kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月2日  1945ベルリン陥落、ほか写真wikipeddia議事堂の赤軍兵士

5月2日
旧暦4月5日金曜日友引(辛未かのとひつじシンビ)月齢 4.3
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月辛未かのとひつじ日  年末まではあと243日
吉方位 陽遁日 辛未かのとひつじ 南東 大吉
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5月2日の出来事
1536年 – イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。
1808年 – スペイン独立戦争:スペインのマドリードで市民がフランスの占領に対し暴動。フランス軍が1,500人の市民を射殺。
1945年 – 第二次世界大戦・ベルリンの戦い: 赤軍が総統官邸を占領。

戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1945年4月16日 – 5月8日[1]
場所:ナチス・ドイツの旗 ドイツ ベルリン
結果:赤軍の勝利

損害:ドイツ軍 100万人 軍死亡者15万人強 民間市民死亡者15万人強 計30万人死亡

ソ連軍 200万人中 8万人強死亡。

1953年 – 英国海外航空783便墜落事故起こる。死亡43人(全員)。
2008年 – サイクロン・ナルギスがミャンマーに上陸。死者・行方不明者約14万人の甚大な被害をもたらす。

2011年 – ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害: パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡。

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1536年 – イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。
アン・ブーリン(英語: Anne Boleyn,1501年頃 – 1536年5月19日)は、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。父の代で名字の綴りを Bullen から Boleyn に変更したが、アン自身も Nan Bullen と呼ばれることがあった。 Nan はアンという名前の当時の愛称であり、日本語ではアン・ブリンと表記されることもある[1]。
父は駐仏大使、のちウィルトシャー及びオーモンド伯爵となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワード。ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアは又従妹、5番目の王妃キャサリン・ハワードは従妹に当たる[注 1]。
王妃の侍女から国王の愛人へ
国王との出会い(19世紀画)
アンは幼少期にメヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えになった。他に詩人のサー・トマス・ワイアットや後のノーサンバランド伯ヘンリー(ハル)・パーシー(英語版)とのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外にこれといった特徴がなかったと記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)。
やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。
ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(後のメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。
しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった[注 2]。
国王の離婚問題
王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)
カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は、教皇の認可を得てこの方法を利用している)。
ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったことが結婚無効の理由になりえたが、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得ていたため、合法的な結婚と見なされていた。また、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対しており、教皇庁は許可を出すことが難しかった。キャサリンは国民の人気が高かったために、国内からも反対の声が大きかった。
ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意した。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、ヘンリーは1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。
これに反対したトマス・モアは処刑された。また、修道院解散によってカトリックの修道院の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。
約1000日の王妃として
1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。6月1日、聖霊降臨祭の日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言される。
1533年9月、アンはヘンリー8世の第2王女となるエリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたメアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要した。アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。
1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだ(黄色はイギリスでは喜びと祝いの意味を持つ)と神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイ(英語版)は本国に報告している。この行動を見た人々は不快に思い、2人がキャサリンを毒殺したと噂し合った。一方で黄色はスペインを表す色であり、2人は個人としてはキャサリンの訃報を悲しんでいたという記述も当時の文献にある。その後、アンは男児を流産した。奇しくもキャサリンの葬儀の日だった。男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れたことを見てとり、アンの敵たちは力を増した。
処刑
ロンドン塔のアン(19世紀画)
1536年5月1日、アンは結婚から2年後、国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟ジョージ・ブーリンだったとされる。
同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。また、アンが断首され首だけになった後、明らかに何かを話そうとしていたという逸話がある[4][出典無効]。
当時のイングランドは斧を使って斬首していたのだが、剣での斬首を懇願するほど、アンは斧での執行を嫌がったという。
1808年 – スペイン独立戦争:スペインのマドリードで市民がフランスの占領に対し暴動。フランス軍が1,500人の市民を射殺。
1945年 – 第二次世界大戦・ベルリンの戦い: 赤軍が総統官邸を占領。

戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1945年4月16日 – 5月8日[1]
場所:ナチス・ドイツの旗 ドイツ ベルリン
結果:赤軍の勝利

損害:ドイツ軍 100万人 軍死亡者15万人強 民間市民死亡者15万人強 計30万人死亡

ソ連軍 200万人中 8万人強死亡。


1953年 – 英国海外航空783便墜落事故起こる。

ベルリンの戦い(ベルリンのたたかい、ドイツ語: Schlacht um Berlin、英語: Battle of Berlin)は、第二次世界大戦末期、1945年4月16日のソビエト赤軍のゼーロウ高地攻撃開始から、総統地下壕におけるアドルフ・ヒトラーの自殺、国会議事堂の陥落、5月2日のドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将の降伏に至るまで、ベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。


1953年5月2日、英国海外航空(BOAC)783便は、シンガポールからロンドンに向かうフライトプランの下、コメットMk.I(イギリス・デハビランド製ジェット4発旅客機、機体記号G-ALYV)によって運航されていた。経由地であるインドのカルカッタのダムダム空港をデリーに向けて現地時間4時29分に離陸した。
離陸後、高度7,000フィート (2,133 m) 付近を上昇中に強い雷雲に突入して機体が空中分解し炎上、カルカッタの北西約38kmの西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落した。この事故で乗員6名乗客37名の合計43名全員が犠牲になった。この事故が商業路線に就航中のジェット旅客機としては世界初の航空事故になった。
2008年 – サイクロン・ナルギスがミャンマーに上陸。死者・行方不明者約14万人の甚大な被害をもたらす。
サイクロン・ナルギス(Cyclone Nargis)は、2008年4月27日にベンガル湾中央部で発生した、発達したサイクロンである。最も勢力の大きい時点でのシンプソン・スケールはカテゴリー4だった。5月2日にミャンマーのエーヤワディー川デルタに上陸し甚大な被害をもたらし、5月3日にミャンマーとタイの国境付近で消滅した。
通常、ベンガル湾で発生するサイクロンは、北東貿易風の影響で東進する事は無く、多くがバングラデシュに、次いでカルカッタ付近やインド半島東岸に上陸する。ナルギスのように東に進んでミャンマーに上陸する事は稀であり、被害が拡大した大きな原因となった。
ミャンマー南西部エーヤワディ管区を中心に、ヤンゴン管区、バゴー管区、モン州などで大雨や洪水、強風による被害が発生した。
被害状況
バングラデシュなどでは、国連の力もあり、被害をできるだけ食い止めることができた。しかし、ミャンマーではこのサイクロンへの備えが少なく、社会基盤が脆弱だったこともあり、死者は10万人を超えたといわれている。
2011年 – ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害: パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡。

5月2日という日をめぐって――歴史の軌跡と人間の記憶

5月2日――ただの春の日のひとつに見えて、実は幾重もの歴史が折り重なる、静かに濃密な日である。月齢4.3、まだ幼い月が夜空に浮かび、辛未(かのとひつじ)という干支が暦に刻まれるこの日は、「友引」の金曜日。運命を共にするという名の通り、幾人もの人々の人生が、この日を境に大きく揺れ動いてきた。


まずは1536年、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃、アン・ブーリンの逮捕の日。彼女はただの王妃ではなかった。のちに“処女王”と呼ばれるエリザベス1世を生んだ女性であり、カトリック世界との訣別、すなわちイングランド国教会という宗教改革の象徴にもなった人物だった。彼女がこの日、反逆と姦通、近親相姦という罪で逮捕され、後にフランス式の剣で処刑される運命を辿ったことは、ひとつの時代の終焉を意味した。剣が振るわれるとき、彼女は何を思ったのだろう。権力の座に登り詰めるということは、それだけ深く闇に身を差し出すということなのかもしれない。


時を下って1808年、スペインのマドリードでは市民たちがフランスの支配に対して立ち上がり、1,500人もの命がフランス軍の銃火の下で失われた。歴史において「抵抗」は美しい理念でありながら、時にあまりにも血に染まる。民衆の怒りと勇気が、帝国の暴力に飲み込まれる日でもあった。


1945年のこの日、第二次世界大戦も終局に向かう中、ソ連の赤軍がナチス・ドイツの心臓部・ベルリンを制圧。総統官邸は陥落し、ヒトラーの野望は瓦礫の中に消えた。数百万人の命を奪った戦争のひとつの幕引きとして、5月2日は重く歴史に刻まれている。正義と勝利の裏に、無数の悲しみが横たわっていることを忘れてはならない。


さらに1953年。世界初の商業ジェット旅客機事故が起きた日でもある。BOAC783便が雷雲に呑まれて空中分解し、乗員乗客43人全員が犠牲となった。新技術への希望と夢が、一瞬で崩れ落ちた痛ましい出来事だった。科学の進歩がもたらすリスクと安全の境界線は、いまもなお揺れている。


そして2008年、自然の脅威が人間の脆さを突きつける。サイクロン・ナルギスがミャンマーを襲い、約14万人もの命が失われた。備えの乏しさ、情報遮断、そして国際援助への政治的障壁――被害を拡大させたのは自然災害そのもの以上に、人間の構造的な弱さだった。自然は容赦ない。だが、我々はそれをどう受け止め、未来にどう活かすのかが問われている。


2011年には、世界を震撼させた男――ウサーマ・ビン・ラーディンが米軍の特殊部隊によって殺害された日でもある。「正義の執行」とは何か? 一人の死がもたらす達成感と、拭い切れぬ空虚さ。復讐と報復が織り成す連鎖の中で、人はどこまで自由になれるのだろう。


5月2日は、「静かな日」などではない。この日には、王妃の悲劇も、市民の反抗も、戦争の終焉も、科学の過信も、自然の猛威も、正義の光と影も、すべてが重なり合っている。

今私たちが平穏に過ごすこの日が、過去にいくつもの激動と悲しみの上に築かれていることを、心のどこかに留めておきたい。5月2日――それは、歴史が静かに私たちに問いかけてくる日である。