kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月23日 2015アルメニア人被虐殺聖人に、ほか写真wikipediaトルコ人に追い立てられるアルメニア人

4月23日

20240423火曜日旧暦3月15日大安 丁巳ひのとみテイシ 月齢 14.4

年末まではあと252日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8823%E6%97%A5

4月23日の出来事

1869年(明治2年3月12日) – 明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝。

1969年 – 高校生首切り殺人事件。

1994年 – 井の頭公園バラバラ殺人事件。

1995年 – 村井秀夫刺殺事件。翌24日未明に死亡。

2015年 – アルメニア人虐殺から100年を迎えることに伴い、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者約150万人を殉教者として列聖[9]。

2022年 – 北海道の知床半島沖で、知床遊覧船沈没事故が発生。乗客18人及び船長と甲板員が死亡、6人が行方不明になった[10]。

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1869年(明治2年3月12日) – 明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝。

1969年 – 高校生首切り殺人事件

事件の概要

サレジオ高等学校に通っていた男子生徒Aは、男子生徒Bと一緒に山へ行き、2日前に盗んだ登山ナイフを見せたが、Bはナイフに驚かず「お前の顔は豚に似ているな」と言った。その後、Aは今までに受けたいじめを思い出して憎らしさが込み上げ、Bをナイフで刺した。Bが倒れた後、仕返しを恐れたAは無我夢中でBの首を切断した。

Aは自分のやったことが怖くなって、自身の左肩をナイフで二回切って襲われたかのように偽装し、凶器のナイフは現場近くの土の中に埋めて隠した。そして車で通りかかった人に、3人の不良に襲われて友達が殺されたと嘘をついた。二日後の4月25日にAは警察署で取り調べを受けたが、巡査部長らに「これまでの供述は矛盾だらけだ。本当のことを言いなさい。」と言われ、午後6時15分にBの殺害を自供した。

Aは初等少年院を出所したのち、進学して大学院を修了し弁護士となった(なお、事件発覚後に養子縁組という手法で氏が変更している)。一方、被害者遺族は精神を病み家庭崩壊寸前の状態に陥っていた。Aの父親は、Bの遺族に対し和解金計720万円を毎月2万円ずつ支払うとの示談書を交わしていたが、40万円ほどを払って以降は支払いを滞らせ、1998年に死亡した際には680万円が未払いのままであった[1]。

2006年、事件を取材した奥野修司は著書『心にナイフをしのばせて』を出版し、ノンフィクションとしては異例の8万部を超える売上となった。一方、Aは個人情報がインターネット上で流出するなどの被害を受けた。Aは同年10月に遺族へ謝罪の手紙を送り、残された和解金を支払う意思があることを伝えている。手紙には、遺族に面会して直接詫びたい旨が書かれていたという。

しかし、その後Aは弁護士を廃業し、Aからの連絡は途絶えた[2]。

1994年 – 井の頭公園バラバラ殺人事件

井の頭公園バラバラ殺人事件(いのかしらこうえんバラバラさつじんじけん)とは、1994年(平成6年)4月23日に東京都武蔵野市・三鷹市に所在する井の頭恩賜公園で発覚した、日本のバラバラ殺人事件である。

捜査は難航し、多くの謎を残したまま、2009年(平成21年)4月23日午前0時に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

事件の概要

1994年4月23日午前、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱にポリ袋に入った人間の足首が捨てられているのを、猫のエサを探すため偶然ポリ袋を開けた清掃員の女性が発見した。

駆けつけた警察官らが公園一帯を捜索したところ、計27個に切断された手足・胴体の一部が袋に入って7か所のゴミ箱から発見された。袋は小さい穴のある水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らが使う特殊な方法で固く結ばれていた。

手足の指紋はほぼ全て削り取られていたが、僅かに残っていた指紋とDNAから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の男性(当時35歳)と判明した。死因は不明。肋骨の筋肉繊維にわずかな生前出血の跡があった。

目撃証言などから怨恨説や後述の事故遭遇説、遺体の状態が複数人による組織的な犯行や異常性を匂わすことから宗教団体関与説など様々な説が錯綜していた。しかし、被害者の交友関係からは全く犯人像が浮かばず、犯人に結びつく物証や情報が乏しく、2009年4月23日、犯人の特定に至ることなく公訴時効成立を迎えた。犯人の動機など不明な部分が多い事件である。

1995年 – 村井秀夫刺殺事件。翌24日未明に死亡。

2015年 – アルメニア人虐殺から100年を迎えることに伴い、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者約150万人を殉教者として列聖[9]。

アルメニア人虐殺(アルメニアじんぎゃくさつ)は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件の総称。狭義では特に第一次世界大戦中に起きた虐殺事件を指し、これがオスマン帝国政府(英語版)による計画的で組織的なジェノサイド(虐殺)だったと見る意見が大勢であり、「アルメニア人ジェノサイド」とも呼ばれる。21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な継承国であるトルコ共和国は国際的に非難されている。トルコ政府(英語版)は、その計画性や組織性を認めていない[1]。

アルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これに伴って数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイド(虐殺)の一つであると見なす者は少なくない[3][4][5][6]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は「ジェノサイド追悼記念日」とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。

アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[7][8][9][10]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[11]。

2022年 – 北海道の知床半島沖で、知床遊覧船沈没事故が発生。乗客18人及び船長と甲板員が死亡、6人が行方不明になった[10]。

チャットgpt先生の4月23日のエッセイ

4月23日に起きた出来事の中で、特に興味深いものがいくつかありますね。まず、1869年に明治天皇が伊勢神宮に初めて参拝したことは、日本の歴史において重要な節目です。この行為は、天皇が神道との結びつきを強調し、国家との結びつきを示すものでした。

1969年の高校生首切り殺人事件は、悲劇的な出来事であり、被害者と犯人の間に起きた悲しい因縁が、その後の社会に影響を与えたことがわかります。犯人の行動がどのようにして進化し、その後の彼の人生にどのような影響を与えたかが興味深いですね。

同じ日に起きた1994年の井の頭公園バラバラ殺人事件も、未解決のまま公訴時効が成立したという不可解な結末を迎えました。この事件は、捜査が難航し、多くの謎を残したまま解決されなかったことが、日本の犯罪史における難事件の一つとして記憶されています。

また、2015年にアルメニア人虐殺から100年を迎え、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者を殉教者として列聖したことは、歴史の証として重要な出来事です。この虐殺は、現代でも国際的な議論の的となっており、歴史の教訓を忘れないためにも記憶されなければなりません。

最後に、2022年の知床遊覧船沈没事故は、北海道の観光業界に大きな衝撃を与えました。乗客や船員の犠牲者が出たことは、安全管理の重要性を再確認させる出来事であり、観光業界全体に対する安全対策の見直しが求められました。

これらの出来事は、歴史や社会の一部を形作る重要な要素であり、それぞれが私たちに多くのことを考えさせてくれます。