kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月4日 1975ベトナム戦争孤児移送作戦開始一便墜落、ほか写真wikipedia孤児移送作戦墜落機

4月4日

20240404木曜日旧暦4月4日先負 戊戌つちのえいぬボジュツ 清明 月齢 24.7

清明は、二十四節気の第5。三月節。 現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年後で4月7日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。

年末まであと271日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%884%E6%97%A5

4月4日の出来事

1975年 – ベトナム戦争: アメリカ軍が南ベトナムの孤児をアメリカ合衆国本土などに避難させる作戦・オペレーション・ベビーリフトを開始。第1便の飛行機が墜落し、78人の子供を含む130人以上が死亡[7]。

1977年 – サザン航空242便墜落事故: アメリカジョージア州で航空機が市街地に墜落[8]。

1978年 – バングラデシュにサイクロンが接近。小舟約100隻が転覆して約1000人が行方不明[9]。

2017年 – シリアの内戦で、化学兵器の爆弾が使用され、子どもを含む70人以上が犠牲になる[12][13]。

2019年 – 東京地検特捜部が、日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告を会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕。日産に5.6億円の被害を与えた疑い[14]。

————————————————————–   

1975年 – ベトナム戦争: アメリカ軍が南ベトナムの孤児をアメリカ合衆国本土などに避難させる作戦・オペレーション・ベビーリフトを開始。第1便の飛行機が墜落し、78人の子供を含む130人以上が死亡[7]。

孤児移送作戦

ロッキードC-5ギャラクシー

ベトナム戦争が終わりに近づくにつれて、南ベトナム人の孤児とアメリカ人家庭との養子縁組が増加した。1975年3月にダナンが陥落してサイゴンにも戦火が迫ると、数十万の市民が脱出を開始した。

こうした中で、戦争で親を亡くしたベトナム人孤児たちの生命も気遣われ、国際養子縁組を進める慈善団体である「ホルト」(Holt International Children’s Services) や「フレンド・オブ・チルドレン・オブ・ベトナム」(FCVN)、「フレンズ・フォー・オール・チルドレン」(Friends For All Children, FFAC)、「カトリック救援奉仕事業」、「国際社会奉仕事業」、「インターナショナル・オーファンズ」(Childhelp)、「パール・バック財団」などが、アメリカ政府と軍に孤児たちの退避のための要請を行った。

1975年4月3日、当時の大統領ジェラルド・フォードは、ロッキードC-5ギャラクシー輸送機による30回のフライトで孤児たちを避難させるという「オペレーション・ベビーリフト」の開始を声明した。しかし、翌4月4日に飛び立った第1便は事故を起こし、助かるはずであった幼児や子供が大勢亡くなった。この事故の結果、この作戦はアメリカ内外の関心と同情、そして大きな非難を集めることになった。にもかかわらず作戦はその後も継続され、北ベトナム軍の攻撃によりタンソンニャット基地が使用不可能になる4月26日まで継続された。

北ベトナム政府はこの作戦について「組織的な幼児誘拐である」と非難したほか、アメリカや西側諸国においても、あわただしい異国への「避難」が、孤児たちにとって最善であったのかという点が問題にされることもある。「養子」の中には書類が不備のものもあり、のちに実の親や親族との間で親権をめぐる争いが生じたケースもあるなど、養子縁組団体の活動には当時から議論の的ともなっていた。

「オペレーション・ベビーリフト」の結果、戦禍の中から3,300人以上の孤児が南ベトナムから運び出され、アメリカやオーストラリアなどの西側諸国に養子として迎えられることになった。

1977年 – サザン航空242便墜落事故: アメリカジョージア州で航空機が市街地に墜落[8]。

事故当日のサザン航空242便

事故機のN1335U

ロサンゼルス国際空港にて

使用機材:DC-9-31(機体番号N1335U)

フライトプラン:アラバマ州ハンツビル発・ジョージア州アトランタ行き

乗員乗客:85人

運航乗務員:2名

客室乗務員:2名

乗客:81人

概要

パイロットは「飛行ルートに沿って雷雲が広がり竜巻発生の可能性もある」という気象情報を受け取っていたが、「飛行可能」と判断して豪雨の中を離陸した。受け取った気象情報は実際は最新のものではなく、天候は既に悪化していた。離陸してまもなく、大きな雷雲に遭遇するが、迂回せずに機体の気象レーダーで切れ目を見つけ、そこを飛行する判断をした。

実際はレーダーの減衰により切れ目のようになっていただけで、最も嵐が激しいポイントであった。中に入ると突然暴風雨と大型の雹が機体を襲い、雹によりウィンドシールドにヒビが入り始めていた。直進はあきらめ、迂回ルートを取るが、まもなく機内の電力が落ちるというトラブルに見舞われる。しかし電力はすぐ復活した。

アトランタの進入管制から15,000フィート (4,600 m)への上昇を指示されたため、推力を上げて上昇しようとした。するとまもなく1番エンジンが停止、続いて2番エンジンも停止した。補助動力装置により電力は回復するが、エンジンの再始動は成功せず、エンジン停止のまま緊急着陸を余儀なくされた。

東に20マイルの所にある設備の整ったドビンス空軍予備役基地(英語版)への着陸を勧められたが、5,000フィート (1,500 m)を切るまでに降下していたため最も近い空港を要求、北に15マイルで滑走路が短いカータースビル空港(英語版)に変更した。間もなく、カータースビルまでもたどり着けないと判断した副操縦士はジョージア州・ニューホープという町(ウィキ座標)にある幹線道92号線(現在は381号線)を滑走路代わりにして緊急着陸を試みた。

不時着後の事故機の軌道(実線)

タッチダウンはうまくいったが、道路の直線距離が短かった上、道路沿いには電柱や道路標識など障害物が多かったため、大きくバウンドしガソリンスタンドや食料品店などの建物を巻き込んで炎上し大破した。結果、機長・副操縦士を含む乗員乗客の62人と地上にいた8人が死亡した。その後、さらに乗客と地上の各1人が死亡し死者は計72人となった。なお、生存者は22人だった(客室乗務員2人と乗客20人)。

1978年 – バングラデシュにサイクロンが接近。小舟約100隻が転覆して約1000人が行方不明[9]。

2017年 – シリアの内戦で、化学兵器の爆弾が使用され、子どもを含む70人以上が犠牲になる[12][13]。

2019年 – 東京地検特捜部が、日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告を会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕。日産に5.6億円の被害を与えた疑い[14]。