kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月7日 1945大和撃沈、1992フォチャ虐殺、ほか写真wikipedia被弾する大和

4月7日
20240407日曜日旧暦2月29日赤口 辛丑かのとうしシンチュウ 月齢 27.7
年末まではあと268日
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4月7日の出来事
1945年 – 第二次世界大戦: 戦艦大和が沖縄への特攻作戦の途上、撃沈される。
1989年 – ソ連の原子力潜水艦コムソモレツが、ノルウェー沿岸のバレンツ海で火災を起こし、沈没。乗員42名が死亡。
1992年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: フォチャの虐殺がはじまる。

2020年 – 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な拡大により、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・大阪府・兵庫県・福岡県の1都1府5県で、緊急事態宣言が発令される[4]。

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1945年 – 第二次世界大戦: 戦艦大和が沖縄への特攻作戦の途上、撃沈される。

大和(やまと)[6]は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦[7]。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。

機密保持+進水式
同年8月8日進水[31][32]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[31]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[33]。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも[31]、進水式は結局天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで行われた[31][34]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[35]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[36]。

連合艦隊旗艦
1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった[44]。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる[45]。

レイテ沖海戦
1944年10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。
大和の姉妹艦武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え[123]、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた[124]。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した[125]。

レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。

大和以下残存艦艇は燃料不足のため組織だった艦隊行動が不可能となり、満足な訓練もできず内地待機を続けている[126]。

一億総特攻の先駆けとしての大和海上特攻出動決定
4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した[141][142]。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという[143]。そこで三上は「私も連れて行って下さい」と申し出たが、第二艦隊参謀の山本祐二大佐が「お前たち連合艦隊司令部の監視を受けなくても、我々は立派にやって見せる」と拒否している[144]。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している[145]。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された[146]。

大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している[152]。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている[153]。

米側の大和攻撃の対策
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた[158]。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった[159]。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという[160]。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し[161]、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた[162]。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった[163]。

坊ノ岬沖海戦  19450407
4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた[164]。

13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した[222]。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した[223]。この頃、上空の視界が良くなったという[224]。

大和は複数の直撃弾によって艦首側が下がり速度も落ちている。護衛の駆逐艦冬月が10cm対空砲を発射している[225]。
大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである[226]。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった[204]。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した[231]。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった[232]。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[233]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[234]。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[235]。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった[236]。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した[237]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[238]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[239]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[240]。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある[241]。

このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[245]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である[246]。

  • 12時41分 後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅[248]
  • 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中[187]。
  • 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障[204]。
  • 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中[204]。
  • 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵[204]。
  • 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中[249]。
  • 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中[249]。
  • 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中[249]。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
  • 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す[249]。
  • 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし[250]。総員上甲板(総員退去用意)を発令。
  • 14時23分 大和、沈没。(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。死者2740名、生存者269名[251]。

同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。

昭和天皇発言
自らの言葉によって大和特攻を招いた昭和天皇だが、『昭和天皇実録』には記されていないものの『昭和天皇独白録』には、知ってか知らずか、沖縄戦を振り返る中で「とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と述べたことが記されている[140]。

1989年 – ソ連の原子力潜水艦コムソモレツが、ノルウェー沿岸のバレンツ海で火災を起こし、沈没。乗員42名が死亡。
1992年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: フォチャの虐殺がはじまる。

フォチャの虐殺(フォチャのぎゃくさつ、セルビア語・ボスニア語・クロアチア語:Zločini u Foči)は、セルビア人の軍事組織、警察、準軍事組織によって、ボスニア・ヘルツェゴビナのフォチャ地域(ガツコやカリノヴィク(英語版)を含む)で、ボシュニャク人の市民に対して1992年4月7日から1994年1月にかけて行われた一連の大量殺害である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関する戦争犯罪を裁く旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)の検察局が発行した数多くの起訴状の中で、この大量殺害は「人道に対する罪」であるとされた。1997年、ノヴィスラヴ・ジャイッチ(英語版)に対するICTYの裁判の判決の中で、1992年6月の大量殺害がジェノサイドであると認定された[1]。大量殺害に加えて、この地域では、非セルビア人市民に対する民族浄化、大量強姦、ボシュニャク人が所有する財産や文化的遺産の意図的な破壊などが行われた。

フォチャ地域からは、すべてのボシュニャク人が殺害されるか追放されるなどによって一掃された。紛争前の住民のうち、2704人が紛争の間に死亡したか行方不明となっている[2]。これに加えて、セルビア人勢力の当局は、後に「強姦収容所」と称される抑留施設を設け、数百人の女性が組織的に強姦された [3][4]。

フォチャの虐殺に加担した多くのセルビア人の当局者、兵士、その他の加担者らが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追され、有罪を認定されている。

大量強姦
ボシュニャク人の女性らは複数の抑留施設に抑留され、極めて劣悪で非衛生的な環境の元におかれた。女性らは繰り返し強姦される等の虐待を受けた。セルビア人の軍人や警察官はこの抑留施設を訪れ、1人または複数の女性を選び出し、強姦した。これらの行為はすべて、当局の知るところであり、スルプスカ共和国の当局はこれらの行為が行われていることを認識し、各地の警察をはじめとして時にこれらの行為に直接関与した。フォチャの警察軍の局長ドラガン・ガゴヴィッチ(Dragan Gagović)は、これらの抑留施設を訪れ、女性を強姦した者の一人として人物特定されている。フォチャには複数の強姦収容所があり、その中のひとつは「カラマン(Karaman)の家」と呼ばれていた。女性らはここに抑留されている間、繰り返し強姦されていた。「カラマンの家」に抑留されていた女性らの中には、15歳に満たない少女もいた[5][6] 。

ボシュニャク人女性に対する強姦は、セルビア人にとって、ボシュニャク人に対する勝利と優越性を体現するものとなるため、ボシュニャク人女性は特に強姦の標的となった。たとえば、女性や少女らは、ドラゴリュブ・クナラツ(ボスニア語版)やその配下の人間によって組織的に、兵士の基地となっているオスマナ・ジキッチ(Osmana Đikić)通り16番地の家に連行される。クナラツは女性や少女らが一般市民であることを知っているが、ここでは女性や少女らはクナラツ自身やその配下の者たちによって強姦される。強姦された少女の中には、14歳の者も複数いた。セルビア人兵士らは、通常、ボシュニャク人に対してまったく気に留めることはなく、特にボシュニャク人女性に対して配慮がなされることはなかった。セルビア人兵士らは多くのボシュニャク人(ムスリム)の少女を抑留施設から連れ出し、自身やその配下の兵士らが強姦するために、一定期間留めおかれた[5]。

また別の例では、ICTYに訴追されたラドミル・コヴァチュ(ボスニア語版)という人物がいる。コヴァチュの住居に拘束されていた4人の少女は、コヴァチュが少女らのうち3人を繰り返し強姦したと訴え、もってボシュニャク人の市民に対する虐待を継続的に行い続けていたとした。コヴァチュはまた友人を住居に招き、少女らを強姦させることもあった。コヴァチュはまた、この少女らの3人を売った。少女が売られるに先立って、コヴァチュは少女のうち2人を、あるセルビア人兵士に貸し与えた。この兵士は少女らを3週間以上にわたって虐待し、その後少女らはふたたびコヴァチュの元へと送り返された。少女らはその後、別のコヴァチュの知人らにそれぞれ売られた[5]。

2020年 – 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な拡大により、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・大阪府・兵庫県・福岡県の1都1府5県で、緊急事態宣言が発令される[4]。

チャットgpt先生の4月7日のエッセイ
4月7日には、歴史上重要な出来事が数多く起こっています。特に、第二次世界大戦やその後の国際情勢に大きな影響を与えた事件が多く含まれています。

まず、1945年のこの日は、戦艦大和が沖縄への特攻作戦の途中でアメリカ軍の攻撃によって撃沈された日です。大和は大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦であり、その沈没は日本にとって大きな打撃でした。この出来事は、太平洋戦争の終盤における日本の敗北を象徴するものとなりました。

1989年には、ソ連の原子力潜水艦コムソモレツがノルウェー沿岸のバレンツ海で火災を起こし、沈没した事件があります。この事故では乗員42名が犠牲となり、原子力潜水艦の安全性や環境への影響に対する国際的な懸念が高まりました。

そして、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるフォチャの虐殺が始まった日です。この虐殺はボスニア内戦における残虐な事件の一つであり、民間人を含む多くの犠牲者が出ました。この事件は、国際社会による介入や和平交渉の促進を招くきっかけとなりました。

これらの出来事は、それぞれが歴史的な意義を持ち、戦争や紛争がもたらす悲劇とその影響を考える上で重要な日でした。