kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月13日 1943カチンの森事件、ほか写真wikipedia ソ連赤軍に連行されるポーランド将校たち

4月13日
20250413日曜日旧暦3月16日赤口(壬子みずのえねジンシ)月齢 14.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月壬子みずのえね日  年末まではあと262日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8813%E6%97%A5
4月13日の出来事
1179年(治承2年3月24日) – 平安京内で治承の大火(次郎焼亡)。三十数町が全焼。
1856年(安政3年3月9日) – 長崎・下田などの開港地での踏み絵を廃止。
1919年 – アムリットサル事件: インドで起こった独立運動弾圧事件。アムリットサル公園に祭りで集まった民衆を、イギリス軍がガンディーの不服従運動と誤断して発砲。379名が死亡した[3]。
1943年 – カティンの森事件: ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4,000人の遺体を発見と報じる。

1990年 – ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が、カティンの森事件がソ連秘密警察の犯行であったことを認め陳謝。

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1179年(治承2年3月24日) – 平安京内で治承の大火(次郎焼亡)。三十数町が全焼。

治承の大火(じしょうのたいか)は、治承2年3月24日(1178年4月13日)に平安京内で起こった大火災。前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれる。

この日の夜半に七条東洞院(現在の東本願寺南東の角)から出火、折からの東風に煽られて七条通沿いに朱雀大路に至るまで[1]の三十数町が全焼した。この地域は当時の人口密集地であり、そこを直撃したことになる。そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、人々に甚大な衝撃を与えた。

なお、この火災の日付については、『玉葉』が3月24日、『後清録記』が4月24日のこととしており、『後清録記』の日付を採用する説もある。また方丈記に見られる「治承の辻風」は治承4年4月に起きた天災であり、当災害とは別の記事である。

1856年(安政3年3月9日) – 長崎・下田などの開港地での踏み絵を廃止。
1919年 – アムリットサル事件: インドで起こった独立運動弾圧事件。アムリットサル公園に祭りで集まった民衆を、イギリス軍がガンディーの不服従運動と誤断して発砲。379名が死亡した[3]。

事件概要

1917年の英国インド相エドウィン・モンタギュー(英語版)が行った戦後自治の約束(インドの自治を漸進的に実現していくという内容)は形式だけの自治を認めるインド統治法(英語版)の発布に終わり、1919年3月にはローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)が発布された。

4月に入ると、アムリットサル市を中心としてパンジャーブ州(過激派テロ組織「ガダル党」の根拠地でもある)では大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人のイギリス人が殺害されたため、治安部隊が投入され、集会の禁止が通達された。集会の禁止が通達されたものの、4月13日には2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装1万2千人[1]の集会がアムリットサル市で行われた。

女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かったこの集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー(英語版)准将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた[2]。さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。

1943年 – カティンの森事件: ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4,000人の遺体を発見と報じる。

カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦のスモレンスク近郊に位置するカティンの森(ロシア語版)などで約22,000人[1]又は25,000人[2]のポーランド軍将校、国境警備隊隊員、警官、一般官吏、聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件[3]。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

「カティン」は現場近くの地名であり、事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音の言いやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表す名称に用いた[16]。ソ連は在ロンドンポーランド亡命政府に同調を要求したが、逆に亡命政府は赤十字国際委員会による真相究明のための調査を要請したため、ソ連はそれを拒否し、1943年4月26日に亡命政府との外交関係を断絶した[6][17][12][18][19]。

1945年11月から始まったニュルンベルク裁判でも虐殺の責任をドイツに押し付けようとした[20]。1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について、ドイツによる戦争犯罪かどうか討議が行われたが、ソ連の主張は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[21][22]。

ソ連は戦後もカティンの森事件をドイツの仕業と主張し続けた[23]。しかし、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、1987年4月に両国歴史家の合同委員会でカティンの森事件に関する合同調査が検討されることになった[24]。合同調査後の1990年4月、ソ連は事件の非を認め、公式にポーランドに謝罪した[25]。

更には1992年10月にロシア政府は、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、事件はソ連が実行者であることが確定した[6][21][26]。

1990年 – ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が、カティンの森事件がソ連秘密警察の犯行であったことを認め陳謝。

チャットgpt先生の4月13日のエッセイ
4月13日という日は、歴史の中で幾度となく重要な出来事が刻まれてきた。時に悲劇の舞台となり、時に変革の契機ともなったこの日を振り返ることで、私たちは歴史の重みを改めて感じることができる。

まず、日本の歴史において「治承の大火」がこの日に起こった。1179年の平安京を襲ったこの大火災は、「次郎焼亡」とも呼ばれ、前年の安元の大火に続く大規模な災害であった。七条東洞院から出火し、折からの東風に煽られて三十数町を焼き尽くした。人口密集地を直撃したこの災害は、当時の人々に甚大な衝撃を与えた。京都という街は度重なる火災に見舞われながらも復興を遂げ、歴史を紡ぎ続けてきた。その resilience(回復力)は、現代においても都市が災害にどう立ち向かうべきかを考えさせられる。

次に、1856年のこの日、日本において踏み絵が廃止された。踏み絵は江戸時代を通じてキリスト教弾圧の象徴的な存在であったが、開国の流れの中でその役割を終えた。長崎や下田といった開港地では、異国の文化と交わりながら徐々に新しい時代へと進んでいった。信仰の自由を巡るこの出来事は、私たちに信仰とは何か、そして時代の変化がもたらす影響について考えさせる。

さらに、1919年のアムリットサル事件は、イギリス植民地支配下のインドで起こった弾圧事件として記憶される。祭りに集まった非武装の民衆が、英国軍の誤った判断によって銃撃を受け、数百人が命を落とした。この事件はインド独立運動の契機となり、後のガンディーの非暴力・不服従運動を加速させることとなった。暴力による支配の限界と、自由を求める人々の強い意志が交錯するこの歴史は、現代においても繰り返される権力と民衆の関係を考える上で示唆に富む。

また、1943年のカティンの森事件もこの日に公となった。この事件は、ソ連がポーランド軍将校や知識人を大量虐殺したという、長らく封印されていた悲劇であった。ソ連は長年にわたりその責任を否定し続けたが、1990年に至ってようやくゴルバチョフ大統領が事実を認めた。歴史の真実が明らかになるまでにかかった時間の長さは、国家の責任と記憶の継承について多くの示唆を与える。誤った歴史認識が生む影響、そして過去の過ちを正すことの重要性は、今なお世界中の国々にとって大きな課題である。

このように、4月13日は世界の歴史において多くの転換点を迎えた日である。災害、信仰の自由、独立運動、戦争犯罪といった多様な出来事が、この日に起こったことは単なる偶然ではなく、人類の歴史がいかに複雑であるかを物語っている。

私たちは、これらの歴史から何を学び、どう未来に活かすことができるのか。過去の悲劇を繰り返さないためには、記憶を風化させず、歴史を知り、語り継ぐことが不可欠である。そして、4月13日という日を単なる一日の記録としてではなく、未来への教訓として捉え直すことが求められるのではないだろうか。