kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月9日  1932坂田心中事件発覚、ほかwikipedia映画天国に結ぶ恋

5月9日
20250509旧暦4月12日先負(戊寅つちのえとらボイン)月齢 11.3
己巳つちのとみ年辛巳かのとみ月戊寅つちのえとら日  年末まではあと236日
吉方位 陽遁日 南東 大吉 北 吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%889%E6%97%A5
5月9日の出来事
1926年 – 東京・銀座の松屋デパートで日本初の高層ビルからの飛び降り自殺[2]。
1932年 – 坂田山心中事件が発覚。慶應義塾大学経済学部の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった[1]。女性は富岡村 (静岡県駿東郡)の素封家湯山家の娘(22歳)が心中。後に墓から「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。
1939年 – 東京府板橋区志村にあった大日本セルロイド東京工場で火災。さらに隣接する日本火工の工場に延焼して爆発。死者32人、負傷者245人[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・プラハの戦い: 赤軍がプラハを占領。第二次世界大戦末期にヨーロッパで行われた、ドイツ軍に対する赤軍の最後の攻勢である。年月日:1945年5月5日 – 5月11日  場所:チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア、プラハ 結果:赤軍の勝利 損害 ドイツ軍90万人中 不明 赤軍200万人中 死者不明者12000人。
1946年 – 長野県市田村一家7人殺害事件: 長野県下伊那郡市田村大島山(現:高森町大島山)で一家7人が薪割り斧で殴り殺される事件が発生する。同事件は未解決のまま、事件発生から15年後の1961年5月9日に公訴時効が成立した[4]。

1954年 – 翌10日にかけて日本海西部から北海道東方へ低気圧が急発達しながら進み、東北・北海道で漁船の沈没等348隻、死者・行方不明361名の日本海難史上最大の惨事となる。この嵐は、初めてメイストームと名付けられた[7]。

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1926年 – 東京・銀座の松屋デパートで日本初の高層ビルからの飛び降り自殺[2]。
1932年 – 坂田山心中事件が発覚。慶應義塾大学経済学部の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった[1]。女性は富岡村 (静岡県駿東郡)の素封家湯山家の娘(22歳)が心中。後に墓から「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。

事件の概要

男女の心中

1932年5月9日午前10時、地元の青年が岩崎家所有の松林の中で若い男女の心中死体を発見した。男性は慶應義塾大学の制服姿で、女性は錦紗の和服姿であった。前日の5月8日夜に現場に到着、昇汞水を飲んで服毒自殺を図ったものと思われた。

高貴な身なりであったため、神奈川県警察部は直ちに捜査を開始し、まもなく身元が判明した。男性は東京府白金三光町出身の慶應義塾大学理財科の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった[1]。女性は富岡村 (静岡県駿東郡)の素封家湯山家の娘(22歳)で、2年前まで頌栄高等女学校(現在の頌栄女子学院中学校・高等学校)に通学していた。

二人はキリスト教の三光教会の祈祷会で知り合い、交際を始めたが、女性が健康を理由に女学校を退学して実家に戻ったため、遠距離恋愛をしていた[2]。男性の両親は交際に賛成していたが、女性の両親は反対し、別の縁談を進めようとしていた。そのため二人は家から出て、「永遠の愛」を誓って心中を決行したものと思われた。

二人の死体は、遺族が引き取りに来るまで、町内の寺に仮埋葬されることになった。

この「天国に結ぶ恋」は坂田山心中を象徴する名文句となり、事件からまもなくロマンチックに美化された同名の映画や歌が製作公開され人気を博した。より事実に近い映画も作られたが、そちらは人気が出なかった[3]。以後坂田山で心中する男女が後を絶たず、同じ年だけで20組が心中、1935年(昭和10年)までの自殺者(未遂も含む)は約200人にものぼった。中には、映画を見ながら昇汞水を飲んで心中するカップルまで現れたため、映画の上映を禁止する県もあった[3]。

そのほか、事件の翌々月には勝海舟の養嗣子で徳川慶喜の十男である伯爵勝精が愛妾と心中するなど、この時期は名士の心中事件も続出した。この坂田山心中事件と映画のヒットをきっかけとして、マスメディアに「心中」「情死」「天国」などの言葉が溢れ、翌年の三原山女学生心中事件など、多くの自殺騒ぎを誘引した[3]。

心中女性の死体消失
翌日5月10日朝、寺守りの妻が線香をあげようとしたところ、女性を葬った土饅頭が低くなっているのを発見、さらに亡くなった女性の死体が消えていることが判明した。辺りには女性が身に付けていた衣服が散乱していた。これにより、単なる心中事件から一転して「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。

警察は変質者による犯行と断定し、大磯町の消防組も協力して一斉捜索が行われた。翌日5月11日朝、墓地から300m離れた海岸の船小屋の砂地から発見された。

警察は女性の死体の検死を行い、それによれば東京日日と朝日の各紙が「死体は暴行の形跡はなく、処女のままだった」と報じた。もっとも関わった東京日日の記者は、後の回顧で、発表は武士の情けのようなもので実際の処はどうか分からないと語ったともされている[3]。死体はあらためて荼毘にふされた[3]。

死体消失に関しては、遺体が見つかった土地の所有者である県議(政友会系)に恨みを持つ、前年の政変のあおりで辞めさせられた元大磯警察署長(三政党系)が依頼したものではないかとの関与が取りざたされた[2]。

墓堀人7人が疑われ全員留置された。土葬当日は所用で不在で埋葬には携わりもしていなかったが、やはり留置されていた65歳の人夫頭が、19日に自分の犯行だとして名乗り出た。作家の小沢信男は、当時のこととて全員が拷問に会う中、やむなく妻も既に亡くしているこの人物が他の者の将来のことも考えて罪状を被ったのではないかとみている。警察からの説明は、遺体が美人だったと聞き、不在だった自分だけが見損ねたので見てみたいと掘り返したというものである。[3]

1939年 – 東京府板橋区志村にあった大日本セルロイド東京工場で火災。さらに隣接する日本火工の工場に延焼して爆発。死者32人、負傷者245人[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・プラハの戦い: 赤軍がプラハを占領。第二次世界大戦末期にヨーロッパで行われた、ドイツ軍に対する赤軍の最後の攻勢である。年月日:1945年5月5日 – 5月11日  場所:チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア、プラハ 結果:赤軍の勝利 損害 ドイツ軍90万人中 不明 赤軍200万人中 死者不明者12000人。

背景
1945年4月30日〜5月1日の間、ベーメン・メーレン保護領担当相カール・ヘルマン・フランクは「暴動を起こした者は血の海のなかでおぼれ死ぬこととなる」とラジオで発表した。当時、プラハは不安定な状況である上に赤軍が迫ってきており、プラハ市民が解放されるのを心待ちにしているのをフランクは理解していたのである。

1946年 – 長野県市田村一家7人殺害事件: 長野県下伊那郡市田村大島山(現:高森町大島山)で一家7人が薪割り斧で殴り殺される事件が発生する。同事件は未解決のまま、事件発生から15年後の1961年5月9日に公訴時効が成立した[4]。

長野県市田村一家7人殺害事件(ながのけんいちだむらいっかしちにんさつがいじけん)は、1946年(昭和21年)5月9日に日本の長野県下伊那郡市田村大島山(現:高森町大島山)で発生した未解決の大量殺人事件である[12]。就寝中の一家7人が薪割り用の斧で殴り殺され、玄米4俵と精米15 kgが盗まれた[12]。長野県警察が発行する資料では市田村一家七人殴殺強盗事件[13][14][15]と呼称される。また地元の新聞では市田の一家七人殺し[16]、市田の七人殺し[17][18][19][20][21]とも呼称される。

この事件は現在の高森町域で戦後初めて発生した殺人事件であり[22]、終戦直後の混乱期に飯田下伊那の住民を震撼させた事件でもある[23]。事件当時は戦後、長野県内で発生した最も残虐な殺人事件と言われ[16]、長野県警(事件発生当時は長野県警察部)[注 1]は強盗殺人事件として懸命に捜査を行ったが[12]、初動捜査の不備に加え、終戦直後の混乱期であったことから捜査体制も整っておらず[23]、物的証拠が乏しかったことなどから捜査は難航、未解決のまま事件発生から15年後の1961年(昭和36年)5月9日に公訴時効が成立した[12][2]。長野県内で公訴時効が成立した事件は昭和に入って3件目で[21]、殺人事件に限れば戦後初めて県内で公訴時効が成立した事件であるとされる[12]。一家の主であった被害者の女性A1(当時38歳)が未亡人であったことや[24]、現場の室内が荒らされていたことから、動機は物取りと痴情の両説があったが、未解明のままである[23]。

1954年 – 翌10日にかけて日本海西部から北海道東方へ低気圧が急発達しながら進み、東北・北海道で漁船の沈没等348隻、死者・行方不明361名の日本海難史上最大の惨事となる。この嵐は、初めてメイストームと名付けられた[7]。

チャットgpt先生の5月9日のエッセイ
5月9日という日――命、記憶、そして風の声

5月9日。この日は、ただの春の一日ではない。月齢11.3の月が、夜空の深みに静かに浮かぶ頃、歴史のなかでさまざまな命が揺れ、数多の物語が芽吹いていた――あるものは哀しみの中に、あるものは炎の中に、またあるものは海の怒りに。

最初に私の心に引っかかったのは、1932年の坂田山心中事件だ。若い二人が、世のしがらみに背を向け、「永遠の愛」と引き換えに命を断つ。その行動は愚かか、崇高か。もはやそれを論じるのは無粋かもしれない。ただ、彼らの遺した詩情――「天国に結ぶ恋」という言葉に込められた切なさが、なぜか現代を生きる私たちの胸にも刺さってくる。さらにその後、女性の遺体が掘り起こされ、世は一転して猟奇の色に染まった。愛と死、美と狂気が交錯するこの事件は、昭和という時代が抱えていた脆さと渇望の象徴だったのかもしれない。

同じ日、別の年――1946年の市田村一家7人殺害事件。こちらは理不尽なまでの暴力が家族という最小単位を壊した悲劇であり、戦後という混沌が生み出した闇だった。終戦からたった数ヶ月。希望の種すら育たぬ土に、絶望だけが深く根を張っていた。解決されぬまま時効を迎えたこの事件は、いわば「忘れ去られることで終わった悲劇」だ。記憶が風化するということは、悲しみが風に流されることではなく、むしろ誰かの孤独が永久に閉じ込められることなのだと感じさせる。

そして1954年のメイストーム。361名が海に呑まれた、海難史上最大の惨事。このとき海は、ただの自然災害ではなく、「命を選ばぬ存在」としての本性を剥き出しにした。漁に出た人々の生活、家族、夢、それらすべてが一夜で海に吸い込まれていく光景を想像すると、私たちが自然の中でいかに儚い存在であるかを痛感せざるを得ない。

それでも、今日の空は澄んでいるかもしれない。カレンダーには「陽遁日」「南東 大吉」とある。吉方を向いて歩けば、何かいいことがあるのかもしれない。でも、だからこそ思う。この「運勢の良い日」にこそ、私たちは過去の影を見つめるべきだと。風に消えた声に耳を傾け、再び語られ、記憶されることを願って。

5月9日――それは、愛と死、暴力と自然、そして忘却との対話の日。
静かな月が見下ろすその夜に、過去がそっと語りかけてくるのだ。

「私たちを忘れないで」と。