5月15日
20250515木曜日旧暦4月18日先負(甲申きのえさるコウシン)月齢 17.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月甲申きのえさる日 年末まではあと230日
吉方位 陽遁日 北 北東 大吉 東 吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8815%E6%97%A5
5月15日の出来事
1524年 – ドイツ農民戦争: フランケンハウゼンの戦い(英語版)。農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結。農民戦死7000人以上。
1864年 – 南北戦争: ニューマーケットの戦い。
時 1864年5月15日
場所 バージニア州シェナンドー郡
結果 南軍の勝利 損害 北軍6000人強 戦死800人以上 南軍4000人強 戦死540人。
1905年 – 日露戦争・旅順港閉塞作戦: 日本海軍の戦艦「初瀬」が2度の触雷により沈没。495名戦死。生存337人。
1932年 – 五・一五事件。内閣総理大臣犬養毅が襲撃、殺害される。
1966年 – 日本テレビで演芸番組『笑点』放送開始。
1970年 – 豊橋事件が起こる。強姦放火事件。未解決。親子3名の他殺体が発見された。母親は何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していた
1976年 – 神戸まつりの会場で群衆が暴徒化。写真撮影をしていた神戸新聞のカメラマンが暴行を受けて死亡[4]。
1991年 – 東京都港区芝浦にディスコ・ジュリアナ東京が開店。
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1524年 – ドイツ農民戦争: フランケンハウゼンの戦い(英語版)。農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結。農民戦死7000人以上。
フランケンハウゼンの戦いは1525年5月14日と15日に戦われた。この戦いはドイツ農民戦争における重要な戦いであり、テューリンゲン戦争の最終戦でもありました。ヘッセン州フィリップ1世とザクセン公ゲオルクの合同部隊が、シュヴァルツブルク郡のフランケンハウゼン近郊で、精神的指導者トーマス・ミュンツァー率いる農民を打ち負かしました。
農民の不意を突いて農民を捕まえ、彼らはパニックに陥って町に逃げ込み、傭兵に追いかけられ、絶えず攻撃されました。反乱軍の大半は、大虐殺となった結果、殺害された。死傷者数は信頼できないが、農民の損失は7,000人以上と見積もられており、ラントスクネヒトの死傷者は6人とも少ないと推定されている。[5]ミュンツァー自身も町で捕らえられ、拷問を受け、1525年5月27日にミュールハウゼンで処刑された。[要出典]
1864年 – 南北戦争: ニューマーケットの戦い。
時 1864年5月15日
場所 バージニア州シェナンドー郡
結果 南軍の勝利 損害 北軍6000人強 戦死800人以上 南軍4000人強 戦死540人。
ニューマーケットの戦いニューマーケットのたたかい、英:Battle of New Market)は、南北戦争で1864年のバレー方面作戦の1864年5月15日、バージニア州シェナンドー郡で行われた戦いである。バージニア士官学校の士官候補生部隊が南軍と共に戦い、北軍フランツ・シーゲル少将の部隊をシェナンドー渓谷から追い出すことになった。
1905年 – 日露戦争・旅順港閉塞作戦: 日本海軍の戦艦「初瀬」が2度の触雷により沈没。495名戦死。生存337人。
初瀬(はつせ)は日本海軍の戦艦[15][16]。敷島型戦艦の3番艦である。
艦名の由来は奈良県を流れる初瀬川 (奈良県)(大和川上流部別称)による[注釈 2][17]。 日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により爆沈した[18][19][20]。
初瀬戦死者492名(傭人12名を含む)、生存者337名(梨羽少将、中尾艦長を含む)[17]。後年の調査では、戦死者495名(乗員834名)[43]。 梨羽司令官、中尾雄(初瀬艦長)、千坂智次郎(初瀬航海長)、佐藤亀太郎(初瀬機関長)、小林恵吉郎(初瀬水雷長)等の主要幹部は「龍田」に収容され、梨羽は「龍田」に将旗を掲げた[40]。だが第一戦隊司令部人員のほとんどが戦死した[40]。のちに芥川龍之介の妻となる塚本文の父、塚本善五郎(第一艦隊第一戦隊先任参謀)も、本艦と共に戦死している[44]。
1932年 – 五・一五事件。内閣総理大臣犬養毅が襲撃、殺害される。
当初の計画にあった戒厳令政府の設立とその後の軍事政権による国家改造というクーデター構想は事実上放棄され、集団テロ計画に変わっている[2]。5月15日が決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった(チャップリンと事件の関係については「チャールズ・チャップリン#4度の訪日」を参照)。決起のために用意した武器は、拳銃13丁、手榴弾21発、短刀15口程度であった。
首相官邸襲撃
襲撃直後の首相官邸の日本間の玄関の様子
5月15日当日は日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。
客間に入ると犬養首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで自分の考えやこれからの日本の在り方などを聞かせようとしていた。この時、首相と食事をするために官邸に来ていた嫁の犬養仲子と孫の犬養康彦が姿を現したが、黒岩が女中に命じて立ち去らせた。一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩が山岸の声に応じて[9]犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に深手を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った[10]。 官邸付近にいた警察官が、不審に思って近づいてくるとこれを拳銃で威嚇、警察官が怯んだ隙に逃走し、拾ったタクシー2台に分乗し桜田門の警視庁本部へ向かった。
三上らは犬養首相が即死したと思っていたが、首相はまだ息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと言う。家族の連絡を受けて駆けつけた医師が応急処置を施し、息子で首相秘書官の犬養健の問いかけにも応じていたが、次第に衰弱、午後9時過ぎに容態が急変し、午後11時26分になって死亡した。
1966年 – 日本テレビで演芸番組『笑点』放送開始。
1970年 – 豊橋事件が起こる。強姦放火事件。未解決。親子3名の他殺体が発見された。母親は何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していた
1976年 – 神戸まつりの会場で群衆が暴徒化。写真撮影をしていた神戸新聞のカメラマンが暴行を受けて死亡[4]。
1991年 – 東京都港区芝浦にディスコ・ジュリアナ東京が開店。
チャットgpt先生の5月17日のエッセイ
5月15日という日──歴史と記憶が交差する場所
5月15日。カレンダーの一日が、これほどまでに深く、重く、そして多様な記憶を内包しているとは、少し驚かされる。日本においては旧暦4月18日、干支は「甲申(きのえさる)」。年の終わりまであと230日。月齢は17.3、満月を過ぎた静かな夜を思わせる。北や北東が吉方位とされる陽遁日。この日の空の下、人々はさまざまな運命を生きていた。
歴史のページをめくると、まず目に飛び込んでくるのは、1525年のフランケンハウゼンの戦い。宗教と社会の理想を求めたドイツの農民たちが、領主軍の前に崩れ落ちた。精神的指導者トーマス・ミュンツァーが語ったのは、単なる反乱ではなく、新しい世界への希望だったかもしれない。しかし、圧倒的な武力はその理想を容赦なく叩き潰した。農民7000人以上の命が失われたその日、正義とは何か、自由とは何か、人間の叫びは誰に届くのかという問いが、血に塗れて横たわった。
時は下り、1864年のアメリカ。ニューマーケットの戦いでは、士官学校の若者たちが南軍と共に戦場へと赴いた。多くの命が散る中、青春の誇りと悲劇が交錯する。戦争とは、老いた者の欲と若者の命の交換なのだという言葉が胸を刺す。
そして、日本。1904年、旅順沖。戦艦「初瀬」が触雷によって海に沈んだ。華やかな帝国海軍の影で、495名が命を落とした。海の底で、彼らの物語は深く静かに眠っている。
だが、最も象徴的なのは1932年、五・一五事件だろう。総理大臣・犬養毅が銃弾に倒れたその夜、日本の政治の在り方が大きく揺らいだ。言葉でなく銃で語る者たちの若さと狂気。犬養は、最後に「話せば分かる」と語ったという。言葉の力と、言葉を信じる者の最期。その言葉が、今日の我々にとってもなお、痛切に響いてくる。
やがてテレビ時代となり、1966年には『笑点』が放送を開始。ユーモアと風刺が人々の心をほぐす中でも、5月15日は変わらずに歴史を蓄積し続けた。1970年の豊橋事件、1976年の神戸まつり暴動。記録と記憶の隙間で、名も知られぬ命が静かに消えていった。
そして1991年、ジュリアナ東京が開店し、バブルの残響の中で踊る人々の姿が夜を彩った。狂騒と自由と享楽、それもまた一つの時代のかたち。
5月15日とは、決して単なる一日ではない。戦争と革命、暴力と祈り、絶望と希望、涙と笑い。全てがこの日に折り重なっている。暦に刻まれたそれぞれの物語が、今日を生きる私たちに何を問いかけているのか──それを考えることこそ、歴史を学ぶ意味なのだろう。
空を見上げて、月齢17.3の月が浮かんでいるなら、どうかその光を静かに見つめてみたい。そこには、消えた声と、生き残った記憶が、きっと寄り添っている。