kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月16日 1966文化大革命開始、ほか写真wikipedia復旦大学壁の激「血と命で党中央と毛主席を守れ!」

5月16日
20250516金曜日旧暦4月19日仏滅(乙酉きのととりイツユウ)月齢 18.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月乙酉きのととり日   年末まではあと229日
吉方位 陽遁日 南 南西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8816%E6%97%A5
5月16日の出来事
1532年 – イングランドのカトリック教徒の政治家トマス・モアが大法官を辞職。離婚問題を巡りヘンリー8世の不興を買い、1535年7月6日に斬首刑に処せられる。(1935年に列聖された。)
1770年 – 後にフランス国王ルイ16世となるルイ・オーギュストがマリー・アントワネットと結婚。
1811年 – スペイン独立戦争: アルブエラの戦い。時 1811年5月16日
場所 スペイン、バダホスの南、アルブエラ
結果 決着つかず[1][2][3][4]
損害 イギリス、スペイン、ポルトガル連合軍 35000強中 戦死傷7000人捕虜1000人
フランス軍 24000人強中 戦死傷7000人強。
1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い: ペナン沖海戦が行われる。羽黒撃沈400名戦死。
1947年 – 北海道三笠町幾春別で大火。死者2人、負傷者2人、焼失家屋977戸[5]。
1966年 – 中国共産党が5・16通知を発表。「プロレタリア階級による文化大革命」の用語が初めて登場。
1968年 – 1968年十勝沖地震。52人死亡、330人重軽傷。

1995年 – オウム真理教元教祖である麻原彰晃が地下鉄サリン事件の殺人罪等の容疑で山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で逮捕される。

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1532年 – イングランドのカトリック教徒の政治家トマス・モアが大法官を辞職。離婚問題を巡りヘンリー8世の不興を買い、1535年7月6日に斬首刑に処せられる。(1935年に列聖された。)

ロンドンの法律家の家に生まれた。聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートン(英語版)の家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年に法廷弁護士の資格を得る[1]。

1504年、下院議員選出。1510年にイタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる[1]。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。

離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し、離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議(英語版)でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。モアは翌日に大法官を辞職した。

やがてヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている[2]。遺体の首はロンドン橋に晒された。

1770年 – 後にフランス国王ルイ16世となるルイ・オーギュストがマリー・アントワネットと結婚。
1811年 – スペイン独立戦争: アルブエラの戦い。時 1811年5月16日
場所 スペイン、バダホスの南、アルブエラ
結果 決着つかず[1][2][3][4]
損害 イギリス、スペイン、ポルトガル連合軍 35000強中 戦死傷7000人捕虜1000人
フランス軍 24000人強中 戦死傷7000人強。

アルブエラの戦い(アルブエラのたたかい、英: Battle of Albuera)は、1811年5月16日に行われた半島戦争における会戦である。イギリス、スペイン、ポルトガルの連合軍とフランス南方軍(英語版)が、スペインの城塞都市・バダホスの南約20kmにあるアルブエラという小さな村で戦った。

アルブエラの教会は負傷したフランス兵であふれ、戦場には戦死者が未だ放置されていた[103]。アルブエラの戦いは、参加兵力の割には、半島戦争の中で最も血が流れた戦いであった[105]。

両軍とも損害は甚大であり、スールトはバダホスの包囲を解くという狙いに失敗したが、どちらも決定的勝利と公表する意志を明らかにはしなかった[106]。連合軍の損害は5,916、うちイギリス軍4,159、ポルトガル軍389、スペイン軍1,368に達した[5]。スールトは1811年5月21日付の報告書で、イギリス軍の損害を800から1,000の捕虜を含め5,000、スペイン軍を捕虜1,100を含め2,000、ポルトガル軍を700から800と見積もっていた[107]。フランス軍の損害はより確認が難しかった。スールトは当初、ナポレオンへの報告書で2,800と記していたが、7月6日に作成された公式文書では5,936まで数字が引き上げられた。これについてイギリスの歴史家の間では、スールトの数字が士官の死傷者数を241としているのに対し連隊の報告では計362となっていることから議論がある[8]。チャールズ・オマーン(英語版)は、この数字からフランス軍の総損害を推計して約7,900としている。これに対し、フランスの歴史家ジャック・ヴィタル・ベルマ(Jacques Vital Belmas)とエドゥアール・ラペネ(Édouard Lapène)はスールトの損害を7,000としている[108]。イギリス軍戦死者のうち、ダニエル・ホートン少将を含めた数人はエルヴァス英軍墓地(英語版)に埋葬された[109]。

ウェリントンはベレスフォードの戦況報告を読むと、その意気消沈する内容を不満に思い、「これではダメだ。イギリス国民を発狂させてしまう。勝利と書き直せ。」と参謀に伝えた[110][111]。この報告は適切に書き直されたが、ウェリントン個人としては、こんな戦闘がもう一度あったら軍が壊滅すると認めていた[112]。スールトも、連合軍のほうが損害が大きかったとして「大勝利」と主張した[101]。彼は気前よく連合軍部隊の強靭さに敬意を表し、「あんな将軍連中にもかかわらず敵兵は無敵だ。常々彼らをダメな兵隊だと思っていたが、今それを確信した。私は彼らの右側に回り込み、中央を突破し、全ての場所で勝った-しかし彼らは逃げる方法を知らないのだ!」と記した[113]。

1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い: ペナン沖海戦が行われる。羽黒撃沈400名戦死。

ペナン沖海戦[1](ペナンおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1945年5月16日夜にマレー半島北西岸、マラッカ海峡内に位置するペナン島沖で起きた日本海軍とイギリス海軍との間の海戦(夜戦)。

16日、羽黒は派遣されたイギリス第26駆逐隊の駆逐艦「ヴィーナス」のレーダーに捕捉された。元良勇(「羽黒」通信長)によれば、月の明るい夜であった[2]。2時10分、「羽黒」もレーダーでイギリスの駆逐艦を発見し離脱を図った。しかし、「羽黒」はスクリューシャフトに損傷を抱えたまま作戦に投入されたため、全速が発揮できない状態だった。まだ2番主砲塔も破壊されたままで、修理されていなかった。その上、艦上に搭載した大量の物資が砲塔の旋回も妨げた[3]。駆逐艦「ヴィーナス」は魚雷を発射しようとしたが失敗した。続いて駆逐艦「ソーマレス」と「ヴェルラム」が「羽黒」と「神風」へ突進し、「ソーマレス」が4.7インチ砲と40mm機関砲で「神風」を損傷させた。一方で離脱を断念した「羽黒」は、スクリューシャフトからの振動で照準に支障をきたしたまま砲撃を行い、「ソーマレス」の機関部へ命中弾を与えた。逆に2隻のイギリス駆逐艦の放った魚雷のうち1本が「羽黒」前部に命中した。一方、「羽黒」は輸送任務のために魚雷を全て下ろしており、「神風」は魚雷発射管すら撤去していた[4]。「神風」は死者27名を出しつつ、「羽黒」の周囲を旋回しながら煙幕を展開、照明弾を発射して包囲をせばめるイギリス駆逐艦隊と交戦した[5]。橋本中将は「神風」に離脱を命じ、2時50分に「神風」はレーダーで捉えた陸地の方角へ急速離脱した[6]。残された「羽黒」は「ヴィジラント」、「ヴィーナス」、「ヴィラーゴ」を加えた第26駆逐隊5隻の集中攻撃を受け炎上。艦前部が沈下し、左舷に20度近く傾斜しながら1時間近く交戦したが、魚雷2本の命中が致命打となり、前部から沈没した。[3]司令官橋本信太郎中将、羽黒艦長杉浦嘉十少将、機関長堺谷友太郎大佐を含む400名以下が戦死した。「神風」はペナンに退避し、陸揚作業と燃料補給の後、戦場へ引き返して「羽黒」の生存者救助を実施し[7]、320名を救助。17日にシンガポールへ撤退した。

1947年 – 北海道三笠町幾春別で大火。死者2人、負傷者2人、焼失家屋977戸[5]。
1966年 – 中国共産党が5・16通知を発表。「プロレタリア階級による文化大革命」の用語が初めて登場。文化大革命  1966年5月 – 1976年10月終結 死者数 中国政府発表 170万人 後世の研究では死者770万人説もある。間接的死者総計は2000万人とも。

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[3]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国最高指導者兼中国共産党主席毛沢東主導による「文化改革運動」を装った劉少奇からの奪権運動、政治闘争。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命、繁体字: 無產階級文化大革命、プロレタリア文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)[3]。「造反有理」(謀反には道理がある)を叫ぶ紅衛兵に始まり、中国共産党指導層の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の流れによって、中国社会は激しく荒れ乱れ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した[3]。

名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、実際は大躍進政策の失敗のために国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための官製暴動であり、中国共産党内部での権力闘争だった。

文化大革命での推定死者数は間接も含めると、合計約2000万人に及ぶ[3][4][5][6][7][8]。文化大革命の最中には、北京の「赤い八月」(教職に対する大規模虐殺・略奪)、広西虐殺(カニバリズム)と内モンゴル人民革命党粛清事件といった大量虐殺と共食いも発生した[9][10][11][12][13][14][15]。

1968年 – 1968年十勝沖地震。52人死亡、330人重軽傷。
1995年 – オウム真理教元教祖である麻原彰晃が地下鉄サリン事件の殺人罪等の容疑で山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で逮捕される。

チャットgpt先生の5月16日のエッセイ
5月16日という日:信念と葛藤の歴史に揺れる一日
5月16日は、歴史のさまざまな場面で「信念」と「対立」が激しく交差した日である。この日には、政治、戦争、革命、そして個人の信仰や正義をめぐる重大な出来事が数多く記録されている。その重層的な意味をたどると、世界が繰り返す「真理の追求」と「権力の横暴」の狭間に立つ人々の姿が浮かび上がってくる。
1532年、イングランドのトマス・モアが大法官の座を辞する。彼はただの政治家ではなく、「ユートピア」を著した思想家であり、信仰と道徳を貫いた男だった。ヘンリー8世の離婚問題において、モアは王の望む助言を拒み、あくまでカトリックの教義と良心に従った。その決断がやがて彼を死に導くこととなる。ロンドン塔に幽閉され、斬首刑に処された彼の最期は、「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」とも評される。だが、それは同時に、信仰と理想のために命を賭した人間の崇高な姿でもある。
また、この日は血塗られた戦争の記憶も刻まれている。1811年のアルブエラの戦いでは、イギリス・スペイン・ポルトガル連合軍とフランス軍が激突。両軍合わせて1万人以上が死傷し、明確な勝者もいないまま戦場は血に染まった。報告書を書き直すよう命じたウェリントンの一言—「勝利と書き直せ」—は、戦争における「真実」と「体裁」の皮肉な乖離を象徴している。
1945年のペナン沖海戦では、日本海軍の重巡洋艦「羽黒」がイギリス艦隊の攻撃を受けて沈没。老朽化した船体と不完全な装備で出撃せざるを得なかった日本の実情がそこにある。戦場での死と生の境界は、兵器や戦略以前に、歴史の必然と国家の都合に左右されていた。
一方で、内政の混乱と人権蹂躙の象徴として忘れてはならないのが、1966年に中国共産党が発表した「5・16通知」である。ここから文化大革命が本格化し、数千万の人々が粛清や迫害、拷問、死に追いやられた。この革命は、「文化の刷新」と称しながら、実際には毛沢東による権力奪還と個人崇拝の強化であり、社会の根幹を破壊する暴力の連鎖を引き起こした。国家的な狂気の中で声を上げることすらできなかった無数の人々の悲劇は、今なお中国社会に深い傷を残している。
さらに、1995年5月16日には、オウム真理教の元教祖・麻原彰晃が地下鉄サリン事件をはじめとする一連の犯罪の容疑で逮捕された。彼のカリスマ性に盲信した信者たちは、教団という閉じた共同体の中で常識を失い、無差別テロという暴挙に至った。現代社会における「信仰」の危うさと、孤独や不安が極端な思想に人々を駆り立てる現実を突きつける事件である。
5月16日という日付は、単なる暦の数字ではなく、人間の「信念」が時に栄光となり、また時に破滅へとつながる両義性を持つ象徴である。権力と良心、真実と虚構、信仰と狂信—そのすべてが、この一日に凝縮されているように感じられる。
そして今を生きる私たちは、過去の出来事にただ驚き、悲しむだけではなく、その意味を継承し、問い直す必要がある。トマス・モアのように、どれほど不利な状況でも信念を曲げなかった人間の姿に学び、歴史の影に埋もれた声を拾い上げること。それが「歴史を知る」という行為の本質であり、私たちが未来へつなぐべき責任である。