kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月9日  1241ワールシュタットの戦い、ほか写真wikipedi左モンゴル軍右エウロパ軍 

4月9日
20250409水曜日旧暦3月12日友引(戊申つちのえさるボシン)月齢 10.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月戊申つちのえさる日 年末まではあと266日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%889%E6%97%A5
4月9日の出来事
1241年 – ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国軍がポーランド・ドイツ軍を敗る。
2万対2万の軍の激突で 欧州連合壊滅。
1782年 – アメリカ独立戦争: セインツの海戦が始まる。年月日:1782年4月9日-4月12日
場所:西インド諸島 ドミニカ 結果:イギリス海軍の決定的な勝利
損害: フランス軍 死傷者2000人 イギリス軍死亡246人
1942年 – 第二次世界大戦: 日本軍がフィリピンのバターン半島を占領。(バターン死の行進)
欧米捕虜約10000人弱が死亡。
1948年 – エルサレム西部のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人特攻隊が攻撃、多数の住民が犠牲になる。(デイル・ヤシーン事件)

1952年 – もく星号墜落事故。搭乗員37人全員死亡[4]。

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1241年 – ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国軍がポーランド・ドイツ軍を敗る。
2万対2万の軍の激突で 欧州連合壊滅。

ワールシュタットの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Wahlstatt)またはレグニツァの戦い(モンゴル語: Легницийн тулалдаан; ポーランド語: Bitwa pod Legnicą)は、1241年4月9日にモンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍と、ポーランド・ドイツ連合軍が激突した戦いである。

世界的には会戦場であったポーランド西部のレグニツァ(波: Legnica、もしくはリーグニッツ-独: Liegnitz)の地名を用いることが一般的である。ドイツでは「ワールシュタットの戦い」(独: Schlacht bei Wahlstatt)が用いられることもあるが、現代ドイツの歴史でも「リーグニッツの戦い」(独: Schlacht bei Liegnitz)を用いる。「ワールシュタット(Wahlstatt)」とは、中高ドイツ語で「戦場」を意味する。[要出典]

バトゥによるモンゴル帝国軍の東欧侵攻

モンゴル帝国の第2代皇帝オゴデイは1235年のクリルタイで諸国への遠征を決議した。当時、モンゴル軍はチンギス・ハンの時代に中央アジアのホラズム帝国を征服し、西は黒海沿岸のグルジアまで達していた。西方遠征軍の総大将となったジョチ家の当主バトゥには5万の戦闘経験の豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに漢族とペルシア人の専門兵が与えられた。モンゴル高原を出立したバトゥは、キプチャク草原やキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服した(モンゴルのルーシ侵攻)。

1241年3月12日にバトゥ率いる遠征軍はハンガリー王国をカルパティア山脈の東部から北部に掛けて諸方面から侵攻した。軍勢の4分の1がハンガリー軍を南ロシアの草原に誘き出すために送られ、バトゥ率いる主力部隊が黒海の北西沿岸にあるワラキアを破壊した後、ティサからペストへと接近した。

3月18日にクラクフ侯ボレスワフ5世は、クラクフ北側のフミェルニク付近でのモンゴル軍との戦闘でポーランド軍が多数の死傷者を出して敗北したため(フミェルニクの戦い)、母と夫人とともにカルパティア山脈の麓の城塞に避難することを決め、さらにモラヴィアへ退避した。これによってクラクフの有力者は都市を放棄してドイツ方面などへ避難し、その他の住民たちは山林などへ逃亡する事態となった。

4月1日にモンゴル軍はクラクフに到着したが、ほぼ無人状態のこの都市に火を放った。その後さらに北上してシロンスクに入った。モンゴル軍はオドラ川を筏や泳いで渡ったが、ポーランド軍はまだ兵力が足りなかったため後退し、モンゴル軍はシロンスクの州都であるヴロツワフまで直進した。そのとき、北部諸侯を召集したシロンスク公・ヘンリク2世の軍勢が、レグニツァでヴァーツラフ1世率いるボヘミア軍の到着を待っているという情報がもたらされた。そこでモンゴル軍は攻撃目標を切り替え、レグニツァで各地の軍勢が集結しつつあるドイツ・ポーランド連合軍を討つことにした。

戦闘

ヘンリク2世が中心となったドイツ・ポーランド連合軍には、優れた兵と劣った兵が混在していた。軍を構成しているのは民兵や徴用された歩兵、封建騎士と従者、ホスピタル騎士団とテンプル騎士団からの少数の騎士、そしてドイツ騎士団だった。ワールシュタットの戦いでヘンリク2世が集めた軍は、年代記や歴史書によって2千[1]から4万の幅があるが、一般的には2万5千人程度[2]であったと言われる。ヘンリク2世は軍を4つの大きな部隊に編成して、主力のドイツ騎士団および他の騎士たちを中央に前衛と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。

一方、モンゴル軍がワールシュタットの戦いで動員した兵力は2万人[3]だった。前列中央に陽動戦術の訓練を積んだ軽装騎兵を配置し、両側面には騎射や槍での接近戦を行うことのできる軽装騎兵が、後方には正面からの騎馬攻撃を得意とする重装騎兵が控えていた。

1214年のブーヴィーヌの戦いがそうであったように、当時のヨーロッパにおける騎士の戦術は敵の中心への猛攻撃だった。ワールシュタットの戦いは、まず前衛の騎士たちが軽装騎兵に攻撃を仕掛けて蹴散らされた。しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装退却させて連合軍の主力である騎士団を釣り野伏せで誘い込み、両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れた。そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。煙幕の向こうにいた歩兵は逃げ惑う騎士とそれを追うモンゴル軍の姿を見ると、恐怖に駆られて敗走した[4]。

逃げるドイツ・ポーランド連合軍をモンゴル軍は容赦なく追撃して、おびただしい数が殺戮された。その後、モンゴル軍はオドラ川に沿った地域を掃討していき、当初の目標であったヴロツワフを完全に破壊した

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チンギス=ハーンは言った。 「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ。」

1782年 – アメリカ独立戦争: セインツの海戦が始まる。年月日:1782年4月9日-4月12日
場所:西インド諸島 ドミニカ 結果:イギリス海軍の決定的な勝利
損害: フランス軍 死傷者2000人 イギリス軍死亡246人

セインツの海戦(セインツのかいせん、英: Battle of the Saintes)は、アメリカ独立戦争中の1782年4月9日-4月12日に西インド諸島のドミニカ近くで行われたフランス海軍とイギリス海軍の海戦である。ジョージ・ロドニー卿が指揮するイギリス艦隊はフランソワ・ド・グラス伯爵指揮するフランス艦隊を打ち破り、フランス艦隊の旗艦ヴィル・ド・パリを含め5隻を捕獲した。

1942年 – 第二次世界大戦: 日本軍がフィリピンのバターン半島を占領。(バターン死の行進
欧米捕虜約10000人弱が死亡。

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と手ぶらの捕虜と20キロの装備品を持った監視の日本兵が歩いた。

1942年(昭和17年)4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった[6]。したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、味噌汁、ゴボウなどアメリカ人、フィリピン人と日本人との食生活の違いも指摘されている。さらに炎天下で行進が行われたために、重さ30kgの重武装の日本兵も監視のために一緒に行軍したが、約42kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

収容所にたどり着いたのは、捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、ほとんど脱走者であり、報告は死亡と報告していたと言われている。

吉本隆明は、フィリピンにいた元日本軍兵士の証言として以下の発言を紹介し[26]、「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と評している[19]。

日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。

1948年 – エルサレム西部のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人特攻隊が攻撃、多数の住民が犠牲になる。(デイル・ヤシーン事件

デイル・ヤシーン事件(デイル・ヤシーンじけん、דיר יאסין, مذبحة دير ياسين)は、第一次中東戦争直前の1948年4月9日、当時イギリスの委任統治領であったパレスチナのエルサレム近郊のデイル・ヤシーン村(ダイル・ヤーシーン、دير ياسين Dayr Yāsīn。デイル・ヤーシンとも書かれる。現在は西エルサレムの一部)で起こったユダヤ人武装組織による住民の虐殺事件。

概要

デイル・ヤーシーン村は、イギリス委任統治領パレスチナ政府の統計によると、1945年時点の人口は610人であり、事件当時の人口は、村民の証言から750人前後と推測されている[1]。

事件当時、イギリス委任統治領パレスチナでは、イスラエル独立前から、ユダヤ人とアラブ人間の武装勢力によるテロが激化し、実質上の戦争状態に入っていた。1948年4月、ユダヤ人武装組織イルグン、レヒの部隊が、エルサレム西部のアラブ人村落のデイル・ヤシーン村を包囲し、村を占拠したのち、老人、女性、子供も含む非武装の村民たちを虐殺した。犠牲となった住民の総数は、事件後に出された推定では254人とされ、それが広く流布されていたが、最近の研究では107人から120人の間であると推定する説もある。過大な数字が流布したのは、イルグン・レヒ側が、自発的に虐殺を成果として宣伝したためとしている[1]。

本事件の後、危険を感じた数十万人とも言われるアラブ人住民が現在のイスラエル領を脱出し、ヨルダンやエジプト領のキャンプに逃れ、パレスチナ難民となった。ユダヤ側は直ちに事件を起こしたイルグンを非難する声明を出し、ダヴィド・ベン=グリオンはトランスヨルダンのアブドゥッラー1世国王に謝罪の書簡を送る。また、ユダヤ機関(英語版)とハガナーは「非常に不愉快な事件」として非難した。しかし、イスラエル領となる地域から大量のアラブ人が脱出したことは、イスラエル建国の上で非常に好都合であったことは否定できず、イスラエル政府はパレスチナ難民の帰還を認めていない。

デイル・ヤシーン村は現在イスラエル領になり、虐殺された犠牲者の土地や財産は、ユダヤ人のものとなっている。

1952年 – もく星号墜落事故。搭乗員37人全員死亡[4]。

もく星号墜落事故(もくせいごうついらくじこ)は、連合国軍占領下の1952年(昭和27年)4月9日に日本航空の定期旅客機もく星号が伊豆大島火口付近の山腹に激突した航空機事故である。民間航空機としては戦後初めての事故[3]とされる。

チャットgpt先生の4月9日のエッセイ

4月9日――歴史の影に刻まれた日

歴史のカレンダーをめくると、4月9日にはいくつもの重要な出来事が刻まれている。この日、戦争の勝敗が決し、人々の運命が大きく変わる瞬間が何度も訪れた。武力による支配と破壊が繰り返され、その影に多くの血と涙が流れてきた。

1241年、ヨーロッパの運命を左右したワールシュタットの戦いが勃発した。東から押し寄せたモンゴル帝国軍は、ポーランド・ドイツ連合軍を圧倒的な力で打ち破る。この戦いは、西欧諸国にとって、モンゴルという未知なる強敵を目の当たりにした衝撃的な出来事だった。チンギス・ハーンの軍勢が誇る騎馬戦術は、ヨーロッパの重装騎兵をものともせず、歴史の流れを変えたのだ。モンゴル軍の前に屈した人々の目に映ったのは、従来の戦いの常識を覆す恐怖だったのかもしれない。

それから数世紀後の1782年、今度は海の上で戦いが繰り広げられる。アメリカ独立戦争の最中、西インド諸島沖でイギリス海軍とフランス海軍が激突したセインツの海戦。ここでもまた、勝敗は歴史の方向を左右した。イギリスの勝利は、海洋覇権をさらに確固たるものとし、大西洋を巡る勢力争いを決定づけるものとなった。戦場の波間に沈んだ無数の命が、その支配の代償だった。

そして、戦争が国を超え、人々を巻き込む時代が訪れる。1942年、第二次世界大戦の只中で「バターン死の行進」が始まった。フィリピンのバターン半島で、日本軍がアメリカ・フィリピン連合軍の捕虜を長距離行進させ、過酷な状況下で多くの命が失われた。戦争とは、ただ戦場での戦闘だけではなく、降伏した者に対してもなお残酷な試練を課すものなのか。疲労と飢えの果てに命を落とした兵士たちは、何を思いながら歩んでいたのだろうか。

同じく戦争の悲劇は1948年のデイル・ヤシーンにも刻まれた。パレスチナ問題の火種となったこの事件では、ユダヤ人武装組織による虐殺が行われ、多くの民間人が犠牲となった。国家や民族の対立は、武器を手にした者だけではなく、無防備な人々にも容赦なく牙をむく。歴史に名を残す戦争の陰で、こうした悲劇が繰り返されることを私たちは忘れてはならない。

1952年には、日本で「もく星号墜落事故」が発生した。戦争とは無関係のこの事故もまた、命のはかなさを私たちに思い出させる。日常の中に潜む危険、突如として奪われる命。その瞬間、人は歴史の流れに翻弄されるしかないのかもしれない。

歴史に刻まれた4月9日という日は、戦いと悲劇、そして権力の行方を象徴するものとして今も記憶されている。人類は戦争を繰り返してきたが、果たしてそこに学びはあったのか。モンゴルの騎馬兵がヨーロッパを震え上がらせたあの日から、現代に至るまで、私たちは暴力の連鎖を断ち切ることができただろうか。歴史を知ることは、未来を選ぶことにほかならない。過去を振り返ることで、私たちはどのような道を進むべきかを見極めなければならないのだ。