kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月12日 1560年(永禄3年5月19日)桶狭間の戦い、ほか写真wikipedia合戦図歌川豊宣画

6月12日

20250612木曜日旧暦5月17日先負(壬子みずのえね)月齢 15.9

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月壬子みずのえね日   年末まであと202日

吉方位 陽遁日 壬子みずのえね日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8812%E6%97%A5

6月12日の出来事

1560年(永禄3年5月19日) – 桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る[2]。織田2000対今川25000。

1592年(文禄元年5月3日) – 文禄の役: 朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)が陥落し、小西行長・加藤清正が入城。

日本158700対 明朝鮮軍250000

損害

日本20000 対 明朝鮮 30000強

1864年 – 南北戦争: コールドハーバーの戦いが終結。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

2016年 – オーランド銃乱射事件が発生。容疑者1人を含む50人が死亡、53人が負傷。米国で起きた銃乱射事件としては史上最悪のものとなった[9]。

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1560年(永禄3年5月19日) – 桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る[2]。織田2000対今川25000。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し[2]、今川義元を討ち取った。

戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。

1592年(文禄元年5月3日) – 文禄の役: 朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)が陥落し、小西行長・加藤清正が入城。

日本158700対 明朝鮮軍250000

損害

日本20000 対 明朝鮮 30000強

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]。

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 12])で表記。( )の年は西暦である。

日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる[22][注 13]。

未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて独断で国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と朝鮮には衰退の原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を被ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして代償を得た大名もあった。

1864年 – 南北戦争: コールドハーバーの戦いが終結。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

コールドハーバーの戦い(コールドハーバーのたたかい、英:Battle of Cold Harbor)は、南北戦争の中盤1864年5月31日から6月12日に行われた、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最後の戦いである。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されている。南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れた。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐した。

戦力

北軍 100000 対 南軍 60000

損害

北軍 13000  南軍 2500

2016年 – オーランド銃乱射事件が発生。容疑者1人を含む50人が死亡、53人が負傷。米国で起きた銃乱射事件としては史上最悪のものとなった[9]。

オーランド銃乱射事件(オーランドじゅうらんしゃじけん)とは、2016年6月12日、オマール・マティーンにより引き起こされた、米国フロリダ州オーランドのナイトクラブ「パルス」で起きた銃乱射事件である。

概要

フロリダ州オーランドのゲイナイトクラブ「パルス」(Pulse)でクラブの客を標的に、マティーンがAR-15系の自動小銃を乱射した後、店内に立てこもった[1]。約3時間後にSWATが突入し、男は射殺された[2]。

マティーンは、ナイトクラブの客49人を射殺し、さらに53人を負傷させた後、SWATによって射殺された[3][4][5]。

この銃乱射事件は、被害としては2007年のバージニア工科大学銃乱射事件を超えてアメリカの犯罪史上最悪(当時)となった[3](2017年には犠牲者数60人のラスベガス・ストリップ銃乱射事件が発生している)。

チャットgpt先生の6月12日のエッセイ

【6月12日という日 ─ 戦火と変革の交差点】

6月12日という日は、単なる一日ではない。人類史の上に刻まれた、いくつもの「転機」が重なる、重層的な記憶の日である。この日、世界各地で数々の戦争、暴力、そして変革が起きてきた。歴史のなかのこの日を辿ることは、人間の愚かさと勇気、破壊と再生、そして希望と絶望の複雑な交錯を見つめる行為でもある。

まず、日本史における6月12日の象徴は、何といっても1560年の「桶狭間の戦い」であろう。織田信長が2,000の兵で2万5千の今川義元軍を破ったこの奇襲は、戦国時代のパラダイムを転換させる出来事であった。まるで神話のような戦力差を覆す逆転劇は、日本史上屈指のドラマティックな勝利である。信長はここから一気に畿内制圧へと歩みを進め、徳川家康(当時は松平元康)との清洲同盟も生まれ、結果として戦国の世は新たな秩序へ向かって進んでいく。6月12日は「時代が動いた日」と言っても過言ではない。

そこからわずか30年後、1592年の同日には、豊臣秀吉の遠征軍が朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させた。「文禄の役」である。日本、朝鮮、そして明の三国がぶつかり合ったこの大規模戦争は、兵力・損害ともに桁違いで、東アジア全体を巻き込む16世紀最大級の戦争の一つとされている。これもまた、天下統一を成し遂げた権力者が次に求めた「外征」の結末であり、無数の命と国力を消耗し、結局誰も勝者とならぬまま終息を迎えた。

さらに、1864年のアメリカ、コールドハーバーの戦いは南北戦争屈指の惨劇である。北軍が正面攻撃を敢行し、わずか数日で13,000人を超える死傷者を出したこの戦闘は、戦術の愚かさと人的損失の非情さを象徴する。将軍グラントが「生涯で最も後悔した戦い」と述べたほど、その意味と重みは深い。戦術が技術に追いつかず、人命が消耗品のように扱われた近代戦争の到来がここにある。

そして、近年では2016年、アメリカ・オーランドの「パルス」ナイトクラブで起きた銃乱射事件がある。49人が殺され、53人が負傷。性的マイノリティの人々が集う場所での無差別殺戮は、ただの犯罪を超えて、アメリカ社会の銃規制、差別、宗教的過激思想といった複合的な問題を突きつけた。6月12日は、暴力の形が銃に変わっても、人間社会の脆弱さは変わらないことを思い知らせる。

こうして見ると、6月12日は戦と衝突に満ちた日であると同時に、それが歴史を前に進めるきっかけともなった日である。権力の転換、国家の衰退、戦術の変容、そして社会構造の問い直し──いずれも「痛み」を伴って新たな局面が開かれた。

だが、その痛みのなかに私たちは何を見出すのだろうか。戦場で倒れた無名の兵士、国家間の思惑に翻弄された市民、そして自らの信念とともに行動した人物たちの姿が、今も6月12日という日に浮かび上がる。彼らの声なき声に耳を傾けながら、私たちは歴史の教訓を未来への責任として引き継いでいかなければならない。

6月12日──それは、「過去の傷口」ではなく、「現在への警鐘」である。私たちはこの日を、ただ記念するのではなく、思考する日として刻むべきなのだ。