kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月1日 193ローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが処刑される、ほか写真wikipedia皇帝ディディウスのコイン

6月1日

20240601土曜日旧暦4月25日仏滅 丙申ひのえさるヘイシン 月齢 24.0

年末まであと213日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%881%E6%97%A5

6月1日の出来事

193年 – ローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが元老院の決定により処刑される。

907年(天祐4年/開平元年4月18日) – 朱全忠が唐の哀帝に禅譲させて皇帝に即位。唐の滅亡。

1569年(永禄12年5月17日) – 今川氏真が掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。戦国大名としての今川氏の滅亡。

1660年 – メアリ・ダイアークエーカー教禁止令によりボストンで絞首刑。北米大陸最後の殉教者。

メアリ・ダイアー(Mary Barrett Dyer, 1611年? – 1660年6月1日)は、イギリス・イングランドの生まれのクエーカー教徒(Quaker)である。再三、クエーカー教禁止令に違反した罪により、マサチューセッツ州ボストン市にて絞首刑に処せられた。北米最後の殉教者であると考えられている。

信仰への目覚め

1637年、メアリー・ダイアーは、宗教家アン・ハッチンソンと出会った。ハッチンソンは、「神は、聖職者を通してだけでなく『直接に各々の個人に語りかける』のだ」と伝道していた。ダイアーはハッチンソンの「信仰至上主義」と言われる教えに帰依した。信仰至上主義者の間では、老若男女が集いながら、マサチューセッツ湾入植地での神政法が聖書に抵触していることを学習していた。

クエーカー教への入信

1652年、メアリー・ダイアーと夫は、ロジャー・ウィリアムス及びジョン・クラークと共にイングランドへ帰還した。ここでメアリーは、数年前からハッチンソンと共に抱いていた考えに大変近い内容を説いていたジョージ・フォックスが創始していたクエーカー教( Religious Society of Friends )に入信したのである。メアリーは次第に、自分の信念に従って、クエーカー教の伝道者となっていった。

最初の死刑宣告

メアリー・ダイアーは、ニューイングランドにてクエーカー教の布教を続けたが、1658年、ニューヘイブン(コネチカット)で捕まった。その釈放後、メアリーは2人のクエーカー教徒(2人は捕まっていた)を訪問するためにマサチューセッツへ向かい、また捕まってしまい、入植地から永久追放の処分を受けることとなった。メアリーは、表だって法令違反しているクエーカー教徒の集団と共に、マサチューセッツへ三度目の訪問を行い、再び捕らえられてしまい、死刑宣告を受けた。ごく短い審理の後、他の2人のクエーカー教徒は絞首刑に処せられてしまった。しかし、メアリーの夫が当地の知事ジョン・ウィンスロップの友人であったことにより、メアリーの死刑は執行直前で恩赦されることとなった。(ただ、これはメアリーの希望に添うものでなかった。なぜならメアリーは懺悔とクエーカー教の否定を拒否したのだから。)

2度目の死刑宣告と死

メアリー・ダイアーは、ロードアイランドへ強制送還され、ロングアイランド(ニューヨーク)へ伝道に回ったが、1660年、良心に呼び起こされた彼女は反クエーカー教法令に反抗するため、マサチューセッツへ舞い戻った。今度こそ、彼女の夫・家族の要望にもかかわらず、メアリーは再度、懺悔を拒否してしまい、5月31日、改めて死刑宣告を受けた。そして、その翌日(6月1日)、マサチューセッツにおいてクエーカー教徒であり続けた罪状によって、ボストンコモンにて絞首刑に処せられた。

遺言

メアリーの最期の言葉は「いいえ、私はあなた方の罪深さを贖うために来たのです。主の無垢な僕(しもべ)に反するような非正当な法を撤回することを求めています。そう、私は決して懺悔などしません。」であった。

クェーカー教徒(フレンズ会)

クエーカー(英: Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である[1]。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。

清教徒革命(イングランド内戦)の中で発生した宗派で、教会の制度化・儀式化に反対し、霊的体験を重んじる[1]。この派の人びとが神秘体験にあって身を震わせる(quake)ことからクエーカー(震える人)と俗称されるようになった[1]。会員自身はこの言葉を使わずに友会徒(Friends)と自称している。クエーカーという名称は、創始者ジョージ・フォックスに対して判事が使った言葉に由来する。

戦後の日本においてGHQのボナー・フェラーズ准将が熱心なクエーカー教徒で日本でのクエーカーの布教活動に精力を注いだ。また、信徒のエリザベス・ヴァイニングは後に天皇となる皇太子・上皇明仁の家庭教師を務めた。

日本では「キリスト友会日本年会」が組織され、東京都(港区、新宿区)・茨城県(水戸市、土浦市、下妻市)・大阪府(高槻市)の3都府県で計6か所の月会が組織されている。また、系列の中学校・高校(普連土学園中学校・高等学校)や社会福祉施設、幼稚園などが設立されている。礼拝形式は「プログラムされていない」ものであり、神学的には極めてリベラルで平和主義的である。聖書研究会や平和に関する学習会なども定期的に行なっている。

日本人信徒としては、上述の石谷行や新渡戸稲造らが著名である。

1794年 – 栄光の6月1日。フランス革命戦争における最初にして最大の海戦。英仏25隻隊26隻にて互角。損害英仏死傷1200対10000。「栄光の」は英国側の名づけ。 

1918年 – 板東俘虜収容所にてベートーヴェンの交響曲第9番が日本初演[4]。

1965年 – 福岡県の三井山野炭鉱でガス爆発。237人が死亡、38人が負傷した[9]。

2004年 – 佐世保小6女児同級生殺害事件。

————————————————————   

193年 – ローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが元老院の決定により処刑される。

マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス(ラテン語: Marcus Didius Severus Julianus、 133年1月30日 – 193年6月1日)は、第19代ローマ皇帝(在位:193年3月28日 – 193年6月1日)で、五皇帝の年における二番目の帝位請求者。

自由民階層の出身であった先帝ペルティナクスと違い高貴な血筋であったが、治世は同じく短命に終わった。

帝位競売による即位

最終的に全近衛兵に2万セルティウスの支払いを約束したスルピキアヌスに、ユリアヌスは自分は2万5000セルティウスを支払うと宣言した[20]。暫しの協議の後に兵士は門を開け、ユリアヌスに「皇帝陛下」と呼びかけて宮殿へと招き入れた[21]。元老院はユリアヌス側に付いた近衛隊に恫喝されて意見する事もなく皇帝即位を了承し[22]、妻にも皇妃の称号を与えた[23]。

統治と暗殺

当然ながら帝位競売を醜聞と見なしていた民衆は、金で帝位を買った新皇帝を冷ややかな態度で迎えた[24]。ユリアヌス帝が人前に現れると常に群集の一部は「帝位の簒奪者」と陰口を叩いた[25]。ある時には民衆から投石され、元老院議事堂へ向かうのを妨害された事もあったという[26]。こうした民衆からの不支持は野心を抱く各地の将軍達の知る所となり、コンモドゥス帝時代の重臣であったシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスの三者が反旗を翻した[27]。

193年6月1日に近衛兵によって暗殺された[39]。ローマに入城したセウェルスは寝返ってきた近衛兵隊を解散する宣言を出した[40]。遺骸は娘に渡され、父や祖父の眠る土地に葬られたと伝えられている[41]。

三人の帝位請求者に対して、ユリアヌス帝は地理的に近いセウェルスを最も警戒して元老院に命じて「国家の敵」に指定した[28]。また戦いが避けられぬ場合に備え、長く戦争そのものからは遠ざかっていた近衛隊にカンプス・マルティウスで徹底した再訓練を行わせた[29]。しかしトゥッリウス・クリスピヌス(英語版)将軍率いる近衛軍団は、本土に迫ったセウェルス軍に敗北を喫している[30]。戦争から遠ざかった近衛隊は堕落しきっており、今やローマ最精鋭の兵団ではなくなっていた[31]。

歴史家カッシウス・ディオによれば、ユリアヌス帝の最後の言葉は「私が何をした?…私が誰を殺したというのだ」であったという[2]。

907年(天祐4年/開平元年4月18日) – 朱全忠が唐の哀帝に禅譲させて皇帝に即位。唐の滅亡。

1569年(永禄12年5月17日) – 今川氏真が掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。戦国大名としての今川氏の滅亡。

1660年 – メアリ・ダイアーがクエーカー教禁止令によりボストンで絞首刑。北米大陸最後の殉教者。

1794年 – 栄光の6月1日。フランス革命戦争における最初にして最大の海戦。英仏25隻隊26隻にて互角。損害英仏死傷1200対10000。「栄光の」は英国側の名づけ。 

1918年 – 板東俘虜収容所にてベートーヴェンの交響曲第9番が日本初演[4]。

1965年 – 福岡県の三井山野炭鉱でガス爆発。237人が死亡、38人が負傷した[9]。

2004年 – 佐世保小6女児同級生殺害事件

概要

出典:[書籍 1][書籍 2]

2004年(平成16年)6月1日正午過ぎ、長崎県佐世保市立大久保小学校において小学6年生の女児(当時12歳)が同級生の女児(当時11歳)にカッターナイフで切り付けられて死亡した。

事件を発見した担任は止血を試み、教頭は119番通報をした。駆けつけた救急隊員が教師に対し現場状況について尋ねたところ、教師が現場付近にいた女児を連れてきた。隊員が被害者がなぜ怪我をしているのか尋ねると、「私がカッターで切りました」と答えたため、警察は女児を佐世保警察署に移動させ事情聴取を行った。

6月8日、長崎家庭裁判所佐世保支部が少年審判を開くことを決定。14日に精神鑑定留置を認め、8月14日までの61日間鑑定留置された。

9月15日、長崎家庭裁判所佐世保支部で最後の少年審判が開かれ、加害者を児童自立支援施設送致とし、2004年9月15日から向こう2年間の強制的措置を取れる保護処分を決定した。

類似事件との混同

当事件の10年後、同じく佐世保市で佐世保女子高生殺害事件が起こる。お互いに社会の耳目を集めた事件であるため、似た事件としてウェブサイト上で混同されることがある。

チャットgpt先生の6月1日のエッセイ

6月1日は、歴史の中でさまざまな出来事が織りなされた日です。この日を振り返ると、過去の人々の悲劇や勇気、変革の瞬間が浮かび上がってきます。今日はその中からいくつかの出来事を取り上げ、6月1日が持つ特別な意味を考えてみましょう。

まず、193年の6月1日、ローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが処刑されました。彼は帝位を競売で手に入れたことで有名ですが、その統治はわずか数ヶ月しか続かず、最終的には近衛兵により暗殺されました。ディディウス・ユリアヌスの短い治世は、権力の儚さと人間の野心の危うさを象徴しています。

一方、907年の6月1日には、中国の歴史に大きな転機が訪れました。唐の哀帝が朱全忠に皇位を禅譲し、唐王朝が終焉を迎えたのです。唐の滅亡は中国の分裂時代である五代十国時代の始まりを告げ、多くの戦乱と変革が続く時代への扉を開けました。この出来事は、権力の移り変わりと歴史の流れの不確実性を示しています。

また、1660年のこの日、メアリ・ダイアーという女性がアメリカのボストンで絞首刑に処せられました。彼女はクエーカー教徒として信仰の自由を訴え、そのために命を捧げた最後の殉教者とされています。ダイアーの勇気と信念は、宗教的自由と人権の尊重がいかに重要であるかを今なお教えてくれます。

そして、1794年の「栄光の6月1日」、フランス革命戦争における英仏間の海戦が行われました。この戦いは戦術的には引き分けでしたが、戦略的にはイギリスに有利な結果となり、「栄光の」と称されました。海戦の結果は、当時のヨーロッパ情勢に大きな影響を与え、戦争の行方を左右しました。

もっと近代に目を向けると、1965年のこの日には、福岡県の三井山野炭鉱で大規模なガス爆発が発生し、237人が亡くなる大惨事が起こりました。この悲劇は、労働環境の安全性向上と労働者の権利を守るための取り組みの重要性を再認識させるものでした。

2004年の6月1日には、長崎県佐世保市で小学6年生の女児が同級生によって殺害されるという衝撃的な事件が発生しました。この事件は、子どもの心のケアや教育現場での安全対策について深く考えさせられる出来事でした。

これらの出来事は、それぞれの時代と場所で異なる意味を持っていますが、共通しているのは、人々の生き方や社会の在り方に深い影響を与えたということです。6月1日は、過去の出来事を振り返り、私たちが今どのように生き、何を大切にすべきかを考える一つの契機となります。歴史の教訓を胸に、より良い未来を築いていくための努力を続けていきたいものです。