kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月17日  1945鹿児島大空襲ほか、写真wikipedia焼け野原の市街地

6月17日

20250617火曜日旧暦5月22日友引(丁巳ひのとみテイシ)月齢 20.9

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月丁巳ひのとみ日 年末まであと197日

吉方位 陽遁日 丁巳ひのとみ日 西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8817%E6%97%A5

6月17日の出来事

362年 – ローマ皇帝ユリアヌスがキリスト教徒を教師・高官などの職から追放。

1565年(永禄8年5月19日) – 三好三人衆らが室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害(永禄の変)。

1775年 – アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い。

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1775年6月17日

場所:チャールズタウン

結果:イギリス軍のピュロスの勝利[1][2]

損害:大陸軍2400人中 戦死傷450人 イギリス軍3000人中 戦死傷1054人

1939年 – フランスでジュール=アンリ・デフルノーにより殺人犯オイゲン・ヴァイトマンのギロチンによる処刑が行われる。フランスで史上最後の公開処刑となる。

1940年 – 第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「ランカストリア」がドイツ国防軍のJu 88爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦: 日本本土空襲: 鹿児島大空襲。死者2,316人、負傷者3,500人

1981年 – 東京都江東区で覚醒剤を常用した男が主婦や幼児ら4人を殺害(深川通り魔殺人事件)。

2008年 – 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の死刑を執行[5] 。

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362年 – ローマ皇帝ユリアヌスがキリスト教徒を教師・高官などの職から追放。

1565年(永禄8年5月19日) – 三好三人衆らが室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害(永禄の変)。

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。永禄の政変と呼称されることもある[注釈 1]。なお、松永久秀も事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加したのは息子の久通であり、事件当時、久秀は大和国にいたため、関与はしていない[4]。

戦力

三好勢 10000 対 幕府勢 数百

損害  

三好勢 微小    幕府勢 全滅    

1775年 – アメリカ独立戦争: バンカーヒルの戦い

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1775年6月17日

場所:チャールズタウン

結果:イギリス軍のピュロスの勝利[1][2]

損害:大陸軍2400人中 戦死傷450人 イギリス軍3000人中 戦死傷1054人

バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、英: Battle of Bunker Hill)は、アメリカ独立戦争初期、ボストン包囲戦中の1775年6月17日に起こった大陸軍とイギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは両軍の当初の目標でチャールズタウンの近くにある「バンカーヒル」という名で知られているが、主戦場は隣の山で後にBreed’s Hillと呼ばれた場所である[7][8]。

1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍の指導者達は、イギリス軍がボストン市内から出撃し、市を取り囲んでいて当時占領されていない丘を占領して要塞化する作戦を立案中である、と言う情報を手に入れた。これらの丘を占領すると、ボストン港はイギリス軍の支配下に入ることになる。この情報に反応してウィリアム・プレスコットの指揮する1,200名の部隊が密かにバンカーヒルとブリーズヒルを占領した。その夜、プレスコットの部隊はブリーズヒルに土盛りの堡塁を造り、チャールズタウン半島の大半にわたる、軽く防御を施した前線を築き上げた[9]。

6月17日の黎明、イギリス軍は新しい陣地の出現を関知、攻撃した。大陸軍の前線に対する攻撃ははじめの2回が大きな損失を出して撃退されたが、3回目には堡塁の大陸軍の弾薬が尽きていたためその陣地を占領することができた。大陸軍はバンカーヒルを越えてケンブリッジまで撤退、半島の支配はイギリス軍に明け渡した[10]。

戦闘はイギリスの戦術的勝利に終わったが、それはピュロスの勝利だった。というのも、イギリス軍の損害は多くの士官を含む上に大陸軍より多く、また経験不足な民兵が戦闘で正規軍に渡り合えることが証明された。そのため、この戦闘以降はイギリス軍が守備の堅い防御線への攻撃を控えるようになった。大陸軍の損害はイギリス軍のそれよりはるかに少なかったが、ジョセフ・ウォーレン将軍と本戦闘における最後の死者であるアンドリュー・マクレアリ(英語版)が含まれている[11]。戦闘後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。大陸軍のイズラエル・パットナム将軍か、彼の副官のウィリアム・プレスコットか、あるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中で結論が出ていない。

1939年 – フランスでジュール=アンリ・デフルノーにより殺人犯オイゲン・ヴァイトマンのギロチンによる処刑が行われる。フランスで史上最後の公開処刑となる。

オイゲン・ヴァイトマン(Eugen Weidmann, 1908年2月5日 – 1939年6月17日)は、ドイツ生まれの連続殺人者。フランス本国における史上最後の公開処刑で、ギロチンにかけられた。

強盗殺人犯 被害者5人 31歳没

1940年 – 第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「ランカストリア」がドイツ国防軍のJu 88爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦: 日本本土空襲: 鹿児島大空襲。死者2,316人、負傷者3,500人

鹿児島大空襲(かごしまだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、鹿児島県鹿児島市と周辺に対して行われた都市無差別爆撃の総称。鹿児島市に対する空襲は1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて8回行われており、合計で死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出した[1]。

鹿児島市に対する空襲の中では同年6月17日に行われた空襲は鹿児島市内一辺に対して行われ死者2,316人、負傷者3,500人となり、最大の被害を与えた[1]。

1981年 – 東京都江東区で覚醒剤を常用した男が主婦や幼児ら4人を殺害(深川通り魔殺人事件)。

深川通り魔殺人事件(ふかがわとおりまさつじんじけん)とは、1981年(昭和56年)6月17日に東京都江東区森下二丁目(深川地域)の商店街路上で発生した通り魔殺人(無差別殺人)事件[4]。

覚醒剤を濫用していた元寿司店員の男が職に就けず、生活に行き詰まったことを「自分を解雇したり、採用を見送ったりする寿司店経営者たちのせいだ」と逆恨みし、商店街で通行人を無差別に襲撃[4]。包丁で路上を歩いていた通行人4人(主婦+幼子2人の母子3人を含む)を刺殺して主婦2人に重傷を負わせたほか、別の主婦1人(軽傷)を人質に取り、逮捕されるまで7時間にわたり近くの中華料理店に立てこもった[4]。

刑事裁判では、犯行時の被告人Kの精神状態(責任能力の有無・程度)が最大の争点となり、東京地裁は1982年(昭和57年)12月に「本来なら死刑に処すべき犯行だが、犯行時は心神耗弱状態だった」として、被告人Kに無期懲役判決を言い渡した[8]。被告人Kは控訴しなかったため、1983年(昭和58年)1月に無期懲役が確定した[8]。

2008年 – 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の死刑を執行[5] 。

宮﨑 勤(みやざき つとむ、1962年〈昭和37年〉8月21日 – 2008年〈平成20年〉6月17日)は、日本の連続殺人犯、元死刑確定者(死刑囚)。1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に東京都および埼玉県で計4人の幼女・女児が殺害された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定117号事件)の犯人である。

1989年8月以降、一連の事件の犯人として逮捕・起訴され、2006年(平成18年)2月2日に死刑判決が確定[4]。2008年6月17日に東京拘置所で死刑を執行された(45歳没)[5]。

家族

まれに見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮﨑への憎悪はそのまま彼の家族・親族へと波及した。

宮﨑が逮捕されてから1か月後の1989年9月時点で、宮﨑の家族はDの遺体切断場所ともなった家を去っていた[56]。事件後に家は取り壊され、1996年10月時点では事件前に死去した祖父が住んでいた離れだけが残っていた[57]。2006年1月時点では同地は完全に更地となり、同月時点から遡って数年前から[58]、夏などに敷地裏を流れる秋川を訪れる家族連れらの駐車場として利用されており[59]、傍らには石仏が置かれていた[56]。2023年12月時点で、同地は売地となっているが買い手はつかず、宮崎家が管理している。[60]。

家族・親戚らの境遇

宮﨑は両親のほかに姉妹2人がいたが、彼らに対して「お前たちも死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が殺到した[61]。長女は勤めていた会社を辞め、既に結婚間近だったが自ら婚約を破棄した。次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。事件後に宮崎の両親はいったん離婚し、母親の姓で再婚した[57][62]。

父親の弟2人も退職した上、長弟は持っていた会社を妻の名義に変更し、5つの会社役員を全て辞職。次弟には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘たちは妻に引き取らせた[63]。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師であったが辞職した[64]。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[65]。

父親の自殺

家族は宮﨑の逮捕から1年後に引っ越した。宮﨑は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したが父親はこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りをつけると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋 (水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。

作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり、被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木はほかに私選弁護士をつけるよう要請してきた宮﨑を拒絶したことについても批判している[66]。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮﨑の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分あり、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。

父親とかねてから交流があり、事件後も父親とのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛にさいなまれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている[67]。

宮﨑の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、まったく関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞したりすることを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた[68]。

チャットgpt先生の6月17日のエッセイ

6月17日という日:歴史の狭間に咲く光と影

6月17日。その日付をただの数字として眺めることもできるが、時の流れの中に足を踏み入れると、さまざまな物語がそこに息づいていることに気づかされる。歴史とは静かな墓標ではなく、記憶の波が岸辺を打つように、時折私たちの心に問いかけてくる存在だ。この6月17日もまた、その問いかけに満ちている。

362年、ローマ皇帝ユリアヌスはキリスト教徒たちを高位から排除する政策を打ち出した。古代末期の宗教闘争。信仰の名を借りた権力のせめぎ合いが、人々の暮らしを大きく揺るがす。信じるという行為の尊さと、信じさせないという暴力性。その間にある緊張感は、時代を超えて現代にも残っている。

1565年、日本では将軍足利義輝が、三好勢の謀略により二条御所で命を落とした。わずか数百の幕府勢に対し、1万人の兵を率いた三好三人衆。義輝は剣豪としても知られ、刀を何本も畳に突き立てて迎え撃ったという逸話も残るが、武勇をもってしても政の混乱には抗えなかった。武士の誇りと時代の変転のはざまに消えた一命。それは「名将」の最後というより、「制度の終焉」を象徴するようにも映る。

1775年、アメリカ・ボストンのチャールズタウン。バンカーヒルの戦いが繰り広げられた。イギリス軍は勝利したが、その代償はあまりに大きく、「ピュロスの勝利」と称される。市民から成る民兵が、世界帝国に対して対等に戦ったという事実は、ただの戦術的な評価以上に、ひとつの思想の芽吹きを物語る。自由への渇望が、弾薬の尽きた土塁の上に光を灯したのだ。

だが、6月17日が語るのは、理想や正義だけではない。1939年、フランスで行われた最後の公開処刑。ギロチンにかけられたヴァイトマンは連続殺人犯だったが、その死に群がる群衆の姿もまた、時代の野蛮さを映し出していた。人が人を裁くという行為の中に潜む、冷ややかな好奇と不安定な倫理。正義の名のもとに行われたこの儀式は、文明という鏡のひび割れを示していた。

1945年6月17日、鹿児島。2,000人以上の命が奪われた大空襲は、都市の上に降る死の雨の記憶を刻んだ。焼けただれた町並み、泣き叫ぶ人々、その背後にあった生活のぬくもり。戦争とは国家間の争いである前に、個人の人生を容赦なく奪う暴風だと教えてくれる。

1981年、そして2008年——日本では深川通り魔事件と、宮崎勤の死刑執行が起こっている。無差別に命を奪う暴力。そして、それに対する法の応答。犯人自身よりも、その家族が世間から追われ、断罪されていく理不尽な構造。それは「悪」と「罰」の間に横たわる、もうひとつの人間の苦しみである。

それでも、この日は「陽遁日」であり、「大吉」の日でもあるという。旧暦では友引。対立せず、和すべき日。善と悪、勝利と敗北、命の誕生と死の終焉。そのすべてが6月17日という一日のなかに共存している。そこには、ただの「日付」ではない、濃密な人間の営みがある。

ふと、私たちが生きている「今日」という日も、数十年後には誰かの語る歴史になるのかもしれない。そう思うと、今日の選択や言葉、沈黙すらも、未来の誰かに問いかける記憶になっていく。

だからこそ——

6月17日という日を、ただの「カレンダーの一行」として過ごさず、歴史という大河の一滴として、静かに見つめてみたい。影の中に浮かび上がる、人間の輪郭を確かめながら。