kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月11日 1994ルワンダ内戦の公立技術学校虐殺、ほか写真wikipediaルワンダ虐殺記念館

4月11日

20260411土曜日旧暦2月24日先勝(52番乙卯きのとうイツボウ)月齢 23

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 52番乙卯きのとう日

吉方位 陽遁日 乙卯きのとう日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8811%E6%97%A5

4月11日の出来事

800年(延暦19年3月14日) – 富士山延暦噴火。この日から約1か月間、活発な噴火活動があった[1]。
1241年 – モヒの戦い。モンゴル帝国がハンガリー王国に圧勝。双方1万人規模で交戦。ハンガリー軍壊滅。
1796年(嘉慶元年3月4日) – 白蓮教徒の乱。1796年から1804年。清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱。死亡者 最低推計: 約100万人 最高推計: 約1,500万人 一般的な推定値: 数百万人(約200万〜500万人)

1945年-沖縄戦4月11日・津堅島は、勝連半島の南東にある周囲約8kmの小さな島だが、事前偵察で日本軍の要塞の存在が確認されたため、4月10日、米軍が日本軍陣地の裏側から上陸、11日、これを陥落させる。推定で約234人の日本兵が殺害され、敵施設はすべて破壊された。捕虜は一人もいなかった。・嘉数高地を奪取すべき連隊命令を受けた第381連隊第1大隊は、4月11日午前7時、鞍部を越えて攻撃前進した。・特攻激化-第一次航空総攻撃 (菊水一号作戦 4月6日-11日) では九州と台湾の航空基地からとびたった乗員341名が戦死した*1 。

1994年 – ルワンダ虐殺 公立技術学校の虐殺: 国際連合平和維持活動にあたっていたベルギー軍が駐留先の公立技術学校から撤退後、学校がフツ族民兵に襲撃され2000名の避難民の大半が虐殺される。

———————————

800年(延暦19年3月14日) – 富士山延暦噴火。この日から約1か月間、活発な噴火活動があった[1]。

1241年 – モヒの戦い。モンゴル帝国がハンガリー王国に圧勝。双方1万人規模で交戦。ハンガリー軍壊滅。

モヒの戦い(モヒのたたかい モンゴル語: Мохигийн тулалдаан; ハンガリー語: Muhi csata)、もしくはシャイオ河畔の戦い(シャイオかはんのたたかい スロバキア語: Bitka pri rieke Slaná)は、1241年4月11日に、モンゴル帝国のジュチ家の当主バトゥ率いるモンゴル帝国軍とハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍達との間にモヒ(英語版)で行われた戦闘。シャイオ川(ハンガリー語: Sajó)で行なわれたことから、「シャイオ川の戦い」とも呼ばれる。

戦力

モンゴル軍10000

ハンガリー軍11000

損害

モンゴル軍 少ない

ハンガリー軍 壊滅

戦闘の経過

ハンガリーに侵入したモンゴル軍本隊は、バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃ハンガリー軍と遭遇した。数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はシャイオ川とヘルナッド川(英語版)の合流地点近くのモヒ(英語版)平原に入った。一方、スブタイ率いる部隊はバトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するためバトゥが使った石橋以外のシャイオ川の渡河地点を探して南方に進んだ。

ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、シャイオ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。そこでベーラ4世は西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。ハンガリー軍は正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台の投石機(回回砲、トレビュシェット)を前線に投入し、シャイオ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。石橋を得たモンゴル軍は続々とシャイオ川を渡り進撃したが、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をシャイオ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。

ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退した。この時ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎ、身動きの取れなくなったハンガリー軍はモンゴル軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。しばらくしてスブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。ハンガリー軍のうち少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。

結果

ベーラ4世は辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したものの、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入った。 一方、バイダル率いる支隊はボヘミア軍との衝突を避け、4月9日にレグニツァでヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と激突した。レグニツァの戦いにおいて、モンゴル軍は容赦なくドイツ・ポーランド連合軍を殺戮し、ヘンリク2世は戦死した。バイダル率いるモンゴル軍はヴロツワフを破壊するとハンガリー領モラヴィア(現チェコ東部)に移り、1241年にオロモウツでオロモウツの戦い(チェコ語版、ロシア語版)を行なった。

そこで西進中のバトゥ率いる本隊を待って合流し、次の目的地ウィーンを目指した。しかし翌年の1242年にカアン・オゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。

回回砲

回回砲(かいかいほう)、もしくは西域砲・巨石砲・襄陽砲とは、大型の投石機である。

概要

明清午門、元軍は回回砲を用いて襄陽でこうした城門に建てられた高望楼を破壊した。

西アジアの投石機であるトレビュシェットが、元軍によって中国に導入された時の名称である。回回とは西アジアの事であり、襄陽は地名であり、後述の通り襄陽・樊城の戦いにおいて実戦投入された事に由来する。

モンゴル人がペルシアに遠征した時、この地に優れた投石機があることを発見した[1]。その砲身は木で造られ、用いる弾石は150斤(90kg)、射程は400mほどあり[2]、落ちた時も7尺(2m)もめり込み[3]、威力は甚大だった。

至元八年(1271年)、元の世祖クビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠の阿老瓦丁(Ala al-Din、アラーウッディーン)と亦思馬因(Ismail、イスマイル)が徴発された。至元九年(1272年)十一月、阿老瓦丁は回回砲を制作し、大都の午門(正門)での試射が成功した。至元十年(1273年)、フビライは回回砲の砲匠を樊城と襄陽に派遣し、砲の制作と攻城をさせた。『集史』によれば、攻城に参加する回回砲手には、亦思馬因と阿老瓦丁以外にも二人のダマスカス人がいたという。元軍が長江を渡って南下してから、江南の戦場で、『元史』阿老瓦丁伝によれば、回回砲は「毎戦これを用い、全てで効果があった(毎戦用之,皆有功)」という[4]。

1796年(嘉慶元年3月4日) – 白蓮教徒の乱。1796年から1804年.
清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱。死亡者 最低推計: 約100万人 最高推計: 約1,500万人 一般的な推定値: 数百万人(約200万〜500万人)

清代の白蓮教徒の乱(びゃくれんきょうとのらん、中: 川楚白莲教起义)は、1796年から1804年にかけて、白蓮教の信徒が起こした反乱である。白蓮教の乱ともいう。

白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。

それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった。

白蓮教徒たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたために次第に各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自害。

1799年に乾隆上皇が崩御し、親政を開始した嘉慶帝がヘシェンを弾劾し、ヘシェンは自殺した。

1800年に劉之協が捕らえられ、1801年には四川の指導者の徐天徳・樊人傑が自害するなど次第に下火になっていき、1802年頃にはほぼ鎮圧された。

1945年-沖縄戦4月11日・津堅島は、勝連半島の南東にある周囲約8kmの小さな島だが、事前偵察で日本軍の要塞の存在が確認されたため、4月10日、米軍が日本軍陣地の裏側から上陸、11日、これを陥落させる。推定で約234人の日本兵が殺害され、敵施設はすべて破壊された。捕虜は一人もいなかった。・嘉数高地を奪取すべき連隊命令を受けた第381連隊第1大隊は、4月11日午前7時、鞍部を越えて攻撃前進した。・特攻激化-第一次航空総攻撃 (菊水一号作戦 4月6日-11日) では九州と台湾の航空基地からとびたった乗員341名が戦死した*1 。

・独立歩兵第13大隊(隊長原宗辰大佐)- 日本兵の証言: 嘉数高地

「われわれの大隊は1200人ぐらいだと思うが、4月下旬嘉数を後退するときに100人いたかどうかわからない。われわれの機関銃中隊というのは1個小隊に2銃ずつで全部で8銃です。弾薬は10箱しかなかった。3月22、23日ごろから敵の空襲が本格化すると不安はつのるばかりです。機関銃で2連60発ぐらい撃つと、迫撃砲の集中攻撃をかけてくる。何しろ敵は上空から飛行機でこちらの射撃状況や、自軍(米軍)の着弾状況を逐次キャッチしては連絡するんだから話にならない。銃砲撃戦ではかなわないから、手榴弾の肉薄攻撃、夜襲をかける。敵は電線をはりめぐらせて対応する。こちらは感電することもある。夜間敵のキャンプに接近し、手榴弾を投げつけると、米軍はそのへんをあたりかまわず反撃してくるんです。毎夜こうした斬込隊を送るが、10人のうち生還するのは1人か2人でした。

‥ このためタコツボ作戦をとった。人がすわるとちょうど頭が出るくらいの穴を掘り、この中に斬込隊をしのばせる。ダイナマイト10個を箱につめた急造爆雷をかかえ、敵の戦車に投げつける。距離数メートル。2、3秒で爆発するから、こっちもまず助からない。こうして嘉数、大謝名で敵の戦車17台をひっくりかえした。あのころはまだ負けるなどということは考えもしなかった。わが軍の士気というものはあのころまでではなかったか。… 普通は戦車を先頭にして前進、そのあとを歩兵がくるんですが、敵は作戦をかえた。歩兵を前に出して、タコツボの日本兵を殺してから戦車をくり出すようになった。こうなってはタコツボ作戦も効果なしです。見つかったらまず芋ざしにやられます」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 84-85頁より》

1994年 – ルワンダ虐殺 公立技術学校の虐殺: 国際連合平和維持活動にあたっていたベルギー軍が駐留先の公立技術学校から撤退後、学校がフツ族民兵に襲撃され2000名の避難民の大半が虐殺される。

ルワンダ虐殺

ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語: Rwandan Genocide)とは、1994年にルワンダで発生した大量虐殺である。1994年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された[1]。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、100万人[2]すなわちルワンダ全国民の20%と推測されている。

ツチとフツの確立と対立

19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった[10]。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた[11]。

この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の1つの考え方では、旧約聖書の『創世記』第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[12] と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系、ハム系、ヤペテ系など旧約聖書の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である[13]。ルワンダにおいて、ネグロイドのバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体型を持つ」農耕民族のフツを、コーカソイドのハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた[14]。また、民族の”識別”には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた[15]。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことが挙げられる[16][17]。

公立技術学校虐殺

概要

公立技術学校は、ルワンダ共和国の首都キガリに存在したサレジオ会系のセカンダリースクールであった。ルワンダ虐殺さなかの1994年4月上旬、2000人を超えるツチとフツ穏健派の避難民がフツ過激派の襲撃から逃れるためにこの学校内へ避難しており、国連平和維持軍のベルギー兵が学校の警護を行っていた。しかし同月11日、国連軍が任務を放棄し撤収したため、その後すぐに児童数百人を含む避難民約2000人の大半がフツ過激派民兵のインテラハムウェによって虐殺された。

チャットgpt先生の4月11日のエッセイ

4月11日という日付をたどると、時代も場所も異なる出来事が、奇妙なほど似た構図を持って連なっていることに気づく。そこには「圧倒」と「崩壊」、そして「囲い込まれた空間」という共通の舞台がある。

800年、富士山は延暦噴火を起こし、一か月にわたって火と灰を噴き上げた。自然の現象でありながら、その規模は人間の営みを容易に押し流す。「抗う」という概念すら成立しない圧倒的な力が、まずこの日の記録の最初に置かれている。

それから約四百年後、1241年のモヒの戦い。ここでは自然ではなく、人為による「圧倒」が描かれる。バトゥとスブタイの軍は、数で大きく劣る状況から戦場を設計し直した。川、橋、平原――地形そのものを罠に変え、最終的にはベーラ4世の軍を包囲する。逃げ道をあえて残し、そこへ追い込み、壊滅させる。この戦いは単なる勝敗ではなく、「空間を制御すること」が戦争の本質であることを示している。

1796年に始まる白蓮教徒の乱では、逆に国家側が空間を制御できなくなる。広大な農村に散在する反乱は、一つの戦場に収まらない。包囲も決戦も成立せず、戦いは長期化し、膨大な死者を生む。ここでは「圧倒」は存在するが、それは一瞬ではなく、時間の中でじわじわと拡大する。

そして1945年、沖縄戦の4月11日。この日もまた「囲い込まれた空間」が現れる。津堅島、嘉数高地といった限定された地形の中で、戦闘は極端に凝縮される。とりわけ沖縄戦は、史上最大規模の米軍戦力に対して、日本側が局地的に大きな打撃を与えた戦闘として見ることができる。だがその打撃は、戦局全体を変えるものではなく、むしろ戦闘の激烈さを増幅させる方向に働いた。狭い地域に膨大な火力が集中することで、「逃げ場のない戦場」が完成していく。

そして1994年、ルワンダ虐殺。4月11日の公立技術学校での虐殺は、戦場ですらない場所が「囲い込まれた空間」へと変わる瞬間を示している。本来は避難所であった学校が、外界から切り離された閉鎖空間となり、そこにいた人々は逃げる余地を持たなかった。ここでは軍事的な戦術も自然の猛威も存在しない。ただ、人間同士の関係だけが空間を封じ、結果として大量の死を生む。

こうして並べてみると、4月11日に起きた出来事は、「どこで戦うか」「どこに閉じ込められるか」という一点に収束していく。火山の噴火も、草原の戦いも、島嶼戦も、そして虐殺も、すべては空間の支配とその喪失に関わっている。

歴史の中で人はしばしば「力の大小」や「善悪」で出来事を整理しようとする。しかしこの日付に刻まれた出来事を見ていると、それよりも先にあるもの――つまり「場を制するか、場に呑まれるか」という構図が浮かび上がる。逃げ道があるかないか、包囲する側かされる側か、その違いが結果を決定づける。

4月11日は、偶然にもそのような瞬間が幾度も記録された日である。自然も人間も問わず、圧倒的な力が発揮されるとき、それは必ず「閉じた空間」を伴う。その中に入った者は、しばしば選択肢を失う。歴史はその繰り返しを、静かにこの日付に刻み続けている。