6月15日
20250615日曜日旧暦5月20日赤口(乙卯きのとうイツボウ)月齢 18.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月乙卯きのとう日 年末まであと199日
吉方位 陽遁日 乙卯きのとう日 西 大吉
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6月15日の出来事
1189年(文治5年閏4月30日) – 衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。
1864年 – 南北戦争: リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始まる。
時 1864年6月15日 – 1865年3月25日
場所 バージニア州ピーターズバーグ
結果 北軍の勝利
損害 北軍 53386人戦死 南軍 30000人戦死
1904年 – 日露戦争: 常陸丸事件が起こる。輸送船常陸丸ほかロシアに撃沈される。1334人死亡。
1904年 – ニューヨークの遊覧船ジェネラル・スローカムがイースト川で火災。1,031人が死亡。
1944年 – 第二次世界大戦: アメリカ合衆国軍がサイパン島への上陸を開始し、サイパンの戦いが始まる。
年月日:1944年6月15日から7月9日
場所:マリアナ諸島、サイパン
結果:アメリカの勝利
戦力
日本 40000人(陸軍30000+海軍10000)
米軍 160000人(内上陸部隊70000)
損害
日本 戦死35000+自決5000=40000 つまり全滅 致死率100%
米軍 戦死3500 戦傷13000 合計16500 死傷率 10%
イパンの戦い(サイパンのたたかい)は太平洋戦争中の1944年6月15日から7月9日にかけてサイパン島で行われた、アメリカ軍と日本軍の戦闘。
斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホーランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団(英語版)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日 – 20日)が発生した。
1963年 – 坂本九の「上を向いて歩こう (SUKIYAKI)」がアメリカのヒットチャートビルボードの週間ランキングで1位を獲得。
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1189年(文治5年閏4月30日) – 衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。
五百騎と十数人 義経と妻子の自害。武蔵坊弁慶、亀井重清、鈴木重家ら郎党の戦死、自害。
1864年 – 南北戦争: リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始まる。
時 1864年6月15日 – 1865年3月25日
場所 バージニア州ピーターズバーグ
結果 北軍の勝利
損害 北軍 53386人戦死 南軍 30000人戦死
リッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦(リッチモンド・ピーターズバーグほうめんさくせん、英:Richmond-Petersburg Campaign、またはピーターズバーグ包囲戦、英Siege of Petersburg)は、南北戦争の1864年6月9日から1865年3月25日にかけて、バージニア州ピーターズバーグ周辺で行われた一連の戦闘である。一般にはピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるが、町が完全に包囲されて補給も遮断されるような古典的な包囲戦ではなく、ピーターズバーグに限定した戦いでも無かった。これは9ヶ月を超える塹壕戦であり、ユリシーズ・グラント中将が率いる北軍がピーターズバーグを攻めあぐねた結果、塹壕線を構築して、最終的に町の東の郊外から始まり東部と南部の郊外を囲む30マイル (48 km)にも及ぶ戦線が形成された。ピーターズバーグは南軍のロバート・E・リー将軍とアメリカ連合国の首都リッチモンドにとって重要な補給拠点であった。ピーターズバーグを通ってリッチモンドに至る鉄道を遮断するために数多の攻勢が実施され、この多くが塹壕線の延伸をもたらし、アメリカ連合国の物資窮乏に拍車を掛けた。
リーは最終的に圧力に屈した。1865年3月25日には補給線が遂に切断されて本当の包囲戦が始まり、このためリーは1865年4月にはリッチモンドとピーターズバーグを放棄し、これは更なる撤退とアポマトックス・コートハウスにおける降伏に繋がった。ピーターズバーグ包囲戦は第一次世界大戦で常態化した塹壕戦の先例として軍事史の中で特筆される。また南北戦争の中でアフリカ系アメリカ人の兵士を最も大量に投入した戦いであり、彼らはクレーターの戦いやチャフィン農園の戦いなどで大きな犠牲を出した。
1904年 – 日露戦争: 常陸丸事件が起こる。輸送船常陸丸ほかロシアに撃沈される。1334人死亡。
常陸丸事件(ひたちまるじけん)とは、日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日に玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻が、ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(ウラジオ艦隊)所属の3隻の装甲巡洋艦、「ロシア」、「リューリク」および「グロモボーイ」によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。特に、陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船、6,172トン)の喪失は日本の国内世論を憤激させ、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなり、第二艦隊は事件から2か月後の8月14日に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させるまでの間、強い批判にさらされた。
1904年 – ニューヨークの遊覧船ジェネラル・スローカムがイースト川で火災。1,031人が死亡。
ジェネラル・スローカム (General Slocum) は、アメリカ合衆国、ニューヨーク港を回っていた遊覧船。就航中に何度も座礁や衝突を起こしていたが、1904年6月15日にイースト川で火災を起こし、1031人が死亡した。
1944年 – 第二次世界大戦: アメリカ合衆国軍がサイパン島への上陸を開始し、サイパンの戦いが始まる。
場所:マリアナ諸島、サイパン
結果:アメリカの勝利
戦力
日本 40000人(陸軍30000+海軍10000)
米軍 160000人(内上陸部隊70000)
損害
日本 戦死35000+自決5000=40000 つまり全滅 致死率100%
米軍 戦死3500 戦傷13000 合計16500 死傷率 10%
1963年 – 坂本九の「上を向いて歩こう (SUKIYAKI)」がアメリカのヒットチャートビルボードの週間ランキングで1位を獲得。
チャットgpt先生の6月15日のエッセイ
6月15日の記憶──歴史の影に咲くもの
6月15日という日は、歴史の重層を静かに背負った日である。今日を眺めると、一見穏やかな初夏の陽光が降り注ぐ日曜日に過ぎない。しかし、過去に目を向けると、そこには時代ごとに刻まれた痛みと勇気の痕跡が鮮明に浮かび上がる。
たとえば1189年、奥州衣川館で源義経は命を絶った。壇ノ浦の戦勝から一転、頼朝に追われ、最後はわずか十数名の郎党とともに自害する。忠義と裏切り、栄光と孤独。義経の悲劇は日本人の精神の深層に染み入り、数百年を経た今もなお語り継がれている。衣川の地に散った者たちの誇りと、儚さ。それはまさに「武士の美学」の象徴だった。
一方で、世界に目を向ければ1864年、アメリカ南北戦争のピーターズバーグ方面作戦が始まった日でもある。約9ヶ月にも及ぶ塹壕戦は、第一次世界大戦の前哨ともいえる新たな戦争の形を示し、黒人兵士たちが大量に投入されたこの戦いは、アメリカ社会の構造をも変革する一石となった。勝利とは何か、犠牲の上に成り立つ正義とは何か──問いは絶えることなく続く。
1904年には2つの惨事が同日に起きた。日露戦争下、ロシア巡洋艦隊によって日本の輸送船「常陸丸」が撃沈され、1334人が命を落とす。その同日、ニューヨークの遊覧船「ジェネラル・スローカム」が炎上し、1031人が死亡した。戦場でもない市民の空間で起きた大規模な死──そこに共通するのは、安全を信じた者たちの無念さである。
1944年、太平洋戦争の転換点となったサイパンの戦いも、6月15日に始まった。日本軍4万人は全滅し、死傷率は100%に達した。戦局が本土決戦へと向かう中、死という極限状態の中で兵士たちは何を思ったのか。国家のため、家族のため、信念のため──多くの想いが砂浜に消えていった。
そして、ほんの少し未来に目をやれば、1963年のこの日、坂本九の「上を向いて歩こう」がアメリカのビルボード1位に輝く。サイパンの戦いからわずか20年。戦争と死から、音楽と希望へ。日本が再び世界に存在感を示した瞬間である。「涙がこぼれないように」上を向いて歩いた彼の歌声は、傷ついた時代を生きた人々への静かな慰めだったに違いない。
6月15日には、栄光も悲劇も、希望も絶望も、すべてが等しく刻まれている。それはまるで、静かな湖の底に沈む数多の石のように、普段は見えずとも確かに存在している記憶の集合体だ。
今日、私たちが何気なく過ごす一日も、いずれ歴史の一部になるのだろう。そのとき、私たちはこの時代の「義経」かもしれないし、「坂本九」かもしれない。ただ一つ言えるのは、歴史は決して遠くの物語ではなく、今という瞬間の延長線上にある、ということだ。