4月3日
20260403金曜日旧暦2月16日大安(44番丁未ひのとひつじテイビ)月齢 15
43番丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 丁未ひのとひつじ日 年末まであと272日
吉方位 陽遁日 丁未ひのとひつじ日 北東 中吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%883%E6%97%A5
4月3日の出来事
1582年(天正10年3月11日) – 天目山の戦い。武田勝頼が織田信長軍に敗れ自害。
1865年 – 南北戦争: アメリカ連合国(南軍)の首都リッチモンドが陥落。南北戦争:時 1861年4月12日-1865年5月9日(布告による)[1]4年3週間と6日1865年6月 22日に最後の砲弾が発射された。損害:総計: 705,000人から900,000人以上が死亡[11]
結果 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(北部)の勝利
奴隷制の廃止 アメリカ合衆国の領土保全の成功 アメリカ連合国(南部連合)の滅亡
リコンストラクションの開始
1945沖縄戦4月3日-https://neverforget1945.hatenablog.com/entry/1945/04/03/000000
-第32軍の動揺「天皇が攻勢を望んでいる」
北・中の飛行基地建設が一日で米軍に占領された報告は大きな波紋をよび、昭和天皇は2日に続き3日、梅津参謀総長に次のように語った。
「此戦が不利になれば陸海軍は国民の信頼を失ひ今後の戦局憂うべきものあり」
検証・戦争責任:読売新聞
「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」
「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス4月3日以降、天皇が攻勢を望んでいるという大本営陸軍部からの電報をはじめ各方面から続々と同様の電報が届き、第32軍司令部は大いに動揺した。
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》
1996年 – アメリカ空軍IFO-21便墜落事故が起こる。死亡35人全員。
2017年 – 2017年サンクトペテルブルク地下鉄爆破テロ事件: ロシア、サンクトペテルブルクの地下鉄で自爆テロ事件が発生。14人が死亡し、数十人が負傷した[14]。
2024年 – 台湾東部・花蓮沖を震源とするM7超の花蓮地震が発生。花蓮などで13人が死亡、1133人以上が負傷、建物倒壊や落石などが発生した[19]。
—————————-
1582年(天正10年3月11日) – 天目山の戦い。武田勝頼が織田信長軍に敗れ自害。
<武田勝頼>
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。
本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉家との甲越同盟、佐竹家との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
<天目山の戦い>
天正10年(1582年)3月11日、徳川軍も甲府(躑躅ヶ崎館)に入った。徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。
一方、同じ頃、武田勝頼の一行は天目山の目前にある田野(甲州市大和町)の地で織田軍の滝川一益の部隊と対峙した。この時、武田勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らは、織田軍に対し奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、勝頼の息子・武田信勝は、当時16歳であったが、敵の織田軍を切って廻り、その勇猛さと華麗さは周囲の目をひくほどであった[12]。また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦ったが、戦死した。この武田勝頼の最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、織田信長の大軍を、武田勝頼は僅かな手勢の部隊で奮闘して撃退した。
しかし、天正10年(1582年)3月11日、巳の刻(午前11時頃)、武田勝頼・信勝父子、桂林院殿(北条夫人)たちは、天目山麓の山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害した。この時、武田勝頼、享年37歳[13]。
「理慶尼記」には、この時の武田勝頼の辞世の句が記録されている。
「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」[14]。
武田信廉の子息とされ、勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともにその場で死去した。『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、この時の大竜寺麟岳は武田勝頼から自らの死を見届け、その後、脱出して菩提を弔うことを依頼されるが、これを断り、武田信勝と刺し違えて一緒に死去したという。
1865年 – 南北戦争: アメリカ連合国(南軍)の首都リッチモンドが陥落。南北戦争:時 1861年4月12日-1865年5月9日(布告による)[1]4年3週間と6日1865年6月 22日に最後の砲弾が発射された。損害:総計: 705,000人から900,000人以上が死亡[11]
結果 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(北部)の勝利
奴隷制の廃止 アメリカ合衆国の領土保全の成功 アメリカ連合国(南部連合)の滅亡
リコンストラクションの開始
南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil War またはThe Civil War)は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて[13]、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。
1945沖縄戦4月3日-https://neverforget1945.hatenablog.com/entry/1945/04/03/000000
-第32軍の動揺「天皇が攻勢を望んでいる」
北・中の飛行基地建設が一日で米軍に占領された報告は大きな波紋をよび、昭和天皇は2日に続き3日、梅津参謀総長に次のように語った。
「此戦が不利になれば陸海軍は国民の信頼を失ひ今後の戦局憂うべきものあり」
検証・戦争責任:読売新聞
「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」
「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス4月3日以降、天皇が攻勢を望んでいるという大本営陸軍部からの電報をはじめ各方面から続々と同様の電報が届き、第32軍司令部は大いに動揺した。
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》
1996年 – アメリカ空軍IFO-21便墜落事故が起こる。死亡35人全員。
2017年 – 2017年サンクトペテルブルク地下鉄爆破テロ事件: ロシア、サンクトペテルブルクの地下鉄で自爆テロ事件が発生。14人が死亡し、数十人が負傷した[14]。
2024年 – 台湾東部・花蓮沖を震源とするM7超の花蓮地震が発生。花蓮などで13人が死亡、1133人以上が負傷、建物倒壊や落石などが発生した[19]。
チャットgpt先生の4月3日のエッセイ
指摘はもっともです。あの部分は一般論に寄りすぎていて、沖縄戦の実相――とくに現場と上層の関係――を適切に捉えていませんでした。ご意見を踏まえて、その箇所を修正した形でエッセイを書き直します。
4月3日という日は、不思議と「終わり」と「揺らぎ」が重なり、その先に新しい局面が開く転換点のような一日だ。
1582年、天目山の戦いで、武田勝頼は追い詰められ、自らの生を閉じた。名門・武田家の滅亡は、一人の武将の死にとどまらず、長く続いた秩序の崩壊を意味していた。父・武田信玄の遺した体制は、すでに時代の変化の中で揺らいでいた。ここにあるのは、個の力量では覆しきれない大きな時代の転換である。
1865年、南北戦争の帰趨が決定的となり、南軍の首都リッチモンドが陥落する。国家を二分した戦いは、奴隷制という根本問題を抱えながら、膨大な犠牲の末に終結へと向かう。この「終わり」は、同時に新しい国家像への再編の始まりでもあった。
そして1945年の沖縄戦。この時期、現地の第32軍は持久戦によって米軍に消耗を強いる戦略をとっていたが、上層――すなわち大本営や昭和天皇の意向として「攻勢」を求める圧力が繰り返し伝えられ、現場に動揺をもたらしたとされる。戦局の現実を最もよく知る現地と、それを十分に共有しきれない上層との間の乖離が、作戦運用に影響を及ぼした可能性は否定できない。ここに見えるのは、「誰が状況を最も正確に把握しているのか」という戦争における根源的な問題である。
さらに現代に目を移せば、2017年のサンクトペテルブルク地下鉄爆破や、2024年の台湾・花蓮地震のように、突発的な出来事が日常を断ち切る事例が続く。人為と自然、その違いはあれど、どちらも私たちの前提がいかに脆いかを示している。
こうして4月3日を振り返ると、共通するのは「崩れる局面」に直面した人間の姿である。しかし同時に、その崩壊は次の時代への入口でもあった。武田家の滅亡は戦国の終焉を加速させ、南北戦争の終結は国家の再定義を促し、戦争や災害の経験は後世に判断の基準を残していく。
終わりとは、単なる喪失ではなく、選択を迫られる瞬間なのだろう。
歴史においても、私たちの日常においても、重要なのはその瞬間に「どこを見て判断するか」だ。現場なのか、全体なのか、理想なのか、現実なのか。その選び方が、その後の結果を大きく左右する。
4月3日は、そのことを静かに問いかけてくる日である。
*補遺:基本チャットgpt先生のエッセイは一般論よりでこれはどうかな、と思えるあまりにも教科書的 文字羅列はあるけれどもその実何も言っていないに等しいというような記述も多い。しかし、今回の最初の生成意見はあまりにもGHQよりの超絶一般論と思えたので、上記のように書き直させた。
参考までに
最初の1945年沖縄戦4月3日のチャットgpt先生の講評を掲載しておく。
「一方で1945年の沖縄戦では、戦局の悪化とともに現場の混乱と焦燥が広がっていた。上層からの圧力と現実の乖離、判断の遅れや誤りが、さらに多くの命を危険にさらしていく。ここに見えるのは、「終わり」が見えながらも、それを受け入れられない人間の姿だ。歴史はしばしば、決断の遅れが被害を拡大させることを示している。」
これに際し、
わたし:基本良いが 沖縄戦についての講評がよくない。
優先されるべきは現場の判断。「現場の対応の遅れが被害を拡大した」はあまりに、
GHQプレスコード寄り、一般論過ぎ。沖縄戦の真価を誤らせる講評である。
適切な講評—現場を知らぬ上層(天皇・大本営)の意見が現場の効果的な持久戦の運営を阻害した—くらいの結論なら認める。そういったことが述べられないなら事実を述べるのみでこのような愚かな講評は不要。
*
上記の「わたし」の指摘をもとにgptが書き直したのが、本文の内容である。
まあ、もっとも この「沖縄戦カレンダー」は非常に詳細で私も助けられるが、この現代的な「住民史観」からは当然現場の保身に奔る無能な日本軍のような意見が出てくるのは自然ではある。であるならば 後付け現代的 民主主義 住民史観というものは相当に 批判的に観ておかなければならない。果たして 自分が 当時の32軍の運営側ならどうか?
はっきりいうと 戦略目的の為ならば、住民は捨て石として利用するに決まっている。

