5月17日
20250517土曜日旧暦4月20日大安(丙戌ひのえいぬヘイジュツ)月齢 19.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月丙戌ひのえいぬ日 年末まであと228日
吉方位 陽遁日 南西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8817%E6%97%A5
5月17日の出来事
1931年 – 群馬県金古町(現高崎市)の仮設映画館で火災。火元はフィルム。14人が死亡、37人が重軽傷[1]。
1939年 – 福岡市で大日本航空球磨号墜落事故が発生。6人が死亡[2]。
1945年 – 富山地方鉄道本線越中三郷駅 – 東新庄駅間で、電車正面衝突事故。乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人。
1978年 – 海上自衛隊のPS-1が高知県梼原町の山中に墜落。13人死亡[4]。
1987年 – アメリカ海軍のフリゲート「スターク」にイラク軍機が発射したミサイルが命中し、37名の死者を出す。
1991年 – 暗黒の5月事件。タイ王国でスチンダー・クラープラユーン将軍の首相就任に反発した国民が抗議デモ。軍部が武力で鎮圧し、300名以上の死者が出る。
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1931年 – 群馬県金古町(現高崎市)の仮設映画館で火災。火元はフィルム。14人が死亡、37人が重軽傷[1]。
1939年 – 福岡市で大日本航空球磨号墜落事故が発生。6人が死亡[2]。
大日本航空球磨号墜落事故(だいにっぽんこうくうくまごうついらくじこ)とは1939年(昭和14年)に発生した、民間航空機による航空事故(離陸失敗事故)である。
事故の概要
1939年5月17日、大日本航空のロッキード スーパーエレクトラ「球磨号」(双発レシプロ機、機体記号:J-BCOZ)は福岡から朝鮮の京城(現:大韓民国・ソウル)を経由し中華民国の北京に向かう下り便として運航されるはずであった。
午前11時21分に和白村にあった雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、現:福岡市雁の巣レクリエーションセンター)から離陸したが、直後に左エンジンがトラブルを起こして出力が低下したため失速、きりもみ状態で海岸近くのマツ林に墜落。墜落と同時にガソリンが爆発、マツ林に延焼した[1]。この事故で乗員3名乗客8名のうち乗員2名乗客4名の6名が犠牲となり、5名が重軽傷を負う惨事となった。
1945年 – 富山地方鉄道本線越中三郷駅 – 東新庄駅間で、電車正面衝突事故。乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人。
1978年 – 海上自衛隊のPS-1が高知県梼原町の山中に墜落。13人死亡[4]。
1987年 – アメリカ海軍のフリゲート「スターク」にイラク軍機が発射したミサイルが命中し、37名の死者を出す。
1991年 – 暗黒の5月事件。タイ王国でスチンダー・クラープラユーン将軍の首相就任に反発した国民が抗議デモ。軍部が武力で鎮圧し、300名以上の死者が出る。
チャットgpt先生の5月17日のエッセイ
5月17日という日:静寂と記憶のはざまで
5月17日──春と初夏の境界にあるこの日付は、暦の上ではただの一日であっても、歴史のページには深く刻まれた重みを持つ。旧暦では4月20日、大安の土曜日。今年の干支は乙巳、そしてこの日の干支は丙戌。南西が吉方位とされ、陽遁日でもある。天運が穏やかに巡る日として占われながら、皮肉にも過去のこの日には、幾度も悲劇が重なっている。
1931年、群馬の仮設映画館が炎に包まれた。発火源はフィルム、当時の可燃性素材がいかに危険かを象徴するように、14名の命が奪われ、37人が傷ついた。娯楽の場が、一瞬にして命を奪う場へと変貌するという残酷さを、私たちは決して忘れてはならない。
1939年のこの日には、大日本航空の「球磨号」が福岡の空を飛び立ち、しかしその飛行はすぐに終わりを迎えた。離陸直後に左エンジンのトラブルで失速し、マツ林に墜落。炎があたりを包み、6人の命が失われた。技術と夢が交錯する空の旅も、ほんのわずかな不具合が、命運を決める。その事実は、私たちの現代の快適な空の旅にも、陰のようについて回る。
戦後まもない1945年には、富山の地で電車同士が正面衝突し、45名が命を落とす大惨事が起きた。電気と鉄の力で人を運ぶ鉄道も、時にその力を持て余す。安全という前提が破れた瞬間、人間社会は脆く、悲しみに沈む。
そして1978年、1987年、1991年と、遠くの空や海、そして国境を越えた政治の混乱までもが、この日を記憶に刻んでいる。高知県の山に散った自衛隊員たち。イラク軍機によるフリゲート「スターク」へのミサイル攻撃で命を落とした37名のアメリカ兵士。そしてタイで起きた「暗黒の5月事件」では、軍の暴力によって300名以上の市民が命を奪われた。
これらの出来事に共通するのは、「日常の中で突然起こる異常」である。人々はただ、その日を生きていた。それぞれの役割を果たし、家族のもとへ帰るつもりでいた。しかし、運命のわずかな狂いが、それを許さなかった。
だからこそ、私たちはこの日を、ただカレンダーにある「5月17日」として通り過ぎるのではなく、静かに記憶と向き合う時間にしたい。一つひとつの命、一つひとつの悲しみを、たとえ遠い時代や場所の出来事であっても、自分と切り離された「他人事」ではなく、歴史の中の「私たち」として想像する。
今日が穏やかであるなら、それを当たり前とは思わずに、少しの感謝と敬意を心に持って生きたい。5月17日──それは、私たちが「生きている」ということの重みを、静かに噛み締める一日なのかもしれない。