5月31日
20250531土曜日旧暦5月5日先負(庚子かのえねコウシ)月齢 3.9
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月庚子かのえね日 年末まであと214日
吉方位 陽遁日 庚子かのえね日
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5月31日の出来事
1223年 – チンギス・カンの西征: カルカ河畔の戦い。モンゴル帝国軍がキプチャク・ルーシ連合軍に勝利。ルーシ軍 35000人中戦死25000人。
1862年 – 南北戦争: セブンパインズの戦い。
時 1862年5月31日-6月1日
場所 バージニア州ヘンリコ郡
結果 決着付かず
損害 4万対4万中 双方5千人以上の戦死傷。つまり合計10000人強の戦死者。
1921年 – タルサ人種虐殺が勃発。翌日までに沈静化。死亡者 推定人数75から100人または150から300人 (死亡報告書などが存在したのは39人)(2001年調査委員会)
1945年 – 第二次世界大戦: 台北大空襲。日本統治下の台湾・台北市を米軍機が無差別爆撃。死者3000人以上。
1970年 – ペルー北部でアンカシュ地震が発生。死者47,000人。
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1223年 – チンギス・カンの西征: カルカ河畔の戦い。モンゴル帝国軍がキプチャク・ルーシ連合軍に勝利。ルーシ軍 35000人中戦死25000人。
カルカ河畔の戦い(カルカかはんのたたかい)は、1223年にジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われた戦い。連合軍は数で上回っていたにもかかわらずモンゴル軍に惨敗した。
ルス諸国軍 兵力35000 死者25000、モンゴル軍 最大兵力20000 死者 少数
1862年 – 南北戦争: セブンパインズの戦い。
時 1862年5月31日-6月1日
場所 バージニア州ヘンリコ郡
結果 決着付かず
損害 4万対4万中 双方5千人以上の戦死傷。つまり合計10000人強の戦死者。
セブンパインズの戦い(セブンパインズのたたかい、英:Battle of Seven Pines、またはフェアオークスの戦い、英:Battle of Fair Oaks、またはフェアオークス駅の戦い、英:Fair Oaks Station)は、南北戦争初期の1862年5月31日と6月1日、バージニア州ヘンリコ郡で、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。北軍ジョージ・マクレラン少将がバージニア半島を登って攻勢を掛けた頂点をなすものであり、そのポトマック軍はリッチモンド郊外まで達した。
5月31日、南軍のジョセフ・ジョンストン将軍はチカホミニー川の南で孤立しているように見えた北軍2個軍団を圧倒しようとした。南軍の攻撃は協調が取れていなかったものの、北軍第4軍団を後退させ、大きな損失を出させた。両軍は補強を行い次々と部隊を戦闘に投入した。北軍は第3軍団とエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団下のジョン・セジウィック少将師団(雨で膨れ上がった川をグレープバイン橋で渉った)に支援され、その陣地を安定させることができた。ジョンストン将軍はこの戦闘中に重傷を負い、南軍の指揮は一時的にグスタヴス・ウッドソン・スミスが執った。6月1日、南軍はさらに援軍を得て、北軍に対する攻撃を再開したが、あまり進展は無かった。両軍ともに勝利を宣言した[2]。
この戦闘は戦術的に引き分けだったが、その時までの東部戦線では最大の戦い(西部戦線のシャイローの戦いが損失の多さで最大であり、それに次ぐものだった)であり、北軍の攻勢が終わり、これに続く6月後半には七日間の戦いと北軍の撤退に繋がった。
1921年 – タルサ人種虐殺が勃発。翌日までに沈静化。死亡者 推定人数75から100人または150から300人 (死亡報告書などが存在したのは39人)(2001年調査委員会)
タルサ人種虐殺(タルサじんしゅぎゃくさつ、英: Tulsa race massacre)は、1921年にアメリカ合衆国オクラホマ州タルサ市グリーンウッド地区で、白人暴徒が黒人住民を殺害し、黒人経営の商業施設を攻撃、破壊した虐殺事件である[1][9][10][11][12][13][14]。特定の人種に対する暴力として、アメリカ合衆国史上最悪の事件と称される[15]が、事件から80年近く歴史から忘れられていた。タルサ人種暴動、グリーンウッドの虐殺、ブラック・ウォール街の虐殺とも呼ばれる。
1945年 – 第二次世界大戦: 台北大空襲。日本統治下の台湾・台北市を米軍機が無差別爆撃。死者3000人以上。
1970年 – ペルー北部でアンカシュ地震が発生。死者47,000人。
アンカシュ地震(アンカシュじしん)は、1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。
チャットgpt先生の5月31日のエッセイ
5月31日という日:記憶と教訓の交差点
5月31日。この日付に特別な意味を感じる人はそう多くないかもしれない。しかし、歴史を辿ると、世界各地で「人類の衝突と痛み」が刻まれてきた、まるで静かな碑のような日である。
まず1223年、ユーラシアの広野で起きた「カルカ河畔の戦い」。チンギス・カンの命を受けたモンゴル軍が、数に勝るキプチャク・ルーシ連合軍を破った。兵力35000のルーシ軍は、そのうち25000人が命を落としたと伝えられる。勝ったモンゴル軍でさえ、わずか20000の兵力だった。戦術の違い、機動性、指揮系統の差。数の優位が必ずしも勝利を意味しないという、後世にも通じる冷酷な事実がここにある。
時代は飛び、1862年のアメリカ南北戦争。「セブンパインズの戦い」では、両軍合わせておよそ10,000人の戦死傷者を出しながらも、決着はつかなかった。この戦いの背景には、戦術だけでなく、指導者の病や負傷、川による地形の分断、補給線の脆弱さといった、戦場外の要素も影を落としていた。ここにも「勝敗」とは別に、「失われる命の重さ」が色濃く残る。
そして、戦争とは違う形で人間の暗部が現れたのが1921年の「タルサ人種虐殺」である。白人暴徒によって黒人コミュニティが破壊され、少なくとも数十名、あるいは300名近い命が奪われた。ブラック・ウォール街と呼ばれた経済的成功の象徴が、根拠なき偏見と暴力により一夜にして焼き尽くされた。歴史に埋もれてきたこの事件は、ようやく21世紀に入って「虐殺」として公的に認識されるようになった。正義が遅れて訪れることがあるのも、また歴史の皮肉だ。
1945年には太平洋戦争末期、台湾・台北に米軍機が無差別爆撃を行い、3000人以上が死亡した。戦争という巨大な暴力の中で、市民が最も無防備で、そして最も多くの犠牲を払うという事実は、いつの時代も変わらない。
さらに、1970年には自然が牙をむいた。ペルー北部を襲ったアンカシュ地震。死者は47,000人。戦争ではない、暴力でもない。ただ地球が動いただけで、この数字に達する命が奪われた。人間の無力さを突きつけられる瞬間である。
5月31日という一日は、戦い、暴力、災害――人間が自ら引き起こしたものも、自然の猛威も含めて、多くの「死」と「記憶」を抱えている。そして、これらは「ただの過去」ではない。現代に生きる私たちが、誤った道を繰り返さぬための教訓の連続でもある。
日々は流れ、暦は巡る。2025年の5月31日は、旧暦では端午の節句にあたり、月齢は3.9、静かに夜空に浮かぶ月があるだけだろう。だがその静けさの下には、数多の歴史の叫びが横たわっている。
今日という日を、ただの「平凡な日」として流すこともできる。しかし、過去に刻まれた無数の命の記憶に思いを馳せることができれば、それは未来への静かな祈りとなるだろう。
5月31日――それは、忘れてはならない日である。