kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月6日 1633第一次鎖国令、ほか写真wikipedia長崎出島

4月6日
20250406日曜日旧暦3月9日大安(乙巳きのとみイッシ)月齢 7.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月乙巳きのとみ日  年末まであと269日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%886%E6%97%A5
4月6日の出来事
1199年 – イングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。
1633年(寛永10年2月28日) – 第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。
1921年 – 東京の浅草で大火[4]。 住家や店舗1227戸全焼、同73戸半焼。市民が494人、消防隊50人が負傷[5]。
1941年 – 琵琶湖遭難事故: 旧制四高漕艇部員11名が琵琶湖で練習中に突風で遭難。流行歌「琵琶湖哀歌」の題材となる。ボート部11人死亡。
1977年 – イランのエスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[8]。

2009年 – ラクイラ地震が発生。 309人が死亡、6万人以上が被災した[13]。

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1199年 – イングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。

リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 – 1199年4月6日[1])は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド王(在位:1189年 – 1199年)。
生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた[2]。
逸話
・イングランドで生まれたが、アンジューおよびアキテーヌで育ち、イングランドに滞在することは少なく、英語(中英語、アングロ=サクソン語)もほとんど話せなかった[4]。
・自分を撃ったシャリュ城の若い射手(名前はピエール・バジル(英語版)あるいはベルトラン、John Sabrozとも)に理由を尋ねると、「陛下は私の父親と2人の兄弟を殺しました。どうぞ私も処刑なさってください、敵を討ったことを後悔はしていません」と答えた。話を聞き終わったリチャードは「おまえの命は助けてやる」と言い、正当な戦闘行為によるものだから、たとえ自分が死ぬことになっても、この男のことは許すようにと周りに命じ、報奨金まで与えて放免した[6]。しかし、リチャードがジョンを後継者として亡くなると、この射手は捕らえられ皮剥ぎの刑に処された。
・強敵には敬意を払った。敵将サラディンを「間違いなく最も強力かつ偉大なサラセンの指導者」と賞賛している[7]。
その勇猛さは敵となったムスリムからも評価されていた。サラディンに仕えその伝記を著したバハーウッディーン・イブン・シャッダード(英語版)はリチャードについて「イングランド王の進軍の知らせに、ムスリムたちは震えあがった……戦場に何度も赴き、勇猛な戦いぶりがよく知られていたので、彼ら〈フランク人〉[注釈 1]の目にはフランス王より下の地位にあったとはいえ、富の豊かさ、それに軍事的手腕と勇猛さでは断然上だった」と記した[8]。また同時代のあるムスリムは「彼ほど豪胆な敵、また頭の切れる敵とは、これまで対戦したことがない」と書いている[9]。

1633年(寛永10年2月28日) – 第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。

一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英: closed country) と呼ぶ。

1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。

1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。

1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。

1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[13]。

1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。

1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年)の寛永年間の島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。

1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]。

1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。

1921年 – 東京の浅草で大火[4]。 住家や店舗1227戸全焼、同73戸半焼。市民が494人、消防隊50人が負傷[5]。
1941年 – 琵琶湖遭難事故: 旧制四高漕艇部員11名が琵琶湖で練習中に突風で遭難。流行歌「琵琶湖哀歌」の題材となる。ボート部11人死亡。
1977年 – イランのエスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[8]。
2009年 – ラクイラ地震が発生。 309人が死亡、6万人以上が被災した[13]。

チャットgpt先生の4月6日のエッセイ
4月6日という日は、歴史の流れの中で幾つもの重要な出来事が刻まれている。時代も場所も異なるが、それぞれの出来事が持つ意味は、私たちに多くのことを考えさせる。

1199年、イングランド王リチャード1世、獅子心王(ライオンハート)の異名を持つ王が亡くなった。彼は勇猛な戦士であり、十字軍の指導者としても知られる。しかし、その治世のほとんどを戦いに費やし、イングランドに滞在したのはわずか半年ほどだったという。彼の戦いぶりは敵であったサラディンやムスリムたちにも認められ、まさに騎士道の象徴ともいえる存在だった。しかし、彼の遺したものは、国の発展ではなく、血塗られた戦いの記憶であったことを思うと、彼の名声とその代償について考えさせられる。

日本に目を向けると、1633年には江戸幕府による第一次鎖国令が発布された。これは日本人の海外渡航を制限し、5年以上海外に滞在した者の帰国を禁じるものだった。この後、段階的に鎖国政策は強化され、ポルトガル船の入港禁止などへとつながっていく。外との交流を断ち切ることで幕府は国内の安定を図ろうとしたが、一方で日本の発展や文化の交流に大きな制限をかけたことも事実である。歴史の分岐点として、この鎖国政策がどのような影響を及ぼしたのか、改めて考えたい。

時代が進むと、4月6日は災害の記憶を刻む日にもなった。1921年、東京・浅草で大火が発生し、1227戸の住家や店舗が全焼、多くの市民と消防隊員が負傷した。都市の密集化が進む中での火災の恐ろしさを物語る出来事だ。そして1941年には、琵琶湖で旧制四高の漕艇部員11名が突風により遭難し、命を落とした。この事故は後に「琵琶湖哀歌」という歌として語り継がれることとなる。

さらに、1977年にはイランのエスファハーン近郊で地震が発生し、500人以上の命が奪われた。そして2009年にはイタリアのラクイラで地震が起こり、309人が死亡、6万人以上が被災した。これらの災害は、人類が自然の力の前にいかに脆弱であるかを思い知らされる出来事であると同時に、災害にどう備え、どう復興するかを常に考え続ける必要があることを示している。

4月6日は、戦いに明け暮れた王の死、鎖国政策の始まり、大火や自然災害といった出来事が重なる日である。それぞれの歴史の断片が、私たちに過去を振り返り、今をどう生きるかを問うてくる。歴史は単なる記録ではなく、未来への教訓として私たちの中に生き続けるのだ。