kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月10日  1786長江支流結界10万人死亡、ほかwikipedia大渡河

6月10日

20250610火曜日旧暦5月15日先勝(庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 13.9年

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月庚戌かのえいぬ日  年末まであと204日

吉方位 陽遁日 庚戌かのえいぬ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8810%E6%97%A5

6月10日の出来事

716年(霊亀2年5月16日) – 高句麗の遺民1,799名を武蔵国に移し高麗郡を設置[要出典]。

1221年(承久3年5月19日) – 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。

1786年 – 10日前の地震で中国四川省の大渡河にできた天然ダムが崩壊。10万人が死亡。

1886年 – ニュージーランドのタラウェラ山が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。

1900年 – 義和団の乱鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)

戦争:義和団の乱

年月日:1900年6月20日 – 1901年9月7日

場所:清の旗 清、華北、満洲

結果:八カ国連合軍の勝利

損害:八か国連合軍 7万人強中 死傷757人 義和団 20万人強中 死傷数万人。

1942年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。 500~1300人以上。

1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツの武装親衛隊がフランスのオラドゥール=シュル=グラヌで住民642人を虐殺。

1944年 – 第二次世界大戦: ディストモの大虐殺。ナチス・ドイツのSS警察部隊がギリシャのディストモで住民218人を殺害。

1945年 – 米軍が君原村・阿見町・土浦市一帯の海軍航空隊施設などを爆撃、軍民合せて300人以上が死亡。

1967年 – 第三次中東戦争(6月5日 – )が終結。空軍による6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大し、現在まで中東の地政学に影響している。

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716年(霊亀2年5月16日) – 高句麗の遺民1,799名を武蔵国に移し高麗郡を設置[要出典]。

現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。

日高市(全域)

鶴ヶ島市(全域)

川越市(入間川以西)

狭山市(同上)

入間市(大字野田、仏子、新光)

飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)

翌年の2017年(平成29年)9月20日には、明仁天皇、美智子皇后が、私的旅行として高麗神社を参拝した。天皇の参拝は創建以来初めてである。ほかに高麗家住宅・巾着田を視察した[8]。

1221年(承久3年5月19日) – 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。

1786年 – 10日前の地震で中国四川省の大渡河にできた天然ダムが崩壊。10万人が死亡。

延長        1,155 km

水源        青海省

河口・合流先        岷江

流域        中国

1886年 – ニュージーランドのタラウェラ山が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。

タラウェラ山(タラウェラさん、英語: Mt. Tarawera)は、ニュージーランドの北島ロトルア湖南東に位置する火山である。1886年の大噴火が著名。標高は1,111m。

1886年6月10日、大噴火。午前2時頃から火山性地震が多くなり、爆発音が数回鳴った。そして午前2時30分頃に噴煙が噴出し、噴火が確認された。噴煙はその後も噴出し、午前3時30分頃に噴石が火口から飛び散った。これにより、約150名の死者が出た。

1900年 – 義和団の乱鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)

戦争:義和団の乱

年月日:1900年6月20日 – 1901年9月7日

場所:清の旗 清、華北、満洲

結果:八カ国連合軍の勝利

損害:八か国連合軍 7万人強中 死傷757人 義和団 20万人強中 死傷数万人。

1942年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。 500~1300人以上。

1942年5月27日 、ハイドリヒはいつものようにプラハ郊外の宿舎から、執務室がある市内のプラハ城に専用車で出勤した。朝10時半頃、車がホレショヴィチェ通り(Holešovice)にさしかかった時、待ち伏せしていたガプチークとクビシュは爆弾を投げつけた(詳しくはエンスラポイド作戦)。ハイドリヒの乗車は破壊され、重傷を負ったハイドリヒは病院に搬送された。ガプチークとクビシュは現場から逃亡した[2]。

証拠はなかったが、クラドノの保安警察及びSD指揮官ホルスト・ベーメ[3]は、リディツェの住民がこの襲撃事件の犯人を隠匿していたと考えた。襲撃の翌日の5月28日にゲシュタポがリディツェ在住の2家族(男性8人、女性7人)を逮捕した。住民たちはこれで終わったと思いこんでいた[4]が、ベーメとベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察指導者カール・ヘルマン・フランクは、リディツェの完全な破壊をアドルフ・ヒトラーに上申していた。

6月4日、ハイドリヒは感染症で死亡した[5]。ヒトラーは怒り、6月9日に上申されたリディツェの掃討を実行する総統命令を出した[6]。

旧リディツェの跡地(現在は追悼碑となっている)

翌日の6月10日、保安警察部隊が再びリディツェにやってきた。前回とは異なり、約500人[4]いたリディツェの住民全員が一箇所に集められ、15歳以上の男性約200人は納屋に押し込まれたのち、10人ずつ引き出されては銃殺された[4]。なおこの際の処刑の様子は保安警察が映像に収めており、後にニュルンベルク裁判で証拠として使用された[4]。

女性約180人は、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られた[7]。四分の一がチフスと過労により死亡した。

約100人の子供は、ウッチ(Łódź, 現在のポーランドに存在)のグナイゼナウ通り(Gneisenaustraße)の強制収容所に送られ、人種的に分類された。そこでアーリア化に適していると判断された8名の子供のみがドイツに送られ(戦後に発見され、チェコスロヴァキアに送還された)、残りの子供はヘウムノ強制収容所に送られた[8]。

チェコ政府はヘウムノの収容所で死亡したと思われた乳児の一人で1941年生まれのマルタ・フロニコヴァ(Marta Hroníkova)が生存していることを2005年に発表した。この追跡はドイツ人記者ケルスティン・シヒャ(Kerstin Schicha)とドイツ人弁護士フランク・メッツィング(Frank Metzing)により行われた。

暗殺作戦を担当したガブツィクらはプラハ市内の教会に隠れていたが、6月18日に発見され、銃撃戦で死亡した。6月24日には隣接するレジャーキがリディツェと同様に破壊された[9]。ハイドリヒ暗殺事件に関連して殺害された者は約1300人に上った[10] 。

ナチスはヨーロッパ占領地域で行なった住民の虐殺を秘匿することが多かったが、リディツェの事件は大きく宣伝した。

1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツの武装親衛隊がフランスのオラドゥール=シュル=グラヌで住民642人を虐殺

オラドゥール=シュル=グラヌ(フランス語: Oradour-sur-Glane)とは、フランス・ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日、ドイツの占領下であったこの村でナチスの武装親衛隊による大規模な虐殺が行われた。当時村にいた村民のほぼ全員が殺されゴーストタウンと化した。

抑圧

燃やされた乗用車

ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを非常に大きな脅威と捉えていた。オラドゥールにおける虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらずフランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。

ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥールだけではなかった。ソ連(現・ウクライナ)のコーテリシー、チェコのリディツェ村、オランダのプッテン、イタリアのマルツァボットなどでも同様の虐殺が行われている。さらにドイツ兵はフランス各地で無作為またはレジスタンス疑惑のある集団の中から人質をとった。これは、自身に加えて他者の命まで危険にさらすのをためらったレジスタンスが攻撃を控えることを狙ったものであった。

1944年 – 第二次世界大戦: ディストモの大虐殺。ナチス・ドイツのSS警察部隊がギリシャのディストモで住民218人を殺害。

ディストモの大虐殺(英: Distomo massacre; ギリシア語: Η σφαγή του Διστόμου; 独: Massaker von Distomo あるいは Distomo-Massaker)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの武装親衛隊により占領下ギリシャのディストモ村で行われた戦争犯罪である。

大虐殺

1944年6月10日、親衛隊大尉フリッツ・ラウテンバッハ(Fritz Lautenbach) に率いられた第4SS警察装甲擲弾兵師団所属の部隊が、パルチザンから攻撃を受けたことの「報復」と称して、2時間以上にわたり各戸をまわってギリシャ民間人を大量虐殺した。デルフォイ近くの小さなディストモ村の[1]成人男女と子供合計214人が殺害された[2]。複数の生存者によると、ドイツ親衛隊の部隊は「ベビーベッドの中の赤ん坊を銃剣で突き、妊婦を突き刺し、村の神父を斬首した」[1]。

大虐殺の後、ドイツ軍部隊に同行していたある秘密野戦警察隊員は当局に対し、ラウテンバッハの公式報告とは逆に、ドイツ軍が攻撃を受けたのはディストモ村から数マイルの地点で、「ディストモ村の方角から迫撃砲、マシンガン、ライフル」による攻撃を受けたのではないと報告した。審理が行われ、ラウテンバッハは服務規定を犯したことを認めたが、法廷は、ラウデンバッハの動機は怠慢や無知ではなく部下に対する責任感であったとして、ラウデンバッハを支持した[3]。

1945年 – 米軍が君原村・阿見町・土浦市一帯の海軍航空隊施設などを爆撃、軍民合せて300人以上が死亡。

1967年 – 第三次中東戦争(6月5日 – )が終結。空軍による6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大し、現在まで中東の地政学に影響している。

チャットgpt先生の6月10日のエッセイ


6月10日という日──記憶と歴史が交差する日

6月10日。この日付は、一見すれば初夏の陽光が心地よい平穏な一日にも思えるが、歴史を振り返ると、それは数多の悲劇と変動が刻まれた「記憶の交差点」であることが浮かび上がってくる。

たとえば、716年のこの日、高句麗の遺民が日本の武蔵国に移住し、高麗郡が設置された。歴史の荒波に翻弄された人々の痕跡は、日高市や飯能市に今も息づいている。1300年の時を超えても、「移民」や「定住」といった人の営みが、文化や土地の記憶と織り交ざりながら続いていることに気づかされる。

また1221年、承久の乱のさなか、北条政子が鎌倉武士たちに向かって行った演説もこの日のことである。政治の中心が大きく動き、時代の潮流が転換したその瞬間に、女性が歴史を動かす要となった事実は、今の私たちにも力を与える。

しかし、6月10日には光よりも影が色濃く刻まれているようにも思える。

1942年、ナチス・ドイツによるチェコ・リディツェ村の虐殺。たった一つの暗殺事件に対する報復として、村全体が地図から消され、子どもたちに至るまで徹底的に生命を奪われた。さらに、1944年には同じ日に、フランス・オラドゥール=シュル=グラヌで642人、ギリシャ・ディストモで218人が虐殺される。いずれも無辜の民間人が、国家の論理と戦争の狂気の中で命を絶たれた日だ。

こうした出来事を「歴史」として読むだけで済ませてしまうのは、あまりに無感覚だ。これらの事件が実際に起きたということは、6月10日という日に、誰かが愛する人を失い、誰かの世界が崩壊したということなのだ。

同時に、これらの惨劇がこの日付に集中的に起きたという偶然は、単なる歴史の皮肉では済まされない。6月10日は、「人間が人間に何をしうるか」「記憶すべきは何か」という問いを突きつけてくる。そしてそれは、ただ遠くの出来事ではなく、今を生きる私たちが向き合うべき教訓でもある。

1967年の第三次中東戦争の終結もまた、この日である。6日間という短期間の戦争で、中東の地政学が一変した。力によって地図を塗り替える現実が、現在もなお終わっていないということを思い起こさせる。

けれども、私たちは絶望の中にだけ生きているのではない。高麗郡の設置に見られるように、異民族の定住や文化の交錯は、新たな融合と共生の可能性をも示している。明仁天皇・美智子皇后が私的に高麗神社を訪れたのは2017年。その静かな行動には、分断ではなく「記憶と尊重」による未来を志向するメッセージが込められていたように思える。

6月10日──それは、力と暴力、そして希望と再生が織りなす、人類の記録そのものである。
この日を記憶するとは、過去に敬意を払い、未来に責任を持つことなのだ。