4月12日
20250412土曜日旧暦3月15日大安(辛亥かのといシンガイ)月齢 13.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月辛亥かのとい日 年末まではあと263日
吉方位 陽遁日
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4月12日の出来事
1204年 – 第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落。当時のコンスタンティノープルの人口は約40万〜50万人と推定される。うち 数千から2万人の市民が虐殺の犠牲になったと推計される。
1638年(寛永15年2月28日) – 島原・原城が落城し島原の乱が終結。戦争:島原の乱
年月日:寛永14年10月25日(1637年12月11日) – 寛永15年2月28日(1638年4月12日) 場所:原城 結果:幕府軍の勝利 幕府より一揆惹起の責任を問われ、松倉勝家の改易斬首、寺沢堅高の天草領没収 損害:幕府軍124000人中 死傷8000人 切支丹軍37000人中 全滅。
1861年 – 南軍が北軍のサムター要塞(サムター要塞の戦い)を攻撃し、アメリカ南北戦争が開戦。1861年4月12日から4月14日にかけて行なわれた戦闘。南北戦争の発端とされる戦いであるが、開戦前の小競り合いとする者もいる。南北戦争を語る上での重要な戦いのひとつである。損害: 北部アメリカ合衆国軍 85名 戦死1人 南部アメリカ連合国軍 500人中 戦死0人。
1877年 – 東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学。現在の東京大学)が設立される。
1883年 – 陸軍大学校開校。
1919年 – 関東軍司令部条例が公布され、関東軍が設置される。
1957年 – 第五北川丸沈没事故。耕三寺参拝の連絡船が沈没事故を起こし、死者・行方不明113人。
2012年 – 京都祇園軽ワゴン車暴走事故。京都市の祇園で運転手のてんかん発作により観光客らが次々と自動車にはねられる事件が発生。運転手を含む8人が死亡。
2023年 – ジャニー喜多川による性加害問題: 元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが日本外国特派員協会で性被害者として会見を行う。
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1204年 – 第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落。当時のコンスタンティノープルの人口は約40万〜50万人と推定される。うち 数千から2万人の市民が虐殺の犠牲になったと推計される。
1204年4月12日、天候が変わり十字軍に有利な状況が訪れた。強い北風のおかげでヴェネツィア艦隊が城壁に接近しやすくなったのである。城壁へと殺到した十字軍は短い戦闘を経て約70人が城内に進入することに成功した。そして数人の兵士が城壁に小さい穴をあけることに成功した。この穴は数人の騎士が同時に這い入ることができるほどの大きさであった。ヴェネチア軍もまた、海上から城壁に殺到したが、こちらは城壁の上でビザンツ歩兵と戦闘を繰り広げた。城内に残された主部塀の中で最も精強な部隊とされていたアングロ・サクソン人から成る戦斧隊(Axe bearers)は、十字軍に敗走・降伏する前に、東ローマ帝国から支払われている傭兵代以上の額で自分たちを再雇用するように十字軍と交渉を試みたとされる[54]。十字軍は戦闘の末、コンスタンティノープル北西に位置するブラケルナエ(英語版)地区を制圧し、ここを拠点として市街の残りの地区に攻撃を仕掛けた。ビザンツ軍は炎の壁で十字軍の侵攻を阻もうと試みたが、逆に市街の建物をさらに焼き尽くしてしまう羽目になった。この2度目の大火では15,000人が家を失った[51]。その後4月13日、十字軍は完全にコンスタンティノープルを制圧した。
コンスタンティノープル略奪
→詳細は「コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)」を参照
コンスタンティノープルを制圧した十字軍は3日間の間、市街で略奪をし続けた。市内に残されていた古代ローマ時代、中世グレコ・ローマ風の芸術作品の多くは略奪されるか破壊された。多くの民衆は殺害され、彼らの財産は十字軍兵士に奪われた。教皇より破門宣告を受ける恐れがある行為ではあったものの、十字軍兵士は市内の教会や修道院を破壊し、汚し、財宝を略奪した[55][21]。コンスタンティノープルでの略奪の被害額は銀硬貨900,000枚分にも及んだと伝わり、このうちヴェネチア軍は十字軍の滞納分として150,000枚を受け取った。対して十字軍は50,000枚の銀硬貨を受け取った。そして100,000枚の硬貨は全十字軍兵士の間でむらなく分け合った。残る500,000枚の硬貨は騎士たちがこっそり持ち帰ったとされる[56][57]。 ニケタス・コニアテスやジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン、ロベール・ド・クラリ(英語版)やコンスタンティノープルの破滅(英語版)を記した無名のラテン人著者といったこの出来事を直接目撃していた者たちはみな、十字軍兵士たちの言語道断なこの略奪行為を非難している[58]。
20⁻21世紀のアメリカ人歴史家en:Speros Vryonisは自身の著作『ビザンチウムとヨーロッパ』で略奪に関して以下のように記している。
ラテン人の兵士たちは、ヨーロッパ最大の都市に言葉で表せないような略奪を行った。彼らは3日間にわたって殺人、強姦、略奪、破壊を行い、その規模は古代のヴァンダル族やゴート族でさえ信じがたいものであった。コンスタンティノープルは、まさに古代とビザンツ芸術の博物館であり、信じられないほどの富を誇る商業都市であったため、ラテン人たちはその発見した富に驚愕した。ヴェネツィア人は(彼ら自身が半ばビザンツ人であったため)発見した芸術を理解し、その多くを保存したが、フランス人や他の者たちは無差別に破壊し、ワインを飲んだり、修道女を凌辱したり、正教の聖職者を殺害するなどして、気ままに休憩を取った。十字軍たちは、ギリシャ人への憎しみを最も劇的に、キリスト教世界で最も偉大な教会の冒涜という形で発散した。彼らは聖ソフィア大聖堂の銀製のイコノスタシス(聖障)、聖像画、聖書を打ち砕き、司教座には娼婦を座らせ、彼女が粗野な歌を歌いながら、教会の聖杯でワインを飲んだのである。東西の疎遠は何世紀にもわたって進行してきたが、コンスタンティノープル征服に伴うこの恐ろしい虐殺で頂点に達した。ギリシャ人たちは、たとえトルコ人がこの都市を攻略していたとしても、ラテン系のキリスト教徒ほど残忍ではなかっただろうと確信していた。すでに衰退状態にあったビザンツ帝国の敗北は、政治的退廃を加速させ、最終的にはビザンツ帝国がトルコ人の格好の餌食となるに至った。こうして第四回十字軍と十字軍運動は、最終的にはイスラムの勝利という結果を招いた。これはもちろん、十字軍の元々の目的とは正反対の結果であった。[55]
1638年(寛永15年2月28日) – 島原・原城が落城し島原の乱が終結。戦争:島原の乱
年月日:寛永14年10月25日(1637年12月11日) – 寛永15年2月28日(1638年4月12日) 場所:原城 結果:幕府軍の勝利 幕府より一揆惹起の責任を問われ、松倉勝家の改易斬首、寺沢堅高の天草領没収 損害:幕府軍124000人中 死傷8000人 切支丹軍37000人中 全滅。
島原の乱(しまばらのらん)は、1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件である[4]。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)[4]、島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)[4]、とも呼ばれる。
島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。
戦力
幕府軍124,000[1] 島原一揆軍37,000[2][3]
損害
幕府軍 8000 島原一揆軍37000全滅
影響
幕府はローマカトリック系のキリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。1639年には鎖国政策を引き締めて[50]、キリスト教の禁教令を強化した。日本のキリスト教徒は生存のために地下に潜伏した[51]。さらに寺請制度により全住民は地元の寺院に登録され、仏教僧によって宗教的所属が保証されることが必要とされた[52]。島原の乱後、寛永17年(1640年)、幕府は宗門改役を設置してキリスト教の迫害を強化したが、アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[53][54]。
天草の場合は、乱の平定後も下島の一部などにキリシタンが残存した[61]。1805年(文化2年)に天草地方の4村に対してキリシタンの取り調べがおこなわれ、5200人に嫌疑がかけられたが村民はキリシタンであることを否定、幕府側は踏み絵と誓約だけで赦免している(天草崩れ)[61][62][63]。
1861年 – 南軍が北軍のサムター要塞(サムター要塞の戦い)を攻撃し、アメリカ南北戦争が開戦。1861年4月12日から4月14日にかけて行なわれた戦闘。南北戦争の発端とされる戦いであるが、開戦前の小競り合いとする者もいる。南北戦争を語る上での重要な戦いのひとつである。損害: 北部アメリカ合衆国軍 85名 戦死1人 南部アメリカ連合国軍 500人中 戦死0人。
1877年 – 東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学。現在の東京大学)が設立される。
1883年 – 陸軍大学校開校。
1919年 – 関東軍司令部条例が公布され、関東軍が設置される。
1957年 – 第五北川丸沈没事故。耕三寺参拝の連絡船が沈没事故を起こし、死者・行方不明113人。
2012年 – 京都祇園軽ワゴン車暴走事故。京都市の祇園で運転手のてんかん発作により観光客らが次々と自動車にはねられる事件が発生。運転手を含む8人が死亡。
2023年 – ジャニー喜多川による性加害問題: 元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが日本外国特派員協会で性被害者として会見を行う。
チャットgpt先生の4月12日のエッセイ
4月12日という日を振り返ると、歴史の中で幾度となく人々の運命を左右する出来事が起こってきたことがわかる。戦乱、変革、そして悲劇がこの日に重なり合い、その軌跡は今を生きる私たちに多くのことを語りかける。
1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落は、西洋と東洋の間に深い溝を生んだ事件の一つだ。元々はイスラム勢力に対する戦いとして始まった十字軍であったが、結果としてキリスト教徒同士が争い、ビザンツ帝国は回復不能な傷を負った。略奪された財宝、破壊された文化遺産、そして市民たちの悲劇は、戦争がいかに大義を失い、破壊と混乱のみをもたらすかを示している。
一方、1638年の島原・天草の乱の終結は、日本史における宗教弾圧と封建的統制の象徴的な出来事だ。飢餓と重税に苦しむ農民たちが立ち上がったものの、幕府軍の圧倒的な兵力の前に彼らは全滅した。この反乱は、鎖国政策をより厳格なものにし、キリスト教徒への弾圧を加速させた。人々が信仰と生活のために戦ったにもかかわらず、その結果はさらなる抑圧と孤立を招いたのである。
また、1861年にはアメリカでサムター要塞の戦いが勃発し、南北戦争の幕が開けた。奴隷制をめぐる対立が国家を二分し、多くの血が流された。日本でも同時期に幕末の動乱が進行しており、時代の転換点には争いがつきものなのかもしれない。
さらに近代に目を向けると、1877年の東京大学の設立がある。これは、日本の近代化における大きな一歩であり、知の中心地としての役割を担うこととなった。同じ日には陸軍大学校も開校され、近代日本の軍事教育が本格化した。知と武が同日に誕生したことは、日本の歴史の中で象徴的な意味を持つ。
しかし、4月12日は明るい日ばかりではない。2012年には京都祇園での軽ワゴン車暴走事故が発生し、多くの命が奪われた。運転手の持病による事故であり、社会の安全対策の重要性を改めて問い直す出来事となった。また、2023年にはジャニー喜多川氏による性加害問題が大きく取り上げられ、権力の濫用と被害者の声の重要性が改めて浮き彫りになった。
こうして歴史を振り返ると、4月12日はただの一日ではなく、数多くの出来事が折り重なる日であることがわかる。戦争と平和、知識の発展と悲劇。歴史の一つひとつが今の世界を作り上げ、私たちに教訓を与えている。私たちはこの日を、単なる過去の出来事としてではなく、未来への指針として考えるべきなのかもしれない。