行機50機を失へり
事前にこの原稿を見せられた陸軍首脳部は激怒し、富永恭次陸軍次官は「またミッドウェーの時と同じように、こちらの損害を恐ろしく過少に書いてある」、「いくらかくして見たところでかくしおうせるものではない」、「なぜ真実をそのまま発表しようとしないのだろうか」と述べた上で「陸軍としては絶対にこの発表文案には賛成致しかねる」と主張し、陸軍報道部は原稿に「世論の指導上、真相の発表を切望する」と付箋をつけて突き返した。 これらの動きに対して東條英機首相兼陸相はこれは陸海軍の共同作戦ではなく連合艦隊だけの作戦で、陸軍が発表についてとやかく口をはさめないとした上で「海軍はミッドウェー以来の連敗で気の毒だ」、「海軍の責任で発表することだから、言う通りにしておいたらどうだ」とその場を収めた[60]。
本作戦で小沢長官が採用したアウトレンジ戦法は、成果をあげずに多大な犠牲を払うこととなり、連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。
この戦法に対しては、反対意見もあった。航空本部部員角田求士は「海戦後ある搭乗員から出撃前の打ち合わせ会で「現在の技量では遠距離攻撃は無理だと司令部と議論をした」という話を聞いた」という。軍令部部員の源田実は、「自分はアウトレンジには反対でリンガに出張した時、第一機動部隊司令部に忠告してきた。その理由は、航空攻撃の時発進後適当なウォーミングアップが必要で、発進後三十分ないし一時間が適当である。これより早くても遅くても不適当である。従って発進距離は200浬、多くとも250浬以内が適当である」という。第二航空戦隊参謀奥宮正武は「大鳳の打ち合わせでアウトレンジに対する反対意見を述べた。それは当時の練度では自信がなかったからである。ただし意見を述べただけで議論はしなかった」という[11]。奥宮参謀は敢えて議論をしなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[67]。
一方で、機動部隊司令部は反対意見の存在を否定している。小沢長官は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[68]。先任参謀大前敏一も反対意見を聞いたことがないという[11]。
しかし、結果的にはこのアウトレンジ戦法は無謀であった。ただでさえ、太平洋の真っ只中において母艦から発艦した艦載機が、敵艦隊攻撃後、再び母艦に戻ってくることは、敵に到達する以上に難しいのに、その距離が今までの作戦よりずっと長大だったのである。特に航法担当者のいない単座機である零戦などは、味方機と離れてしまうと独力で戻ってくることは難しかった。そのため、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰投できなかった母艦機も相当数あったと考えられている[14]。 また長距離飛行となるので、事前に索敵機が発見した敵艦隊の移動距離も大きくなるわけで、ましてや未錬成の搭乗員ではこれを発見するのは至難のわざであった。二航戦の奥宮航空参謀は、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を先行させ、この誘導機によって攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待されたが、結果的には、それらの効果は認められず、多数の未帰還機を出した[69]。 また、母艦の索敵機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を差し向けてしまった。これらの攻撃隊は、米艦隊に会敵できず引き返したが、それでも少なからずの未帰還機を生じさせている。また、一部はロタ島等にある日本軍飛行場に着陸する直前に攻撃されたりして損害を出した。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
チャットgpt先生の6月19日のエッセイ
6月19日のエッセイ:歴史に刻まれた「信」と「戦」
6月19日——それは、信仰と戦い、理想と現実が交差する歴史の一日である。
遥か西暦325年、ローマ帝国の片隅、ニカイア(現トルコ・イズニク)の町にキリスト教世界の指導者たちが集った。ニカイア公会議。この日、初めて「キリストとは何者か」という問いに、公式な答えが与えられた。「神から神、光から光、まことの神からまことの神」と謳われるニカイア信条は、異端とされたアリウス派を退け、教会の統一を目指した。信仰の奥底にある形而上の問いが、帝国の政治と交錯し、ひとつの文として歴史に刻まれた瞬間だった。
それから1500年の時を経て、今度は武器を持った人々が信念のもとに立ち上がった。1821年、オスマン帝国の支配にあえぐギリシャで、独立を志す秘密組織「フィリキ・エテリア」がドラガシャニの地で戦火を交えた。だがこの日、彼らの夢は無残にも砕かれる。400人の命が散ったが、その犠牲がギリシャ独立戦争の始まりの烽火となったのは皮肉であり、また崇高でもある。失敗の中にある「始まり」——そこにこそ、信念の重みがある。
1944年、そして1945年、今度は海と空に戦の火が放たれた。6月19日、マリアナ沖では日本海軍の夢と自信が音を立てて崩れ落ちる。「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたその敗北には、練度不足、戦略の過信、そしてなによりも「聞く耳を持たなかった組織」の姿があった。名将・小沢治三郎の信念と現場の悲鳴はすれ違い、無数の若者が帰らぬ空へと飛び立った。
翌年の同日、日本の空は灼熱に焼かれていた。静岡、福岡の大空襲。信仰も理想も関係なく、ただ人々の暮らしと命が焼き尽くされた。静岡では1,952名以上が死亡、福岡では1,000人以上が命を落とした。その誰一人として、戦争を望んだわけではないだろう。だが、国の「大義」の名のもとに、無数の民の営みが灰となった。
振り返れば、この6月19日は、「信じる」という行為の輝きと痛みを同時に映し出している。
ニカイアの神学者たちは、神の本質を定義することで人間の信仰に秩序をもたらそうとした。フィリキ・エテリアの青年たちは、自由のために命を投げ出し、日本の軍司令官たちは、失われた制空権の中で“最後の勝機”を追い求めた。しかし、信仰や理念が現実の悲劇を止めるとは限らない。時にそれは、理屈や正義を超えて、多くの命を巻き込む暴力へと変わる。
6月19日は、そうした人間の希望と過ち、理想と惨禍がせめぎ合った日だ。
我々はこの日を「歴史の出来事」として記憶するだけでなく、「いまを生きる者」として考えたい。信じるとは何か。それは、他者を排斥することではなく、対話を恐れず、問い続ける姿勢そのものであるべきだ。過去のこの日が繰り返し語りかけるのは、その静かなメッセージである。