kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月11日 1994ルワンダ内戦の公立技術学校虐殺、ほか写真wikipediaルワンダ虐殺記念館

4月11日
20250411金曜日旧暦3月14日仏滅(庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 12.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月庚戌かのえいぬ日  年末まではあと264日
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8811%E6%97%A5
4月11日の出来事
1241年 – モヒの戦い。モンゴル帝国がハンガリー王国に圧勝。双方1万人規模で交戦。ハンガリー軍壊滅。
1796年(嘉慶元年3月4日) – 白蓮教徒の乱。1796年から1804年。清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱。死亡者 最低推計: 約100万人 最高推計: 約1,500万人 一般的な推定値: 数百万人(約200万〜500万人)

1994年 – ルワンダ虐殺 公立技術学校の虐殺: 国際連合平和維持活動にあたっていたベルギー軍が駐留先の公立技術学校から撤退後、学校がフツ族民兵に襲撃され2000名の避難民の大半が虐殺される。

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1241年 – モヒの戦い。モンゴル帝国がハンガリー王国に圧勝。双方1万人規模で交戦。ハンガリー軍壊滅。

モヒの戦い(モヒのたたかい モンゴル語: Мохигийн тулалдаан; ハンガリー語: Muhi csata)、もしくはシャイオ河畔の戦い(シャイオかはんのたたかい スロバキア語: Bitka pri rieke Slaná)は、1241年4月11日に、モンゴル帝国のジュチ家の当主バトゥ率いるモンゴル帝国軍とハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍達との間にモヒ(英語版)で行われた戦闘。シャイオ川(ハンガリー語: Sajó)で行なわれたことから、「シャイオ川の戦い」とも呼ばれる。

戦力

モンゴル軍10000

ハンガリー軍11000

損害

モンゴル軍 少ない

ハンガリー軍 壊滅

戦闘の経過

ハンガリーに侵入したモンゴル軍本隊は、バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃ハンガリー軍と遭遇した。数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はシャイオ川とヘルナッド川(英語版)の合流地点近くのモヒ(英語版)平原に入った。一方、スブタイ率いる部隊はバトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するためバトゥが使った石橋以外のシャイオ川の渡河地点を探して南方に進んだ。

ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、シャイオ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。そこでベーラ4世は西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。ハンガリー軍は正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台の投石機(回回砲、トレビュシェット)を前線に投入し、シャイオ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。石橋を得たモンゴル軍は続々とシャイオ川を渡り進撃したが、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をシャイオ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。

ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退した。この時ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎ、身動きの取れなくなったハンガリー軍はモンゴル軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。しばらくしてスブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。ハンガリー軍のうち少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。

結果

ベーラ4世は辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したものの、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入った。 一方、バイダル率いる支隊はボヘミア軍との衝突を避け、4月9日にレグニツァでヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と激突した。レグニツァの戦いにおいて、モンゴル軍は容赦なくドイツ・ポーランド連合軍を殺戮し、ヘンリク2世は戦死した。バイダル率いるモンゴル軍はヴロツワフを破壊するとハンガリー領モラヴィア(現チェコ東部)に移り、1241年にオロモウツでオロモウツの戦い(チェコ語版、ロシア語版)を行なった。

そこで西進中のバトゥ率いる本隊を待って合流し、次の目的地ウィーンを目指した。しかし翌年の1242年にカアン・オゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。

回回砲

回回砲(かいかいほう)、もしくは西域砲・巨石砲・襄陽砲とは、大型の投石機である。

概要

明清午門、元軍は回回砲を用いて襄陽でこうした城門に建てられた高望楼を破壊した。

西アジアの投石機であるトレビュシェットが、元軍によって中国に導入された時の名称である。回回とは西アジアの事であり、襄陽は地名であり、後述の通り襄陽・樊城の戦いにおいて実戦投入された事に由来する。

モンゴル人がペルシアに遠征した時、この地に優れた投石機があることを発見した[1]。その砲身は木で造られ、用いる弾石は150斤(90kg)、射程は400mほどあり[2]、落ちた時も7尺(2m)もめり込み[3]、威力は甚大だった。

至元八年(1271年)、元の世祖クビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠の阿老瓦丁(Ala al-Din、アラーウッディーン)と亦思馬因(Ismail、イスマイル)が徴発された。至元九年(1272年)十一月、阿老瓦丁は回回砲を制作し、大都の午門(正門)での試射が成功した。至元十年(1273年)、フビライは回回砲の砲匠を樊城と襄陽に派遣し、砲の制作と攻城をさせた。『集史』によれば、攻城に参加する回回砲手には、亦思馬因と阿老瓦丁以外にも二人のダマスカス人がいたという。元軍が長江を渡って南下してから、江南の戦場で、『元史』阿老瓦丁伝によれば、回回砲は「毎戦これを用い、全てで効果があった(毎戦用之,皆有功)」という[4]。

1796年(嘉慶元年3月4日) – 白蓮教徒の乱。1796年から1804年.
清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱。死亡者 最低推計: 約100万人 最高推計: 約1,500万人 一般的な推定値: 数百万人(約200万〜500万人)

清代の白蓮教徒の乱(びゃくれんきょうとのらん、中: 川楚白莲教起义)は、1796年から1804年にかけて、白蓮教の信徒が起こした反乱である。白蓮教の乱ともいう。

白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。

それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった。

白蓮教徒たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたために次第に各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自害。

1799年に乾隆上皇が崩御し、親政を開始した嘉慶帝がヘシェンを弾劾し、ヘシェンは自殺した。

1800年に劉之協が捕らえられ、1801年には四川の指導者の徐天徳・樊人傑が自害するなど次第に下火になっていき、1802年頃にはほぼ鎮圧された。

1994年 – ルワンダ虐殺 公立技術学校の虐殺: 国際連合平和維持活動にあたっていたベルギー軍が駐留先の公立技術学校から撤退後、学校がフツ族民兵に襲撃され2000名の避難民の大半が虐殺される。

ルワンダ虐殺

ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語: Rwandan Genocide)とは、1994年にルワンダで発生した大量虐殺である。1994年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された[1]。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、100万人[2]すなわちルワンダ全国民の20%と推測されている。

ツチとフツの確立と対立

19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった[10]。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた[11]。

この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の1つの考え方では、旧約聖書の『創世記』第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[12] と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系、ハム系、ヤペテ系など旧約聖書の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である[13]。ルワンダにおいて、ネグロイドのバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体型を持つ」農耕民族のフツを、コーカソイドのハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた[14]。また、民族の”識別”には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた[15]。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことが挙げられる[16][17]。

公立技術学校虐殺

概要

公立技術学校は、ルワンダ共和国の首都キガリに存在したサレジオ会系のセカンダリースクールであった。ルワンダ虐殺さなかの1994年4月上旬、2000人を超えるツチとフツ穏健派の避難民がフツ過激派の襲撃から逃れるためにこの学校内へ避難しており、国連平和維持軍のベルギー兵が学校の警護を行っていた。しかし同月11日、国連軍が任務を放棄し撤収したため、その後すぐに児童数百人を含む避難民約2000人の大半がフツ過激派民兵のインテラハムウェによって虐殺された。

チャットgpt先生の4月11日のエッセイ
4月11日という日は、歴史の流れの中で幾度も重要な出来事が刻まれてきた日である。世界の各地で異なる時代に、それぞれの国や民族の運命を左右する出来事が起こった。その中から、特に象徴的な三つの出来事を取り上げて、この日が持つ意味について考えてみたい。

まず、1241年のモヒの戦いである。モンゴル帝国がハンガリー王国を打ち破ったこの戦いは、当時のヨーロッパにとって大きな衝撃であった。モンゴル軍の戦術は卓越しており、投石機「回回砲」を駆使した遠距離攻撃と機動力を活かした包囲戦術によって、ハンガリー軍を完全に壊滅させた。ベーラ4世は命からがら逃亡したが、ハンガリー全土はモンゴルの侵略によって荒廃した。この戦いは、モンゴルの軍事力がいかに圧倒的であったかを示すと同時に、ヨーロッパがモンゴル軍の脅威にさらされた瞬間でもあった。

次に、1796年に勃発した白蓮教徒の乱。この反乱は、中国清朝の支配に対する庶民の反発が爆発したものである。白蓮教徒たちは弥勒信仰を背景に、来世の幸福を信じながら戦った。その結果、清朝の統治機構は大きく揺らぎ、鎮圧までに数百万人もの犠牲者を出す大乱となった。この出来事は、長期にわたる平和の中で清朝の軍が腐敗し、義勇兵の力を借りなければ鎮圧できないほど統治機構が脆弱化していたことを示している。また、この乱の鎮圧過程で地方の自衛組織「団練」が発展し、後の太平天国の乱や清末の軍事改革につながる要因となった。

そして、1994年のルワンダ虐殺の中でも特に悲惨な「公立技術学校の虐殺」である。この日、国連平和維持軍のベルギー兵が駐留先の学校から撤退した後、約2000人の避難民がフツ族過激派によって虐殺された。この出来事は、国際社会の無力さを痛感させるものであり、ジェノサイドに対する国際的な対応の遅れがいかに悲劇を拡大させるかを示している。ルワンダ虐殺そのものが、植民地時代の人種政策や政治的不安定さの積み重ねによって引き起こされたものであり、その根底には歴史的な対立構造があった。

これらの出来事は、それぞれ異なる時代と地域で起こったが、共通しているのは、人類が繰り返し暴力と支配、そしてその悲劇からの再生を経験してきたことである。戦争や反乱、虐殺は、その時代の権力構造や社会の矛盾が極限に達したときに発生する。歴史から学ぶことができるとすれば、それは同じ過ちを繰り返さないための知恵である。4月11日という日を通じて、過去の教訓を今に生かし、未来に向けてより平和な社会を築くための努力が求められていることを改めて感じる。