5月27日
20250527火曜日旧暦5月1日大安(丙申ひのえさるヘイシン)月齢 29.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月丙申ひのえさる日 年末まではあと218日
吉方位 陽遁日 丙申ひのえさる日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8827%E6%97%A5
5月27日の出来事
1177年(安元3年/治承元年4月28日) – 安元の大火。(足軽焼亡)
1905年 – 日露戦争: 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦(28日にかけて)。日本沈没3隻 戦死117名、戦傷583名、ロシア沈没21隻拿捕抑留12隻 戦死4,830名、捕虜6,106名
1941年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没。乗員2206人中 生存115人。
1980年 – 光州事件: 大韓民国の陸軍部隊が戦車で光州市中心部に進出し、市内全域を制圧。市民に多数の死傷者が出る。死者 154人ないし198人(軍発表数字)[1]
負傷者 3028人
1982年 – 藤沢市母娘ら5人殺害事件(警察庁広域重要指定112号事件):神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の住宅で母娘3人が刺殺される事件が発生した。
1997年 – 神戸連続児童殺傷事件: 神戸市須磨区で小学6年男児の切断された頭部が「酒鬼薔薇聖斗」による犯行声明文とともに見つかる。
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1177年(安元3年/治承元年4月28日) – 安元の大火。(足軽焼亡)
1905年 – 日露戦争: 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦(28日にかけて)。日本沈没3隻 戦死117名、戦傷583名、ロシア沈没21隻拿捕抑留12隻 戦死4,830名、捕虜6,106名
13時39分、「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を艦首方向真正面に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。直後の13時40分、直進を改め、右に大きく変針し北西微北へ向かった。これは、基本戦策にしたがい、必要な北側横距離を確保し有利な位置取りを行うためである。
13時55分、「三笠」は左に変針して針路を西に取り、改めてほぼ反航航路に入った。その時、両艦隊の距離は約7海里(≒13,000m)。東郷は「三笠」へのZ旗の掲揚を指示、すなわち全麾下に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」と号令を掛けた[注釈 17]。
結果
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失った。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであった。
病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。
1941年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没。乗員2206人中 生存115人。
1980年 – 光州事件: 大韓民国の陸軍部隊が戦車で光州市中心部に進出し、市内全域を制圧。市民に多数の死傷者が出る。死者 154人ないし198人(軍発表数字)[1]
負傷者 3028人
光州事件[2][注釈 1](こうしゅうじけん、クァンジュじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現:光州広域市)を中心に起きた市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起である[1][2]。
第二次大戦後の1948年建国以降発生した「済州島四・三事件」や「保導連盟事件」と同様に、韓国軍が自国民を大量虐殺した事件の一つであり、軍による一斉射撃などで一般市民に多数の死者を出した[1][2]。この光州事件では市民側の目的である民主化達成と軍事政権を倒すことはできなかったが、7年後、1987年に軍事政権側が「6・29民主化宣言」を出し、言論の自由と大統領の直接選挙を認めた[1]。
1982年 – 藤沢市母娘ら5人殺害事件(警察庁広域重要指定112号事件):神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の住宅で母娘3人が刺殺される事件が発生した。
概要
藤沢市母娘ら5人殺害事件の位置(日本の本州中央部内)1. X事件1. X事件2. 母娘3人殺害事件2. 母娘3人殺害事件3. Y事件3. Y事件
各殺人事件現場
本事件は以下4つの事件からなる[7]。
1981年10月6日未明、神奈川県横浜市戸塚区中田町[注 2]で男性X(元少年院仲間 / 4. の窃盗共犯者)を殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「X事件」もしくは「横浜事件」
1982年5月27日夜、神奈川県藤沢市内で交際に応じなかった女子高生Aら母娘3人(Aと妹B・母親C)を殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「藤沢事件」もしくは「母娘3人殺害事件」
2.の事件後となる1982年6月5日夜、少年Y(藤沢事件の共犯者 / 元少年院仲間)を兵庫県尼崎市内で殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「Y事件」もしくは「尼崎事件」
単独、もしくはXと共謀して10回にわたり窃盗を繰り返し、被害総額321万円あまりを出した事件(窃盗罪)[7]
母娘3人を含め5人が殺害された一連の事件は当時、第二次世界大戦後に神奈川県内を舞台とした殺人事件としては死者数が最多で[注 3][16]、いずれも加害者Fの「裏切り者は消す」という論理が動機だった[17]。
1997年 – 神戸連続児童殺傷事件: 神戸市須磨区で小学6年男児の切断された頭部が「酒鬼薔薇聖斗」による犯行声明文とともに見つかる。
神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)は、1997年(平成9年)2月から5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件(少年犯罪)である。
中学3年生の男子生徒が相次いで小学生5人を殺傷し2人が死亡、2人が重軽傷を負った[5]。男子生徒は酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗り犯行声明を出したことから、酒鬼薔薇事件、酒鬼薔薇聖斗事件とも呼ばれる。
2022年(令和4年)10月、当事件記録について、神戸家庭裁判所は保存期間満了後、2011年にすべての記録を廃棄されたことが報道機関の取材により発覚した。
チャットgpt先生の5月27日のエッセイ
5月27日という日 ― 歴史の光と影に寄せて
5月27日。この日付には、世界と日本の歴史に刻まれたさまざまな出来事が重なっている。その一つひとつに、時代の息遣いや、人間の営みの重さが垣間見える。
最も象徴的な出来事の一つは、1905年の日露戦争における日本海海戦だ。13時39分、戦艦「三笠」からバルチック艦隊が視認され、直後に東郷平八郎が掲げたZ旗――「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ」――この号令の下、日本海軍は圧倒的勝利を収める。21隻が沈み、6000人を超えるロシア兵が捕虜となったこの戦いは、近代海戦史上稀に見る決定的な勝利であり、日露戦争の帰趨を決定づけた。だが、栄光の陰には117名の戦死者と、その名もなき犠牲がある。
その一方、1980年に韓国で起きた光州事件は、まさに国家の暴力と市民の叫びがぶつかり合った悲劇である。民主化を求めて立ち上がった市民に対し、軍は戦車をもって応え、多くの死傷者を出した。最終的に軍事政権は倒れず、蜂起は鎮圧されたものの、その精神は1987年の「6・29民主化宣言」に引き継がれた。5月27日という日が、自由と人権のために戦った人々の記憶とともに刻まれている。
だが、この日には凄惨な犯罪もまた刻まれている。1982年の藤沢市母娘ら5人殺害事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件――いずれも加害者は未成年、動機には一貫した秩序も理性もない。人が人を殺す理由がどれほど理不尽で残酷であるか、私たちは何度もこの日に思い知らされる。特に神戸の事件では、切断された男児の頭部と犯行声明が校門に置かれるという悪夢のような現実が、社会に深い衝撃を与えた。
しかし、こうした歴史の影があればこそ、光は際立つ。1905年の東郷平八郎の振る舞いは、戦いの勝者であることを誇るのではなく、敗者の尊厳をも尊重する武人としての品格を示した。白いシャツ姿で見舞いに現れ、敗れたロジェストヴェンスキーに寄り添い言葉を尽くしたその姿勢は、まさに人としての勝利だった。
このように5月27日は、勝利と敗北、希望と絶望、善意と悪意が交差する、複雑な人間の営みを凝縮した日である。カレンダーの一日ではあるが、その中には数えきれぬ声と命が眠っている。そして私たちは、こうした過去を単なる記憶としてではなく、未来への教訓として語り継いでいくべきだ。
歴史は決して静かではない。血と涙と叫びの積み重ねが、今日という日を形づくっている。だからこそ、5月27日は「ただの一日」ではない。それは、私たちが歴史とどう向き合うかを問いかけてくる、もう一つの「今日」なのだ。