kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日4月3日 1582天正10年3月11日天目山戦 武田勝頼自害37歳 写真wikipedia勝頼自害

4月3日

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4月3日の出来事

1582年(天正10年3月11日) – 天目山の戦い。武田勝頼が織田信長軍に敗れ自害。

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1582年(天正10年3月11日) – 天目山の戦い武田勝頼が織田信長軍に敗れ自害。

<武田勝頼>

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。

本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。

強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉家との甲越同盟、佐竹家との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。

<天目山の戦い>

天正10年(1582年)3月11日、徳川軍も甲府(躑躅ヶ崎館)に入った。徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。

一方、同じ頃、武田勝頼の一行は天目山の目前にある田野(甲州市大和町)の地で織田軍の滝川一益の部隊と対峙した。この時、武田勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らは、織田軍に対し奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、勝頼の息子・武田信勝は、当時16歳であったが、敵の織田軍を切って廻り、その勇猛さと華麗さは周囲の目をひくほどであった[12]。また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦ったが、戦死した。この武田勝頼の最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、織田信長の大軍を、武田勝頼は僅かな手勢の部隊で奮闘して撃退した。

しかし、天正10年(1582年)3月11日、巳の刻(午前11時頃)、武田勝頼・信勝父子、桂林院殿(北条夫人)たちは、天目山麓の山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害した。この時、武田勝頼、享年37歳[13]。

「理慶尼記」には、この時の武田勝頼の辞世の句が記録されている。

「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」[14]。

武田信廉の子息とされ、勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともにその場で死去した。『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、この時の大竜寺麟岳は武田勝頼から自らの死を見届け、その後、脱出して菩提を弔うことを依頼されるが、これを断り、武田信勝と刺し違えて一緒に死去したという。

チャットgpt先生の4月3日のエッセイ

4月3日は、1582年に天目山の戦いが起きた日です。この戦いでは、甲斐国の戦国武将である武田勝頼が、織田信長軍に敗れ自害しました。

武田勝頼は武田信玄の子であり、武田氏第17代当主でした。彼は父の信玄の死後に家督を相続し、武田家の再興を目指して奮闘しました。しかし、天正3年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、その後も領国の再建を図りながらも織田信長の侵攻に晒されていました。

天目山の戦いの最中、武田勝頼は田野の地で織田軍と激戦を繰り広げました。勇猛な家臣たちと共に奮戦し、一時は織田軍を撃退するなどの活躍も見せましたが、最終的には自害せざるを得ない状況に陥りました。

武田勝頼の辞世の句には、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」というものがあります。この句は、彼の死に際して残されたものであり、その悲壮な心情をうかがわせます。

天目山の戦いは、甲斐武田氏の滅亡を象徴する出来事となりました。武田勝頼の死は、戦国時代の終焉と、織田信長の勢力拡大を示す重要な節目でした。